書いてくださること、同じ時代を生きられること。
榛名しおりさんが、先月からブログで毎日のように、過去の自作を振り返る記事を更新されている。
榛名さんは、学生時代からずっと読み続けている大切な作家さん。遠い昔の作品の話を今も大事に綴ってくださることが嬉しく、毎日ドキドキしながら拝読していた。
そして一昨日ついに、大好きな『マゼンタ色の黄昏』に話が及び――
繰り返し読んできた作品についての、作者さんご本人のお話。胸がいっぱいになり、昨日思わずリプを送った。
「こんなに時間が経っても大好きな作品のお話を聞けることが本当に幸せです」
ほんとにこの一言につきる。
(作家さんへの直接のお声がけ、生涯二度目。すごくドキドキした。Twitterは投稿の修正ができないからいっそう緊張する…。)
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「こんなふうに書き仕事をしてきました」
http://harunashiori.jugem.jp/?eid=302
書くことはね、やさしいことではありません。孤独で地味な「一人作業」です。
書こうとしている方たちの「力」に、少しでもなれればなあ、と思うのです。
以前にも書いたように、「そのうち左目も見えなくなるかも」と眼科の先生にはおどかされてます。見えなくなったら、このブログも、書き仕事も、終わり。
今のうちに、今のうちにと思いながら、せっせせっせと書いてます。
見えづらく疲れやすい目。もうすぐ見えなくなるかもしれない目。
それでも、これだけの物語を紡いできて下さったこと。今もなお、それらについて語ってくださること。ありがたい... 嬉しい...いや違うな、幸せ...良かった...どれもそうだけど違う。なんて言えばいい?
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―――この記事、書き出した2/5時点では「でももう二度と新作が読めなくてもいいから、どうか榛名さんの視力が失われないで欲しい」と結んでた。
だってもう、すでに無数の素敵な作品を私たちに届けてくれた。これ以上なんてそんなわがまま望めない。それよりも、どうかただお健やかにいらしてほしい。
そう思ってた。
でも改めてブログ記事を振り返ってみて、それは違うのかなぁ、という気持ちが芽生えてる。
「いつどういう死に方をするにせよ、
死ぬ瞬間に、
まあよくやったよと、自分をほめたい」これが、ハルナの根っこです。
幸せにぬくぬくと暮らした期間の長さを誇るよりも、
一瞬でも自分が輝いた記憶を、大切にしたい。そうすれば、
死ぬとき自分をほめてやれる――ハルナにとっては、
それが何よりのハッピーエンド。
これはきっと小説に限った話じゃなく、榛名さんご自身が、そういう思いで生きているんだな、って。そう思っている方に「もう書かなくていい」なんて、その方がきっと、読者のエゴだ。
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わたしは榛名さんの作品ならきっといつでも、それこそ60歳で出会っても好きになると思うんだけど、だからこそ早い時期に出会えて良かった。
作品とともに年を重ねることができて、新刊をドキドキしながら待つことができて、「いま」の言葉をリアルタイムできくことができて。
書いてくださるものを受け取れること、同じ時代を生きられること。このすごい幸運を、忘れずにいたい。
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(こちらの記事は、以前未完成のまま投稿してしまったものです。慌てて下書きに戻してしまい失礼しました。スキをくださったみんなの世界史さま、申し訳ありません&ありがとうございました。)
(一度投稿したものは、下書きに戻してから再投降しても日付が更新されないようなので、メインテーマは新たに別記事に起こして投稿しました。この記事では、あちらに収められなかったことを残して加筆しています。)
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