DISTORTION

田中フミヤのDJを聴きに行こう。そう思ったらDISTORTIONに行けばいい。DISTORTIONが毎月第2木曜に西麻布のイエローで行なわれるようになってもう1年半も経った。フミヤ氏はここで一晩中DJを行う。私はこのDISTORTIONが大好きで、毎月足を運んでいる。昔ほど毎週のようにはクラブに行かなくなったけれど、DISTORTIONだけは必ず行きたいと思う。
DISTORTIONは平日だということもあって、それほど沢山の人は入っていない。そして淡々としている。特別熱狂的な場面も無いが、独特な雰囲気が作られていると思う。言ってしまえば、ホントに普通のクラブだ。踊って酔っ払って喋って笑って少し騒ぐ。だけど地味なその空間には、無理がない。だらけ具合すら自然で、居心地がいい。

今、クラブ界とかいうものには、盛り上がれるような要素が殆ど見当たらない。ヒット曲も明るい話題も何にもない。でも、というかだから、なのか、最近の来日DJイベントの「頑張ろう、頑張ろう、楽しもう!」というようなおかしなノリには、何だか居場所のなさを感じてしまう。だってあれじゃまるで、学校行事のノリと変わらないじゃないか。私達はああいうものから逃れるように、好きな音楽に自然と傾倒していったんじゃなかったのか。挙がる手とか声が嘘に見えるようになってはおしまいだと思う。

このままいくとクラブがやばいんじゃないかということに、大抵の人は気付いているはずだ。だからといって騒ぎ立てたり、止まったりするのは違うと思う。テクノは終わった、なんて偉そうに語るのは簡単だけど、その言葉はカッコわるい。そんな言葉を使いたくないから、私達はクラブに行く。一晩中踊り続けることはなくても、長い夜のほんの僅かの楽しい時間やいい雰囲気を求めてクラブに行く。そしてそこに小さな希望みたいなものを持っている。だからDISTORTIONのお客さんは減らない。みんなそこで鳴り続ける音と、鳴らし続けるDJが好きなんだ。そして私は、そのお客さん達やそこで毎月会う何人かの友達が好きだ。それは可能性というよりも、信用できるということだと思う。

「田中フミヤのファンはフミヤを通して夢を見ている」だなんて、本当にそうかもしれない。少し夢を見過ぎなのかもしれないけれど、こうやって惹きつけられるDISTORTIONの引力みたいな力には、未来があるんじゃないかと思っている。なんかいいことあるんじゃないかなあ、というようなレベルで。気付いたらこうしてずっと音楽を聴き続けていたんだし、焦る必要はないでしょう。信用できなくなったものは捨ててしまえばいい。フミヤさんは「好きなもんは変わるし。」と言った。じゃあ、変わらず好きなものがある場所に私は行く。くりかえすこともたまにある。でも田中フミヤだけじゃなく、私たちだって醒めてはいるけど全然冷めてはいない。

(SUGERSWEET第8号 1996年7月)

★クラブ中毒者の手記風 DISTORTION終了に寄せて

「DISTORTION」のことについて書くのは多分これで最後になると思う。1994年10月24日にスタートし、毎月第2木曜に西麻布のイエローで定期的に行なわれていた「DISTORTION」。それが今回、1997年8月14日をもって終了となった。私はちょっと胸が痛い。

「DISTORTION」はロケッツの無い東京にとって特別なパーティーだった。ロケッツとは説明するまでもなく、田中フミヤのDJ活動の拠点となった大阪のライブハウスである。田中フミヤを好きな関西在住ではない人間にとってのロケッツとは、大袈裟に言えば憧れのような場所だ。私も何度も足を運んでは、その独特な雰囲気の良さに軽いカルチャー・ショックのようなものを感じていた。だけど、行っても行ってもいくら楽しいと思っていても何か満たされない感じがしたのは、そこは自分の居場所ではないということに何となく気付いていたからだった。私にはロケッツでの思い出がほんの少ししかなかったのだ。だからこそ「DISTORTION」が始まった時は本当に嬉しかったことを覚えている。しかしその雰囲気は、ロケッツで行なわれていた「CHAOS WEST」とはやはり違っていた。こう言っては何だが、東京らしい少しクールなノリだった。だけど決してスノッブではないその空間は何故か居心地が良かったし、毎回挑戦を繰り返すような田中フミヤの刺激的なDJにも愛情が持てた。そしてそれは時間を重ね、ゆっくりゆっくりと素晴らしいパーティーに成長していき、彼と交流の深い石野卓球目当てで来ていた人達も消えてしまった頃には、いつの間にか「DISTORTION」という私達の居場所となって根付いていた。97年に入って彼が後輩のTARO氏とやるようになってからは毎回毎回雰囲気も良く、本当に楽しかった。

実は今、私は「DISTORTION」のことと同時に、東京で数回行なわれていた「CHAOS WEST」というパーティーのことを思い出している。それは名前の通り、ロケッツでの「CHAOS WEST」のノリをそのまま東京にも持って来たい、という田中フミヤの意思によって始められたものだったが、結果的にうまくいかず、すぐに終了してしまったパーティーだった。その時本人が吐いた「やってて得るもんないし。」という言葉は、私の頭にこびりつくように記憶されている。その時一緒に切り捨てようとしなかった事実から「DISTORTION」には得るものがあったと考えるのは安直かもしれないけれど、私は「DISTORTION」を通して大阪にはない東京の魅力を知ることができたのだ。そして続けるということがどんな意味を持つのか、どんなものを生むのか、それを真正面から見た。この批判されやすく、見放されやすく、いつもブームだと片付けられる東京で、どうしてそれがうまく育つことが出来たのかは、仮にもリキッドルームを満杯にするDJのパーティーにも関わらず、「DISTORTION」についての生の記事を雑誌などで殆ど見かけることが無かったことからも明らかに分かる。「DISTORTION」のお客さんは、自分の中の感覚を信じて動いた人達だ。情報に流され、外タレを見に行くような感覚で距離を置いてDJを眺めている客とはわけが違う。田中フミヤに対して厳しく、時に甘い人達ばかりだった。だから続けていたし、続いていたのだと思う。

東京にはロケッツは無かった。それでも「DISTORTION」があったということを残しておきたくて、私はこの文章を書いた。そういえば私がこのシュガースウィートを始めた時、最初に書きたいと思ったことは「DISTORTION」についてだったことを思い出す。これだけ私達に強烈な影だけを残しておいて、何も言わずに足早に次へと進む田中フミヤをちょっとだけ恨みながら、でも本当は何より頼もしいと感じながら、この2年と10ヶ月の夜のことに、イエローの階段を降りて地下室へ向かう時ドアの隙間から漏れてくるあの音に毎月会っていたということに、私はここで名前を付けてシールで閉じて隠そうと思う。

(1997年8月 記事はSUGERSWEET第10号に掲載)

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