いつもそこに当たり前にあるものが有難い。 それはたとえ高価なものではなくとも、代わりのきかないものなのだ。たまにしか着ない高価なカーディガンの肌触りより、使い古した安い部屋着のスウェットが心地良い。そんな体験をした。 先日、家の近くにあるうどん屋に初めて入った。 引っ越してからもうすぐ一年経つけれど、これまで少し敷居が高そうでなかなか入れなかった。小さな入り口には、暖簾に染め抜かれた「手打うどん甚六」という文字。少し緊張しながら暖簾をくぐった。 中に入ると初老の
人が分かり合えないのはそもそも他人の話をちゃんと聞いていないことに起因するのではないか。たとえば街でふと聴こえてきた音楽の様に、歌詞は出てこないがメロディは分かる。会話も細かい詳細は覚えていないが、雰囲気は思い出せる。口ずさむまではいかないが、鼻歌ぐらいなら再現出来る。そんな適当なコミュニケーションばかりなのだ。しかし、会話には絶対に聞き逃してはならないキメの台詞というものが存在する。曲がAメロ、Bメロからサビへと繋がる様に、これが言いたいがための流れというものが確実に存在
コミュニケーション障害、所謂コミュ障とは一体何なのだろうか?自分もそのきらいがある為、これまでも人ごとではなかったのだけど、その正体が最近ようやく分かった気がする。コミュ障とは簡単に言えば〝潤滑油プレイ〟を覚えてこなかった人達、ではないだろうか? 集団というものにはどこも似通った習慣がある。人間関係を円滑に進める為の潤滑油をローションの様に各々が全身に塗りたくり、柔肌を擦り付け合う醜さがそこにはある。例えば挨拶という習慣。これは潤滑油プレイの基本中の基本と言える。しかし
幸せというのは他人と比較するものではなく、その本人の価値観によって生み出されるべきものである。隣の芝生は常に青いものだから、あなただけの幸せの基準を作りなさい。こんな自己啓発本にありそうな言葉を幾度となく人生の中で聞いてきた。これまではそんなページを見つけると鼻糞で糊付して二度と開けない様にしたものだが、あながち間違ってもいないのかもしれないと最近よく思う。他人から見れば決して羨むような生活でなくとも、本人が活き活きとしていればそれでいい。 ある夕暮れ、電車に乗っている