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女性優位の職場で「お局さま」がのさばるのは管理職がだらしないからだ②

 前回の続き。
 就職して最初に遭遇したお局様の言動に、とうとう感情が爆発してしまったわたし。激昂が収まるにつれて、自分のしでかした事の重大さに気づいていきます。
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「ニセ医者」発言の波紋

 まだ携帯電話が普及していない時代。わたしが引き起こした「事件」がどのようにして理事長の耳に入ったかはわからないが、終業間近の20時過ぎくらいに、受付に電話が入った。理事長夫人からだった。
「センセ、どんなに遅くなってもいいから、ウチにお寄りなさい。待ってるから」
 硬質で淡々とした声の響きから、わたしは受話器を置くと同時に苦い唾液を飲み込んだ。

深夜の理事長宅で

 分院から理事長宅までは、自家用車で1時間近くかかる。いつもなら幹線国道沿いの「北の家族」や「つぼ八」といった居酒屋チェーンやラーメンどさんこ、びっくりドンキーに飛び込んで空腹を満たすのが日課だったが、さすがにこの日は空腹感はまったく湧いてこない。渋滞の最後尾でテールランプの赤い光の列を見つめながら、
「きっとクビだな」
 と、長いため息に続けて吐き出した。カーラジオから流れだす曲が桑田佳祐の「悲しい気持ち」だったのはなんとも皮肉だった。

 震える指で理事長宅のドアベルを鳴らす。わたしの覚悟とは裏腹に、出迎えたのは理事長婦人の笑顔だった。
「センセ、どうせ何も食べてないんでしょ。ご飯、用意しているからね」
 展開に戸惑いながらも、理事長夫妻と向かい合って食卓につく。目の前には、すき焼き鍋が湯気をあげていた。

高級霜降り肉だったが、味はまったく覚えていない

 すでに一杯ひっかけていた理事長は終始上機嫌。いつもは辛辣な理事長夫人も、この夜は打って変わった柔和な表情を見せていた。
「この、やんちゃ坊主が」
 彼女は、そんなことを言ったと思う。細かいことはよく覚えていないが、時おり苦笑いを浮かべながらタバコをくゆらせていたのを記憶している。
 厳しく叱責されるとばかり思っていたから拍子抜けだったのだが、理事長の言葉を要約すれば、
「よくやった」
 だった。お前さんのような一本芯の通った人材が欲しかった的なことも。ただし、
「ニセ医者ってのはいただけないね。無免許医を雇っていると噂になったら、分院はこの先やっていけんからな」
 と釘を刺すのも忘れなかった。
 理事長夫妻の態度で理解したのは、分院内にT衛生士への憤懣が渦巻いていたのは十分承知していたということ。しかし、緩みきった綱紀を粛清したのは間違いなくT衛生士の手柄であり、彼女のキツい性格なくしては成し得なかったのも確か。彼女を抜擢した手前、それを理事長の口からは言えなかったということなのだろう。
 まさに、毒をもって毒を制す。
 理事長夫人の口からは、彼女の身の上が語られた。あの美貌でいまだ独り身なのは、若い頃に異性関係で何かがあってのこと。強い言葉は、独りで生きていかねばならない心の弱さの反動。だから許してやって欲しいとも。
 その言葉でわかった。
 ニセ医者事件を理事長夫妻に伝えたのは、T衛生士自身だったのだろうということを。職を辞すつもりだったのかもしれない。普段から強い言葉を発する人にありがちなことだが、無人の野を行くが如しのような彼女の衛生士人生。そこに初めて立ちはだかったわたしに面食らい、混乱していたに違いない。
「わたし、ドクターになればよかった」
 と以前から口にしていたそうだから、キャリアで劣り、知識で勝るわたしが鼻持ちならなかったのは想像に難くない。
 そして、長い夜が明けた。

何事もなかったかのように

 翌日、遅番で顔を合わせたT衛生士とわたしは、理事長夫人の面前で手打ち式を行った。今までの非礼は詫び、自らを反省し、互いを尊重する。そして分院をふたりで盛り立てていくことを誓う。
 何事もなかったかのように、午後の部が始まった───かに見えたが、以前とまったく同じというわけにはいかない。それはT衛生士やわたしではなく、他のスタッフたちがである。

まるで雨後のタケノコ

 T衛生士は発言力を失い、と言うより、わたしや分院長を頂点とする本来あるべき指示系統が確認されたわけだが、若い歯科衛生士や歯科助手にしてみれば、彼女の顔色をうかがうことがなくなったことを意味した。
 実に生き生きと動き始め、表情も以前よりずっと明るくなっていく。T衛生士が何も言わなくなった代わりに、彼女以外のスタッフたちのおしゃべりが多くなっていく。時に姦(かしま)しいほどに。
 分院長もわたしも、分院へ配属されて日が浅い。キャリアで劣る若い勤務医が、T衛生士が引き締めていたキャピキャピ(古っ!)のスタッフを御しきれるはずもなかった。そして問題が起こる。

雨後の筍の如く新たなお局が乱立するとは予想だにしなかった

新たな権力構造

 工業団地のど真ん中に立地する分院の繁忙時間帯は、夕方から終業までの夜間に集中する。そこに投入される人員は、勤務医2、歯科衛生士2、歯科助手3、受付1の布陣で、ユニット数は5。痛みや腫れを愁訴に押し寄せる大量の患者をさばくにはキャパが不足していた。衛生士は主に歯周病の患者にとりつくことになるのだが、そうなると印象する手が足りない。ましてやレントゲンスイッチを押す手もない。
 勤務医も衛生士も、ひとりの患者に充当できる時間は限られていた。皆が最後の患者を送り出して一刻も早く帰宅したかったが故に、衛生士は助手に療養規則に反する行為をやるよう、指示しはじめた(既に時効だが詳細は書かない。彼女らの名誉もある。文章の脈絡から推察されたい)。
 それを注意したわたしに向かって、
「何がいけないんですか?」
 と開き直る始末。
 その様子を、T衛生士は緩く腕組みをした姿勢を壁にもたせながら、無言で眺めているのだった。マスクからのぞく目が、「そら見たことか」と言っているようであった。
 翌日のミーティングで、衛生士、助手の業務範囲の確認が行われたのだが、その日を境に、わたしは孤立していく。
 開業準備を始めていた分院長は何も言わない。発つ鳥あとを濁さずの心境だったのか、それとも大過なく契約期間を終えればいいと考えていたのかはわからないが、われ関せずという態度に終始しつつ、普段と変わりなく過ごしていた。
 一方、わたしに介補が就くのは、理事長、理事長夫人がいるときだけ。たぶん衛生士がそうさせていたのだろう、助手たちもわたしに寄りつかなくなった。一番若い衛生士は、わたしばかりか理事長に向かって口ごたえをするようになり、助手の一部も同調するありさま。
 T衛生士という強力なお局がいなくなった代わりに、小さなお局候補が乱立し始めたのである。

最凶最悪のお局さまが爆誕

 それでも衛生士たちはまだ可愛いもので、わたしに対する以上にオーナーへの不満が大きかっただけに、強い反撃は受けなかった。わたしを働かせなければ、早く帰れない、それもわかっていたのだろうと思う。だから反抗的な態度をとることもあったが次第に介補にも就いてくれるようになっていった──────

 ここからはファンタジー。架空の出来事だと思っていただきたい。
 状況証拠を積み上げて構築されたわたしの推測だが、最後の局面で疑惑が確信に変わった実に口惜しいエピソード。思い出すのも嫌なのだが、同じ思いをしている先生のためにも記しておきたい。

男は経済力、女は色気。古今東西、暗黙の了解だが

 分院のスタッフのなかで、ひとりだけ特異な存在がいた。受付嬢のN美。T衛生士よりはずっと年下だが、他のスタッフの中では年長。さして美人ではないが派手な服装、ケバい化粧をし、エアロパーツで武装した2ドアクーペで通勤してくる。
 ガールズバンド、ロックが大好きで、有線放送でプリンセス・プリンセスや山下久美子の曲が流れだすと、患者がいようがいまいが勝手にボリュームをあげて身体を揺らし踊りだす。T衛生士も小声で注意し、N美もタラコ唇を尖らせて不満げな表情をするも、それ以上の戦闘には至らない。二人の間には不思議なパワーバランスが作用していた。
 それがT衛生士の失脚(笑)をきっかけに、若い衛生士たちの親分格の立場を得たのか、私語の挙げ句に下品な奇声をあげてさわぐことも珍しくなかった。分院若手のオピニオンリーダーといったところだろうか。
 医療法人グループ内の者ばかりか、出入りの技工士や材料商も、これには眉をひそめていたようで、
「どうして理事長はあんなガサツな娘を可愛がっているのかねえ」
 と慨嘆するほど。
 その理事長も分院に来るたびに「N美、N美ぃ~」と声をかけ、まるで自分の娘に接する如くのようわたしには見えたが、娘ではなく、愛人なのでは?と密かに噂されていることを、退職間際になって知った。
 彼女は医療事務はできないし、歯科助手としても働くことはない。受付業務しかこなさないが、特におじさん患者のあしらいは抜群に上手かった。もしかしたら、かつては接客業だったのかもしれない。 
 T衛生士や、他のスタッフたちは、この特殊な、決して触れてはいけない事情を知っていたフシがある。そうとは知らずに、わたしは真っ向からN美の粗雑な振る舞いに立ち向かい、そして尻尾をまいて逃げ出さざるを得なかったのである。
 その顛末は次回



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