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小説創作にデザイナーが参加する事の意味について

デザイナーがボランティアではなく作家と並走する形で参加したノベルジャム2018。その事の意義について、思うところがいくつかあります。3月にはグランプリもあり、デザインにも何らかの賞が与えられるそうですが、どのような視点で評価されるのかはまだわかりません。

個人的には著作者が納得し、読者に愛され、一定の訴求力とともに売り上げに貢献すれば賞にはほとんど興味はないのですが、今後のセルパブの表紙作りのあるべき姿、その方向性を決定づける可能性があるという意味で、評価基準にはたいへん興味があります。
そんなわけでグランプリではデザインに対する評価もあるわけですが、自分の中では既に最高金賞は決まっているので、己の反省と共に書きます。

てなわけでまず反省から。
結論を言うとデザインではほとんど歯が立たなかった、というのが正直なところです。こんなことを言うと同チームの作家さんに申し訳ないのだが本当のことで、みんな著作に目がいっているけれど(当然です)デザインのバトルも実はすごかったのです地味に。
で今回参加したデザイナーはざっくりカテゴリ分けすると以下のようになると思います(間違っていたらご指摘ください)。

1 職業的ないわゆるグラフィックデザイナー
 1−1 エディトリアル・装丁のプロ(A山家さん、H嶋田さん)
 1−2 広告・プロモーションのディレクター(C自分)
 1−3 デザインも含めてマルチでこなす出版系(B波野さん)

2 イラストや絵画など作家性を問うデザイナー
 2−1 イラストレーター(E藤沢さん、D古海さん)
 2−2 画家・絵師(F w.okadaさん、G澤さん)

実は自分の立場はBチームの波野さんに割と近いと思います。商材に対する販促的な作り方に、けっこう振り切っている所がある。だけど、著作者の作品の顔が販促情報でいいのか、という疑問も一方であるのも事実。PR活動も含めて評価されるグランプリがあるとはいえ、ノベルジャムで問われているのは基本、文芸としてのクオリティであって、何かのスペックを競うわけではないのです。
だから今回特に難しいと思ったのは

・作家性:その作家の著作に相応しいオリジナリティを持ち、作品と相補関係で魅力を倍加させる「作品」としてのデザイン
・デザイン性:商品としての品質の担保と情報の適切な提供を兼ね備えた、意図を持って設計された販促物としても完成されているデザイン

上記2点のバランスを行うのが個人的にはしんどかったです。というか作家性、というものがそもそも自分にはないので、まずその部分を仮構することから始めなければならなかったし、販促物としての設計も、書籍のデザイン自体が初体験なので手探りにならざるを得ませんでした。

作家性を仮構する、というと聞こえは悪いかもしれないけれど実際の制作方法なので補足しておきます。広告やプロモーションのデザイナーの多くは、0から1を作り出すのではなく、1を別の何かにするのが主な仕事で、1+1が単純に2になることもあるし、「4」や「100」になることもある。冴えた作り手なら「X」や「あ」や「#」になったりもします。
だから過去事例は基本的に参照するし、参照したアイディアや表現方法の組み合わせも試みます。特に時間が限られている場合、利害関係者間で最短でゴールイメージを共有するため採用することが多い、いわゆる「置きに行く」というやつで、自分の場合も過去のビジュアル資料は普通に参考にするし今回もしました。ヒントを得たら別の角度や異なる文脈で再演させる、というと多少はわかりやすいかもしれません。
しかしそれも、作家性の高い、その熱量の高さに裏打ちされたデザインの迫力の前には無力、とまでは言わないが差はありました。著作者さんは喜んでくれたし、読者に対しても一定以上の訴求力があると自負してはいますが、それでも、特にツイハイのジャケットを見た衝撃は、ごく控えめに言って木っ端微塵と言っていい(今回のノベルジャム作品の表紙群の中で一つの極であるように思われます)。

で問題のバランス感覚なのですが、この点ぶっちぎりでクオリティが高かったのはチームAの山家さん(DIY BABY グッバイ・スプリング)で、デザイン性においては、この方には太刀打ちできませんでした。明らかにレベルが違う。Hの嶋田さんの作品(オートマティック・クリミナル たそかれ時の女神たち)も素晴らしかったけれど、クロージングに至る情報設計まで緻密にケアした山家さんの作品がやはり図抜けていたと思います。未だに「DIY BABY」と「グッバイ・スプリング」のジャケを見ると、自分の実力の無さを責められるようでものすごく悔しい気持ちになるのです。3月のデザインに対する何らかのアワードは、この2作品のどちらかで決まりと思います。澤さんのツイハイの表紙も大好きですが、ストラテジックなデザインを標準とする風潮をセルパブ界隈で作るのなら(必要だと思う)、デザインアワードは「DIY BABY」か「グッバイ・スプリング」であるべきだと考えます。

それにしても様々なアプローチの表紙が並ぶのは楽しく興味深いものです。読後にも楽しい藤沢チヒロさんの「平成最後の逃避行」、挿絵とともに作品世界とシームレスに一体化した w.okadaさんの「味噌汁とパン・オ・ショコラ」、異物を差し込み「?」を投げてくる澤さんの「ツイハイ」、ポップなイメージの中に企みを感じる波野さんの「バカとバカンス」、萌絵の毒を中和して可愛さだけを抽出す事に成功した、古海さんの「魔法少女リルリルリルリと俺の選択」、キャラクターのシルエットから予感を生み出す嶋田さんの「オートマティック・クリミナル」、あとほかにもたくさん。

ノベルジャムは出版を再定義する、といいます。その伝では今回デザイナーを公募したのは本当に価値のあることだったと思います。特にプロットの段階からデザイナーが議論に参加するというのは出版でも、あるいは珍しい試みだったのではないでしょうか。
昨年も今回も、著者と編集が練ったプロットに基づき作品世界を表現するデザインを、デザイナーに「発注する」という流れであったので、出版の世界ではそれが普通のようです。けれど、限られた時間とリソースの中で著作と並行してデザインが走る、という特殊な状況が、想定された流れを一部破壊したと思うのです。

というのも最近、特にパッケージデザインのジャンルでは、UXの観点から、商品開発の段階でデザイナーが参加することが多くなってきています。
かつては開発が商品を作りマーケと営業が茶々入れする間に発売日は迫り、工場の都合ですぐにでもパッケージデータが必要で、とそうなってからデザイナーに依頼が来る、という実に乱暴な構図がありました。しかし最近はユーザーエクスペリエンスの概念によって、商品を消費するのではなく体験を消費する、という考え方が浸透し、その体験を設計するために割と初期の頃からデザイナーとして呼ばれることが、個人的にもポツポツ出てきています。
そうでなくとも開発の依頼で生煮え段階からコンセプトデザインを作ることは多く、とりあえずガワを作ってみてからポジショニングを詰めていくという作法は商業デザインの世界では割と普通の事だったりします。

だから生煮え上等、素のアイディアの状態からデザイナーも参加し、全体として体験の質を上げていく、という制作手法を、狙ったのか偶然なのか、出版文化の中にあるであろうノベルジャムで行われたことは興味深いと思うのです。


ノベルジャム2018の一覧はこちらで見られます


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