78歳の父が急性くも膜下出血で倒れてからのこと(1)当日編

初めまして。34歳会社員、女性のさすてなといいます。

【もともとの家庭の状況】

我が家は私が中学校の入学式を迎えた時にはすでに母が乳がんで入院をしており、私が15歳の高校1年生、弟が中学3年生の夏に、母は他界しています。

なのでそれから20年ほど、父と我々兄弟の3人家族でやってきました。社会に出てからは兄弟も一人暮らしなどして(去年弟は結婚して世帯もちに)家を出ていたこともあって、父は、暮らしの全て、3食の調理から掃除、庭の手入れから洗濯から何からを自分で行い、さらに毎週水泳とテニスに通い、毎夏税理士試験の勉強までこなすスーパーお父さんでした。

我が家の家計は気管支が弱く、それ関連で体調を崩すことはみんなあったものの、まさかくも膜下出血で倒れるなんで1ミリも予想していませんでした。

直後は対応に追われるものの、それまでと全く変わった父に驚く暇もない、と言った感じでした。一般的に親の介護へ関わる年齢はもう少し後だと思うので、34歳が等身大で父のそばでやれたことを記録します。


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2018年12月23日日曜日14時前。会社のデスクで作業中に、プライベートiPhoneの着信音が鳴った。

用のない電話が殆どなので、確認もせず無視することも多いが、その日はなぜかすぐに出ようと思った。

おばからだった。
「さすてなちゃん?落ち着いて聞いてね?」

「はい、」
訳もわからないままとっさに答えた後に続いた話を聞いて久しぶりの体の震えだった。

おばからの話では、父がスイミングスクールで急性蜘蛛膜下出血で倒れ、湘南鎌倉病院に運ばれた。弟にも連絡済みなので、連絡取り合って対応してとのこと。

あとから振り返っても手短に簡潔に、落ち着いてまず事実だけ伝え、指示を出してくれたおばには、本当に有難いなあと思う。
病院に着いてから弟が警察やスイミングスクールとのやりとりを共有してくれたのと、手術を担当した部長の先生が教えてくれたのだけど

スイミングスクールの会員証記載の個人情報が入会した平成11年くらいとかから更新されておらず、私と弟の年齢も当時の8歳とかのままで、もちろん携帯番号もなかった。
自宅に電話しても、もちろん誰もいないが、母が他界したことも伝わっておらず自宅に何度も電話がいってしまった。
本当に有難いなぁと思うのは警察の方が、機転と勇気を利かせておばの家に電話してくれたこと。本当は、個人情報保護の関係で公にはとりにくい行動だったと思う。

父がプールサイドで倒れ、プールに転落したのが午前9時頃。(のちにスイミングコーチの先生の話で「転落」ではないことがわかる、伝言ゲームあるある)

父が倒れてから約5時間が経過。病院では、現在手術中で、終わるまでに来てもらえればとのことで、それまではまだ時間があったので、私と弟はまず実家に集合して必要になりそうなもののピックアップと打ち合わせをすることにした。

まず、手術は成功するのか?命は取り留められる状況なのか?入院生活を前提として行動するのか?そういったことが曖昧な状況の中で落ち着いて行動するように言い聞かせるしかなかった。

でもここまで本当に幸運なんだから。家にいたらそもそも発見してもらえてない。大丈夫だ。足が震えるけど。

16時くらいに実家の最寄駅に着く。もしかしたら今夜は帰れないかも、これから食べれないかもと思考をぐるぐるさせながら、小学生の頃よく通った、小町通の駄菓子屋さんへ。四半世紀立っているのに、お店の奥様は背筋がピンとされて、ハキハキとした接客。なんか鳥肌が立つ。自分の人生が過ぎ行く中で同じ場所に同じままでいてくれることがどれだけ有難いか。

お菓子を買って。弟が「まずお母さんのところに行こう」というので、仏花も買う。家に着く。

まだ弟夫婦は来てない。

静かな、いつも通りの、実家。

母の仏壇がある、和室に、ぺたんと座る。

母にとりあえず謝ろうと思い、父の連絡を受けることが遅れてしまった謝罪と、これからどういう気持ちでどう行動するつもりか決意表明する。

涙が出てきた。

弟たちが来る前に出しとこうと思った。

そしたらすっきりして、気持ちが切り替わった。

私が元気で冷静でいなくては。そうそう。こういう切り替え、できる方なんです。

弟たちが到着してお墓参りをして、一息入れると、もう病院へ行く時間だった。

その病院は、兄弟も行ったことはあるがかなり久しぶりの病院。駅からのバスも、地元の市内なのにどれだっけ、となる。

病院について救急外来にて父の名前を伝えると、ECUのフロアへ案内してくれた。この病院の救急は規模が大きくて、数分おきに次に到着する救急車情報のアナウンスが流れていた。

ECUになるのか、ICUしか知らんな、emergencyのEか、とかそんなことを思った。

ガラスの自動ドアは、片足の先を右壁の床近くにある凹みに差し込むと、開く仕様になっている。生物学科時代の、コンタミを防ぐ研究室の仕様を思い出す。

どんな状況なんだろう

すぐに担当のECU看護師さんが来てくれて書類の説明があった。記入して手術が終わるのを待った。記入を求められたのが、入院手続きに関することだったので、あれもしかして命は?と言うほっとするような気持ちがありつつも、手術が終わるまでは何もわからない状況だった。

20時くらいだったと思う、手術が終わった。先生が出てきてくれた。

”命はなんとか無事、取り留められました。”

ほっとした。色んな辛い予想が消えた。

急性くも膜下出血、硬膜下血腫、脳内出血が起きていたため、統計的に助かる確率は30%のところを、先生方、スクールの先生、警察の方、そして父自身が頑張ってくれて、乗り越えられた。

先生からあった説明は、

・急性硬膜下血腫は、脳を壊しながら出血を起こす。再破裂の予防が重要。

・脳の隙間へ血が全体にまわってしまう。出血から2週間の間は、頭の中血みどろなので、まずそれを早く綺麗にしなくてはならない。髄液がきちんと再生産され、血が洗い流されて吸収されればよいが、 血がべったりなので吸収されにくい状況だと、水頭症と言って、髄液を貯める部屋の水の量がうまく調整できずふくらんで、脳圧迫することがある。これも予防していくし、万が一起きても、治療で治る。

・出血にさらされた脳は、これ以上血を出さないようにと縮まる(血管れんしゅく)恐れがあるので、予防薬を処方して対応していく。

・急に胃潰瘍や、水に落ちたことでの肺炎を起こすことがあるのでそれも気をつけて行く。 

・その後、起きあがる練習を。

と言う内容。今から24時間は、どんな急変が起きてもおかしくない状況なので、また、明日10時に病院へ来てください、とのこと。

ECU内に入れてもらい、父に面会する。​包帯でぐるぐる巻きになった頭頂部。出血したせいで、顔も腫れている。意識はなくて、眠っているような見た目。とにかく、手術乗り越えてくれてありがとう、明日また来るからね。

いろんなことを思うけど、言葉にならない。

ECU内は、偏見と違い、忙しそうではあるが、バタバタはしてないくて、ベット数も片手で数えるくらいの規模で、看護師さんたちの数も充足しており、すぐ近くで24時間見ていてくれる感じなので安心した。

弟夫婦は明日またすぐ来なくてはということで実家に泊まり、私は大倉山の家に戻ることにした。

本当は戻るのは怖かった。でも、一方で絶対大丈夫だという気持ちもあった。万が一何か起きたとしても弟たちもいるし、私はきちんと寝て、いつでもゴリゴリ動ける体制に回復しておこうと思った。


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