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「君の名は。」と「天気の子」 共通点と進化したメッセージとは

「君の名は。」からもう3年も経つのか。ついに公開となった「天気の子」を見るに際し、そう思った。社会現象となったあの映画の衝撃を食らったのがまだつい最近のことのように思われるが、日本の映画史に数々の記録と、人々の記憶に残る伝説を生み出した同作品。公開初日に初めて見た時、ストーリーと深く共鳴した音楽の洪水によってか、流されるように溢れ出てきた涙に伴う感動。その涙の訳がわからず、色んな人と、当時は計5回も映画館に見に行った作品だった。

〜 以下「君の名は。」「天気の子」に関するネタバレを含みます 〜

さて、そして「天気の子」。

昨日公開され(執筆時)、SNS上に溢れ出るであろう感想やネタバレを遮断し鑑賞した本作。場所は奇しくも作中の舞台となり、映画鑑賞自体で聖地巡礼を味わえることとなる新宿歌舞伎町に位置する新宿TOHOシネマズ。

結論から言えば、正直自分の中では「君の名は。」程の感動は起こらなかった。故に「君の名は。」超えはならなかった。作品としても「君の名は。」の方が個人的に好みだと思った。

もちろんあくまで前作との比較においてである。
穂高が例のビルで追い込まれながら、刑事を振り切り屋上を目指すシーンと、その時の彼の叫びには相当にぐっと来たものがあったし、あそこの畳み掛けには相当に揺り動かされた(けど涙はこぼれるには至らなかった。)

一方で、一緒に見に行った同世代のメンバーからは絶賛の声も聞こえた。割と作品の嗜好性で似たりもする知り合いも「前作はうーんだったけど、今作はいい!」という反応があったり。(複数人で映画を見る楽しさはまさにここなのだが、それぞれの人生なり、通ってきた経験・考え方が異なるからこそ、感じ方が違い、それに触れられることで映画の体験がやはりより一層楽しくなる)

本稿では以後、なぜ本作と前作で自身の感動に差が生じたのか、「天気の子」と「君の名は。」の共通点や差異、「天気の子」に見られた進化を追いつつ考えてみたい。

※以下、作品に対して批判的に聞こえる部分があるかもしれないが、大前提、脚本も書き、アニメーションも作り、編集し、音入れまで自分でこなしてアニメーションを声優に託す新海誠監督は、本当に、ものすごい人だと思っている。その上で、個人として作品に対して思ったことを記していく。

■感動しきれなかった最大の理由
個人的なこの問への回答は「構え」にある、と考える。前作「君の名は。」では、おそらく様々なことが実験的だったと思う。インタビューでも節々に新海さんやRADWIMPSのメンバーが口にしているが、「君の名は。」では、取り組んだことが、想像のはるか先を超えて(とはいえ新海さん自身は、ある程度遠くまで行く可能性も含め手応えを事前に感じていたとはおっしゃっているが)結果に跳ね返って来た。パンフレットに記載されている新海さんご自身の言葉にも、前作である程度の世の中の広がりを得られたからこそ、観客の期待も踏まえ、「前作の構成」と常に対比させながら脚本はじめ作品作りを本作進めたとのこと。それは様々な所で、前作との共通点として感じられたし、だからこそ「こう来るのかな?」という鑑賞時の構えを否応なしに自分には生んでしまった、様に思う。ある種、衝撃波を全く無防備で受けた前作に比べ、やはりある程度の「防御」に近い身構えを持った上で臨んでしまった今回では、感動に差が出るのは仕方がないようにも感じる。

【「君の名は。」と「天気の子」との共通点】

ではどんな所が前作と似ていたのか。250億円を超える記録的なヒットとなった前作、そしてほぼ同じクリエイティブスタッフが生み出している本作には「ヒットを生み出すエッセンス」がふんだんに詰め込まれている様に思う。思いつくことを言語化しておきたいと思う。

①極めて短いタイトル付け
前作「君の名は。」は音では6文字、句読点含め表記では5文字ととにかく短い。(英語の「Your Name」と単語数では僅か2文字。)同様に、「天気の子」は音で5文字、表記は4文字と短い。シンプルイズベスト。短いほどコミュニケーションにおける伝達力は高まる訳でそこを意図しているのは間違いないだろう。また本作の英語タイトルは「Weathering with you」。英語の「weather」には「天気」という意味の他に動詞として「(困難を)乗り越える」という意味があり、天気というタイトルに加え、ストーリー的な「あなたと一緒に乗り越える」というダブルミーニングも付加されているのだ。正直めちゃくちゃ良いと思った。

②ユニバーサルなテーマ設定 / 時代の空気感の注入
初めて「天気の子」というタイトルを聞いた時、超大ヒットの次作品として(ヒットさせなければいけない作品作りにおいて)テーマの広さとして目の付け所がさすがだなぁと思った。映画などのコンテンツでもそうだと思うが、やはり世界的にヒットする映画は万国共通のテーマがメッセージの核にある。昨今のヒット作で言えば「ワイルドスピード」は「車」というテーマと「家族」というコアなメッセージの掛け合わせ。トイ・ストーリーも「おもちゃ」という誰もが触れているテーマにキャラクターの「成長」や「絆」を掛け合わせている。

新海さん自身は、本作のテーマ設定を2017年の3月、「君の名は。」公開から約半年後に着想したと答えている。

『君の名は。』のプロモーションで忙しい時期に、空の雲を眺めていて「あの雲の上でぼんやりゆっくりしたいな」みたいな気分だったのが発端かな(笑)。それが「天気」という形になっていったのは、誰もが自分との関わりを感じられる題材にしたいと考えたからです。天気は、人間のスケールをはるかに超えた巨大な大気の循環現象なのに、それによって体調が変わったり、気分まで影響を受けたりする。これは結構おもしろいモチーフだぞと
もう一つは、自分が一番気になってることをテーマの中に入れようとしたからです。僕はこれまで、映画の中で、日本の美しい穏やかな四季を折々の天候も含め、情緒として描いてきました。でも近年、猛暑が続いたりゲリラ豪雨が当たり前になったりするなかで、「天候が変わってきた」と強く意識するようになりました。こうなると天気は、情緒というより、人間に相対するもの、備えなくてはならない対象に変わってきます。そういう生活実感が時代の気分の中にあるので、天気を通じて、今の気分を映画の中に持ち込めるんじゃないかと考えたんです。

いずれの作品でも天気も含めた日常の光や情景の変化を美しく描いてきた強みが生かされることが大きいとも思うが、日常的な感覚の中でこうしたこと(天気というテーマのユニバーサルな広さへの)気付きを見逃さないことがすごいと思う。

前作においてはそうしたテーマという視点では「Boy Meets Girl」という点や「(人間が抗えない)自然の壮大さ」みたいな所は本作も共通だろう。ただ、前作は「彗星」による自然の猛威の描写は、なにかしら「東日本大震災」を受け5年経ったからこそ描ける1つの形として、日本人に響く空気感や時代の気分を捉えた描写となっていたと思う。そうしたダイナミズムにおいて前作ほど個人的にはなかったが、それでもまさに、昨今猛威を振るう異常気象を鑑みると、世の中の気分を言い得ている所はさすがではないだろうか。

③冒頭導入でのプロローグ
物語のキーとなるシーンを本編の頭で挿入する手法はいずれも共通していた。前作では「彗星」。今作では「陽光」。どちらも主人公の語りとともに描かれている。

④共感性のあるメッセージ
前作において「Boy Meets Girl」としての恋愛映画というエッセンスはもちろんあるのだが、それ以上に「(ずっと)何かを探しているという誰もが持ち得ている感覚に個人的に非常に強く共感した。それは「人」なのかはたまた「もの」なのか、いずれにしても常に共にしていない「何か」を探し求めている、満たされない感覚を、前後の時間軸を織り交ぜたある種の強烈なノスタルジーと共に刺激した所があった様に思う。

今作はその点、穂高が叫ぶように「あの人にもう一度会いたいんだ!(例え世界が狂ったままでも)」と他者を一途に思う気持ちが何より全面に押し出されている。(ただそこの結論の設定にはひねりがある)これは印象論でしかないかもしれないが、今作は、前作以上に主人公二人(というか穂高が相当一方的かもだが)がお互いを思い合う描写の純度がとにかく高かった様な気がしており、正直見ていて気恥ずかしくなる(うあーそれ言ってしまうんかというような)所が前作以上にあり、ターゲットとのギャップを感じざるを得なかった。。間違いなく10代の時にこんな作品を見たら感化されてしまうだろうが・・・。

⑤リアリティのある情景描写(気象、ロケーション、商品、etc)
これは言わずもがな新海作品の真骨頂はここにある。今作は晴れや雨といった今までの情景描写も変わらず瑞々しく美しいが、前作以上に商品のプレースメントが凄まじい。そちらについては以下にまとめてみた。

⑥「転」の強さとタイミング
「君の名は。」を見た時に最初持っていかれたポイントは「起承転結」の「転」である。旅行に興じる「瀧」御一行が旅先で知る数年前に三葉は既に死んでいる、という衝撃の事実。これ一体どうやって回収するんだ・・!?と思ったのを覚えている。感動を呼ぶテクニックとして「弛緩と緊張」(たるませておいて引っ張る)と「逆行」(ポジと思わせてネガ、逆もしかり)は大変重要だと思うが、ここはまさに、のほほんとした旅の情景からの衝撃展開という弛緩の設計が絶妙だった。

今作においてはその点、「転」に転じるタイミングも運びも似ていた。(多分1時間前後の折返し位)最後の晴れ女の願いとして須賀の家族との団らんというのどかな雰囲気と、穂高が陽菜にプレゼントを渡すというポジティブな展開、だからこその「逆行」的で緩急のあるショッキングな展開(陽菜の体の変化=晴れ女の理由の吐露)への突入

個人的には、今作そうした弛緩の部分が若干、前作よりも長く感じられた気がした。「君の名は。」はかなりどのシーンも小気味よくテンポが良い印象だったのだが、今作はキャラクターを掘り下げるためなのか、あえての会話が多かった印象がある。(詳細は既にうろ覚えなのだが、須賀の願いを叶える公園のシーンは、セリフにすれば数回分やり取りがまだ続くのか、と冗長に感じられたりした)

※またこれは「結」の展開についてではあるが、昨日映画を見ていた時に「陽菜」を助け出すには最後穂高はどうするだろう?と思った時に、冒頭陽菜が晴れることを願った結果、晴れ女になたということから、「晴れを願うこと」と、重要な場所としての「廃墟の鳥居」が必然だと思われたので、終盤は多少展開が読めてしまったことは、感動が少し薄れた要因になってしまったと感じた。

⑦古典・伝統の活用
前作では三葉、四葉が巫女として伝統を受け継ぎ見せる舞や、地方ならではのお祭り、口噛み酒という歴史を感じさせるツールや、「言の葉の庭」の雪野先生が解説する様に「片割れ時」のルーツが万葉集の「誰そ彼」に通ずる点なども含め、日本の古典・伝統的なエッセンスがふんだんに登場する。今作では「晴れ女=天気の巫女」という設定が登場する。自然の猛威を鎮めるための生贄的なキャラクターは日本の古典にも登場するが、今作の「天気の巫女」はまさに、猛威を振るう天候を鎮めるために天と通じる者、として描かれ、古典的エッセンスがやはり注入されている。

⑧魅力的な脇役
前作では姉の三葉に対して、大人びた(?)的確なツッコミを入れる四葉しかり、大人可愛さで人気だった奥寺先輩など脇を固めるキャラクターも魅力的に描かれていた。

今作でも、ポジション的には四葉にあたるヒロイン陽菜の弟凪は、小学生ながらも数名の同世代女子のハートを掴むイケメン男子であり、(前作の奥寺先輩人気を受けてか)同ポジションの大学生・就活生夏美は色気も尺も増して活躍する。

⑨エロス
前作では健全にエロ要素を笑いに昇華していたり、フェティッシュなシーン(三葉のチラ描写、「言の葉」で言えば「雪野先生の足」)がサブリミナル的に挿入されていた所が印象的だったが、今作は街の情景描写(ラブホ街、VANILLA広告車体)しかり、ストーリーやキャラクター(陽菜が貧困から風俗バイト志願、夏美のブラ・胸チラなど)にも組み込まれていたりと、前作以上に強めな印象だった。(風俗絡みはアニメーションという作品の特性上、ターゲットを狭める一因にもなる気がするのでここはかなり攻めたように感じた)昔人がストーリーを追ってしまう背景には大きく「エロと謎」しかない、と聞いたことがあり妙にしっくりきていたのだが、はずしていないとも思うし、やはりこうした要素は大事なのだろうとも思う。

⑩想い人を呼び、走る姿
前作では、「瀧くん」と叫びながら走る三葉の姿(その後転び、手のひらの言葉に勇気をもらい立ち上がる姿)には感動したが、今作では、穂高が「陽菜」さんの名前を連呼し、駆け抜ける。個人的には、ここの穂高のあまりのピュアさについて行けなかった(前述した気恥ずかしさに襲われた点である)のと、前作と同じやり口に少し抵抗を感じてしまった。

ただし、誰かが誰かのことを思い駆け抜ける姿には、問答無用に人の心を動かす力が込められていると、この2作を引き合いに出さずとも感じることはよくある。

⑪音楽との融合
前作の紛れもないブレークスルーポイントであるRADWIMPSによるストーリーと強くリンクした音楽の展開は今作でも変わらない。(個人的には前作のほうが、流れるタイミングといいストーリーとの結びつき、かつ楽曲的な盛り上がりといい好きではある)新海監督が脚本をあげた第一稿を野田洋次郎氏が受け取り、RADが音楽にして返したものから更に監督がインスピレーションを受け、作品をより具体化させていくという流れで制作していった様だ。単純な劇伴を超える融合は両作品にも言える大きな見どころの1つだ。

【「君の名は。」と「天気の子」との差異(=変化のポイント)】

ここまで共通点をあげつらってしまったが、差異についても気になった点を記しておきたい。

●「過去」ではなく「未来」
「君の名は。」では、起こってしまった(三葉やその家族の)「過去」に戻り「未来」を変える物語が描かれるが、今作において「過去」の描写はほぼ皆無だ。新海監督自身が「トラウマでキャラクターが駆動される物語にするのはやめよう」と誓ったと話されるように、登場人物の過去には触れず、憧れや願いを求めた「未来」を描くことに専念している。とても潔く感じる。

● 「個人」と「世界」という対立軸と選択
対立という概念においては前作は「男女」「都会と田舎」「過去と未来」など、常に対となる構造を意識した作品作りが徹底されていた。上記のインタビューにも書かれてあるが、今作においては、主人公穂高が最終的に「陽菜を助ける(個々人の意思の尊重)」のか、「東京を大雨から守る(世界の秩序の維持)」のか、という「個人」と「世界」の対立の上での選択が描かれる。前作では、主人公二人が、大きな選択をいざ突きつけられ迫られていくというシーンがフィーチャーされる展開というよりも、「赤い糸」の運命に導かれる様に、互いに能動的に行動を起こしていく印象が強かった。しかし今作は、明確に、「穂高」を主体に、その選択が迫られていく。終盤、廃墟ビル内で刑事に囲まる展開の中、大切な誰かを守りたい一途な思いを貫き、自分の意志で世界よりも彼女を選ぶ穂高の姿には、心が揺さぶられた

監督自身が感じ取ったというこの数年での経済状況の変化も如実にキャラクターの設定に反映されているが、こうした「自分の意志で選択し、生きていく」ことを鼓舞したいという強いメッセージが表されているのではないかと思われたし、あえて予定調和でない、エンディングを描く覚悟を持って作られたという姿に、クリエイターとしての矜持を感じづにはいられなかった。そこにこそ、「君の名は。」からの進化があったのだなと、今更ながらに知るに至った。

【最後に】

つらつらと書き連ねてみたが、色々書いてみて、改めてこの作品が発する強いメッセージが頭の中で整理できたような気がした。つべこべ考えず、もう一度、頭を空にして見てみれば、一度目よりもより感動が得られるのかもしれない、という結論に至った。まあとはいえ自分的には君の名は。の方が素晴らしかったと思うのは変わらないだろうが。明日晴れたら、見に行こうかな。


P.S. 先日の京都アニメーションの事件は本当に辛く、被害に合われた方々やご家族の無念を思うと、本当に言葉にならない思いが募ってくる。そうした中で自分にできることなど本当に僅かで限られているが、こうしたアニメ作品について感じたことを発信・シェアすることだけでも誰かの興味につながるのではないか。そんなことを思ったことを記しておきたい。

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