やってみることについて

 シンガポールに来てから1ヶ月近くが経とうとしている。さすがに暑さにも慣れてきた。生活のリズムも掴めてきたし(お腹の調子は若干のムラがあるものの)風邪も引いていない。
 ここ1ヶ月日本で起こっていたことに対して、僕は外国人の目線で見ていた気がする。「他人事」と言ってしまえばそうなのかもしれない。投票にも行きたかったけれども公示の時点でここにいたからまずもって期日前投票なども物理的に無理だった。なにかしらアクロバットなことをして投票すること(郵送とか?)もできるのだろうかと調べたけど、方法はなさそうだった。ネットを開けば「子供たちのために」と言いつつ自分のことしか考えていないような大人ばかりで「もうなんか勝手にしてくれ!」という思いが募っていたというのが正直なところだった。こういう理由から僕としては東浩紀さんの主張した積極的棄権に少なからず助けられたというのもあった。選挙期間中、もし僕が日本にいて頭に血が上ったホットな状態だったらあまりこうは思わなかったろう。行けるなら投票所に行ってたと思うし、棄権の意義についても実感を持てなかったかもしれない。けれども行けなかったからこそ、そしてたまたま外国にいたからこそ見えるものもあった。
 見る角度や環境や距離によって、それがまったく違って見える。ということを僕たちは知っているはずなのだけどたまに忘れる。人と人がついぞわかりあえないのは「違う」ということを忘れて互いにホットになっていくからだ。シンガポールのような多民族国家にいると、いかに人と人が「違う」かがよくわかる。なにしろ同じ国民同士で言語が通じなかったり、正月が違っていたりするのだから。違いを正そうなんてことが土台無理な話なのだ。違うものは違うのだ。人種や性別や国籍や宗教や環境や能力や思想もみな際限なく平等に違うのだから、同じだという幻想など捨てて他者を受け入れるテクニックを身につけた方がいい。僕自身「違う」を忘れる。だから自戒も込めてここに書いてる。

 娘に会えないのはせつない。ショッピングモールで子供の泣き声が聞こえると娘の顔が浮かぶ。こんなこと、彼女が生まれる前まで当然ながら思いも寄らなかった。20歳になるまで20歳になるってことがどういうことかわからなかったみたいに。そういえば20歳の頃、子供が欲しいだなんて1ミリたりとも思っていなかった。30歳のいま自分がここにいるだなんて数年前の自分には想像できなかった。なってみないとわからない。やってみないとわからない。なってみる/やってみると、何かが必ず手に入る。でも同時に必ず何かを失う。少なくとも時間は失われる。リスクなしに挑戦はありえない。そこにはきっとむなしさと楽しさが同時にある。でもどっこいしょどっこいしょと、楽しいが勝つようにしていく。たとえむなしさが勝ってもしょうがない。また思いも寄らない未来へ挑戦する。その繰り返し。

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