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20200910 須磨寺

【2020年(令和ニ年)9月10日(木)須磨寺ご参拝】

須磨寺を知ることとなったきっかけは小学生新聞だった。
新聞では副住職の仕事紹介だったが、源平一の谷合戦の舞台になった所であり、これも因縁で御参拝するところなのかも知れない、と思い、御参拝を決意した。

本尊に聖観世音菩薩様が祀られていることも併せて御参拝の決め手となった。

上記の写真、右の奥に続く通りを真っ直ぐ進めば須磨寺なのに、なぜかスマホのナビは遠回りをさせるように誘導する。そして、自分もなぜかこっちから行くべきではないような気がした。

ナビが導いたのは駐車場だった。遠くに海が見える。
こちら側に来たお陰で、当初は奥の院もご参拝しようと考えていたが、何となく、その必要はないように思わされた。
結果、須磨寺を後に、当初ご参拝予定ではない神社へご参拝できたので、神様からそう動かされたのだ、と思わずにはいられなかった。

須磨寺ではあまり写真を撮る気持ちがどこか無かったが、三重塔は撮影した。

内部には大日如来を祀られている。塔上の水煙に釈迦誕生像を配している。塔敷地の周囲には四国八十八カ所お砂踏み霊場がある。

八十八カ所ご参拝させて頂き、その後、敦盛塚(五輪塔)へご参拝させて頂いた。

(上記の写真左が平敦盛、右が熊谷直実)

源氏の武将で熊谷直実という男がいた。

直実はもともと平家の武将であり源氏に寝返った者。元からの源氏の武将に後れをとるまいと、手柄を誰よりも欲していた。しかし、直実が一の谷の浜に着いた時、ほとんどの平氏は海に逃れた後。しかし、その中で一人だけ波打ち際で逃げ遅れた立派な鎧を着た平家の武者を見つける。そして、直実は扇をかかげ「敵に後ろを見せるは卑怯なり。返せ返せ」と呼びかけた。するとその武者は振り返り、直実に一騎打ちを挑む。しかし、あえなく倒され、直実が首を取ろうと兜を取ると、なんと直実の息子と同じ年の頃16,7歳と見える紅顔の美少年だった。「あなたの名前をお聞かせください。」と直実が尋ねると「あなたはどなたですか。」と聞き返され、「名乗るほどの者ではありませんが、熊谷直実と申します。」そう答えると、「あなたに名乗るのはよしましょう。あなたにとって私は十分な敵です。どなたかに私の首を見せれば、きっと私の名前を答えるでしょう。早く討ちなさい。」と答えたそう。直実はその潔さに胸がつまる。この若い命を討とうが討つまいが、戦の勝ち負けに関係はない。自身の手柄ほしさでこの若い命を落とさせることになってしまう。息子の小次郎が少し怪我を負っただけでも心辛かったのに、この方の父上が討たれたことを聞いたらどれだけ嘆かれるだろうかと思いを巡らせた。助けたいと思った直実が後ろを振り返ると、梶原景時ら味方の軍勢がすぐそこまで近づいてくる。もういよいよ逃げられまい。「同じ事なら、直実が手にかけて、後のご供養をお約束します」と泣きながら刀をとった。首を武者の鎧で包もうとすると、その腰に一本の笛がさしてあるのに気づく。思えば今朝方、平家の陣から笛の綺麗な音色が聞こえてきて、源氏の武将は皆感動した。その笛を見た時、「あぁ、まさにあの笛を吹いておられた方はこの方だったのか。戦に笛をお持ちとは、なんと心の優しいお方であろう。」と直実の心はいっそう締め付けられた。陣地であった須磨寺に、首と笛を持ち帰った直実は、大師堂前の池でその首を洗い、その前の大きな松の木に腰をかけた義経が首実検を行った。すると義経は、このお方は平清盛公の弟、平経盛公の子、従五位の敦盛公であるとおっしゃった。御年17歳であった。持ち帰った笛を見て、涙を見せないものはいなかったという。後に直実は、殺しあわねばならない戦の世に無常を感じ、法然上人の元で出家をする事となる。
(須磨寺HPより)

「殺しあわねばならない戦いの世に無常を感じ」とあるが、今世も変わらないと思う。
形は違えど同じようなことが今世でも起きている。

でも、変えなければならない。
それはまず、一人一人の意識から変えることだと思う。

仏様へ、夜昼転換をお願い申し上げ、もとの御位にお戻り頂き、メシヤ様のもとでお働き頂けるよう、そして、現界の私たちにお力添え頂けるようお願い申し上げた。

須磨寺を後に、これで良かったのか、このままホテルに行って良いものかどうか考えながら電車に乗った。

もうすぐ三ノ宮駅に着くという時に、車窓から大きな鳥居を確認した。

調べると生田神社だった。

時は16時。
生田神社は17時までということで、急いで生田神社へ向かった。

#御神業
#夜昼転換
#メシヤ様の光を真配る


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