見出し画像

20210707 蓮華王院 三十三間堂

【2021年(令和三年)7月7日(水) 蓮華王院 三十三間堂御参拝】
 
後白河天皇法住寺陵(https://note.com/sui3310/n/n721072012d7b)へ御参拝後、三十三間堂へ。
 
(過去の三十三間堂御参拝記事
2018年10月10日→ https://note.com/sui3310/n/nf188d114945d
2018年11月7日→ https://note.com/sui3310/n/neab49eef3fe0
2019年10月18日→ https://note.com/sui3310/n/nb42f63c11fd2
2021年3月3日→ https://note.com/sui3310/n/n21cd88dd7ae8)
 
中尊 蓮華王様の御前にて天津祝詞、善言讃詞を奉誦させて頂いた。
マスクをしたまま御参拝しなければならないことだけではないが、申し訳なさで涙が零れる。
 
2019年10月18日の御参拝にて、御縁と思われる千手観音像に巡り逢うことが許された。
御眼に惹かれ、200番の春慶作ということはわかっていた。
この日は、その観音様の御前で自然に合掌し、涙が零れた。
想念で御参拝させて頂いた。
 
堂内の販売所で「無畏」という本を見つけた。
千体仏国宝指定記念に発刊されたようだ。
サンプル本を手に取ると、1001体の観音様のご尊顔写真に御尊名が掲載されていたので購入した。
200番の観音様は「青目尊」という御尊名だった。
目に惹かれた理由に納得した。
 
以下にメシヤ様の御教えを2つ掲載致します。
 
1つ目。

御講話(昭和十年二月十一日)

(前略)東氏が浅草観音の写真を写しましたが、浅草観音に「施無畏(せむい)」と書いた額があります。観音様は「施無畏菩薩」と言うから書いたものかもしれませんが、意味がいままで判らん・・・。「施して畏れ無し」では判りません。これは当て字であります。本当に解釈すると「施無畏」とは、言霊の霊返しで、セムはスとなる。畏はイで、イとは位であって、主の位であります。それを匿(かく)してあったのであります。「施無畏菩薩」は、主の位を持った菩薩ということであります。これからこういうことになるのであります。(後略)
 
2つ目。

大乗と小乗(信仰雑話 昭和二十三年九月五日)

 昔から大乗小乗の言葉がある。勿論之は仏語であって、仏教に於ても相当悉(くわ)しく説かれているが、どうも納得出来得るような説は、私は寡聞(かぶん)の為か未だ間いた事がない。之に就て私見をかいてみよう。
 先ず一口に言えば小乗は経(たて)で、大乗は緯(よこ)である。又小乗は感情であり、大乗は理性である。小乗は善悪を差別し、戒律的であるから一般からは善に見られ易いが、大乗は善悪無差別で、自由主義的であるから善に見られ難いのである。之を判り易くする為二、三の例を挙げてみよう。
 茲(ここ)に一人の盗人がいる。夫(それ)を改心させようとする場合小乗的行方(やりかた)でゆくと悪事を窘(たしな)めるべく説得するのであるが、大乗に於ては、自分も一旦盗人の仲間へ入り、機を見て、「悪い事をすると大して儲かりもせず年中不安に脅えておって詰らないではないか」というように話し、悪を廃めさせ善道へ導くのである。又親に従う事を以て孝の基とされているが、偶々(たまたま)自分は目的を立て、それを遂行せんとする場合、親の許を離れなければならないが、親は不賛成をいう。止むなく一旦親に叛いて家出をし、目的に向って努力し成功してから、親の許に帰れば親もその光栄に喜ぶは勿論で、大きな親孝行をした事になる。之を観察すれば、前者は小乗的孝行であり、後者は大乗的孝道である。又国家主義民族主義等も小乗的善であり、共産主義も階級愛的小乗善である。由来何々主義と名付くるものは大抵、小乗善であるから、 必ず行詰る時が来る。どうしても大乗的世界的人類愛的で行かなくては、真理とはいえない。日本が侵略主義によって敗戦の憂目をみたのは、小乗的国家愛小乗的忠君であったからである。以前日本で流行した皇道という言葉は、小乗的愛国主義であった。何となれば、此皇道を日本以外の国へ宣伝しても、恐らく之に共鳴する者はないであろうからである。故に世界人類尽(ことごと)くが共鳴し謳歌するものでなくては、永遠の生命あるものとはいえない訳で、之が真の大乗道である。由来何々主義というものは、限定的のものであるから、他の何々主義と摩擦する事になって、闘争の原因となり、遂には戦争にまで発展し、人類に惨禍を与える事になるので、小乗の善は大乗の悪であり、大乗の善は小乗の悪という意味になるのである。然し茲に注意すべきは一般大衆に向って、初めから大乗道を説く事は誤られ易い危険があるから、初めは小乗を説き、相手が或程度の覚りを得てから大乗を説くべきである。
 次に私は宗教に於る大乗小乗を説いてみよう。元来仏教は小乗であり、キリスト教は大乗である。仏教は火であり、キリスト教は水である。火は経に燃え、水は緯に流れる。故に仏教は狭く深く、孤立的で緯の拡がりがない。反対にキリスト教は大乗であるから、水の流溢する如く世界の隅々までも教線が拡がるのである。面白い事には小乗である仏教の中にも大乗小乗の差別がある。即ち南無阿弥陀仏は大乗であり、陰であるが、南無妙法蓮華経は小乗であり、陽である。大乗は他力であり、小乗は自力である。彼の阿弥陀教信者が「南無阿弥陀仏と唱えさえすれば救われる」という他力本願に対し、小乗である法華経は「妙法蓮華経を称えるのみではいけない。宜しく難行苦行をすべきである。」という事になっている。斯様に経と緯と別々になっていたのが今日迄の宗教であったが、最後は経緯を結ぶ、即ち十字型とならなければならない。此意味に於て時処位に応じ経ともなり、緯ともなるというように、千変万化、応現自在の活動こそ真理であって、此十字型の活動が観音行(ぎょう)の本義である。昔から観世音菩薩は男に非ず女に非ず、男であり女であるという事や、聖観音が御本体で、千手、十一面、如意輪、准胝(じゅんてい)、不空羂索、馬頭の六観音と化現(けげん)し、それが分れて三十三相に化現し給うという事や、観自在菩薩、無尽意菩薩、施無畏菩薩、無碍光如来、光明如来、普光山王如来、最勝妙如来、其他数々の御名があり、特に応身弥勒と化現し給う事などを以てみても、その御性格はほぼ察知し得られるのである。因みに阿弥陀如来は法身弥勒であり、釈迦如来は報身弥勒であり、観世音菩薩の応身弥勒の御三体を、三尊の弥陀と称(とな)え奉(まつ)るのである。又日の弥勒が観音であり、月の弥勒が阿弥陀であり、地の弥勒が釈迦であるともいえるのである。茲で注意すべきは、観世音菩薩の御本体は天照大御神の顕現という説があるが、これは誤りで天照大御神は大日如来と顕現し給うのである。
 
以上がメシヤ様の御教えです。
 
#御神業
#惟神精神
#施無畏は主の位を持った菩薩
#神仏の夜昼転換

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?