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イグアナの孤独

社会と折り合いを付けることが困難で生き辛さを感じている人というのはいつの時代も沢山居るわけだが、それは貧/富、後進/先進、地方/都市といった対比が色濃く反映されるような場面で時に残酷なほどの様相を呈する。

誰からも顧みられず愛されたこともなく常に疎外されているように感じている、そのため自分という存在を自分自身が認められない、そういった文字通り独りぼっちの個人は、自死を選んだり、自暴自棄の結果として犯罪に走ったりといった風に、社会や周囲と適切な距離感で関係性を構築し維持し続けることができなくなったりもする。

現代日本の大都市部、特に東京がまさにそのような場所なのかもしれないが、いや可処分所得は減っているけれど物もサービスも安く手に入るし高望みしなければ生命の危険は諸外国よりも低く長寿という恩恵を享受できるわけだから日本はそんなにひどい国ではない、という見方もあるかと思う。

ここらへんは価値観の問題にもなるので割愛するが、新型コロナ禍とウクライナ戦争のあたりから物価高となり、だいぶ悪い方に様相が変わってきているのも事実だと思う。

さて、最近はダウンタウンの松本人志がワイドショーを賑わせているが、何年か前に彼が手掛ける年末番組をみていたら女優の菅野美穂がとても弾けた演技を披露していて、ああ久し振りに彼女を見掛けたがいまも芸能界の最前線でやっているんだなと、妙な感慨を覚えた記憶がある。

月亭方正が「ホホホイ、ホホホイ」というココリコ・遠藤章造のギャグをやっていて、それに続いて彼女も全力でホホホイをやっており、恥ずかしがる素振りを一切見せないそのパフォーマンスに私はいたく感じ入ったものだ。

その彼女の出世作といえば、お馴染み『イグアナの娘』である。

母親から愛されない苦しみと親子の確執を描いた話題作だが、いったい何故イグアナなのかと自分なりに解釈すると、20世紀中盤に活躍した劇作家テネシー・ウィリアムズが抱いていた問題意識や彼が表現しようと試みていた人間社会の生き辛さと大勢の中で感じる孤独などが、イグアナというかたちになって偶然にも時代と国を超えてリンクしたのだと考える。

ウィリアムズ作品で有名なものを列挙すると、『欲望という名の列車』『焼けたトタン屋根の上の猫』『ガラスの動物園』『この夏突然に』『地上の王国』などがあり、その中のひとつに『イグアナの夜』というものがあり映画にもなっている。

この作品は姦淫によって落ちぶれた元牧師と二人の女性との恋愛劇を描いたものだが、「生まれながらにして善良でまともな者もいるが、そうあろうと苦しみながら戦って生きている者も尊敬に値するのだ」という主旨のセリフが出てくる。

舞台はメキシコで、ここではイグアナを係留して飼育しよく太らせてから食べるのだという説明がなされている。縄に繋がれたイグアナを人間に見立てているという解釈の他に、弱い自分を硬い皮膚で防御し内的に孤独に生きているのが現代人だ、というような解釈も可能ではないか。

さすがにこの雪だと、自宅で過ごす時間が長い方も多いだろう。菅野美穂の方でもテネシー・ウィリアムズの方でもどちらでも構わないので、気が向いたら是非イグアナ鑑賞して下さればと思う。

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