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百瀬博教年表(マニア版)

簡略版も置いてありますが、今回は詳細版です。
2003年にイベントの配布用に作りました。
「『命懸けの虚構〜聞き書き・百瀬博教伝』
のサブテキストに欲しい人だけ読んでください。


水道橋博士作・百瀬博教年表

昭和15年(0歳)
 
2月20日。
東京柳橋の侠客、百瀬梅太郎親分(53歳)母・菊江(31歳)の次男として、東京は台東区の総武線浅草橋駅に近い、柳橋代地河岸にて誕生。

「父は明治23年、東京の築地の生まれで、40歳まで生きられればめっけもんだと思って暮らしている稼業の人だった」
(父・梅太郎は金町一家の総長であったが、許されざる恋をして金町一家を抜け亀戸に移り、当時、東京で最も縄張りの大きかった生井一家へ入り、柳橋をシマとする)

 父の背中には「姐(だっき)己のお百(ひゃく)」の刺青があった。

 幼児、両親が褒め上手で、褒められたことは率先して何でもする〝はしっこい〟子供でありながら、感受性豊かで暗闇を怖がり今でも続く持病でもある、重度の死恐怖症(ネクロフィリア)であった。

 幼児の原風景は強烈で、現在、東京の風景の移り変わりが氏の作品のモチーフになっているのは、「子供の時に見た国技館の円屋根、水上バスが着く大川端葭(よし)、霞町(よしちょう)人形町界隈には堪らない郷愁がある」からと。

 2歳、両親に連れられた上野動物園の象の檻の前で「象さんこわいよう」と大声を出して泣き出す。

 4歳で、芸妓置屋「中西」の娘、朝子ちゃんと初恋、引越しで離れ離れになることが、人生初の感傷的な想い出になる。
 後に菊龍という柳橋一番の売れっ妓となるが2度と彼女と会うことはなかった。

昭和20年(5歳) 

 8月15日、終戦。疎開先の長野県宮田で終戦の玉音放送を聴くが、子供心にも何のことかわからないままドジョウ汁を食べたのが想い出となる。

昭和21年(6歳)

 千葉県市川へ移り住み、市川小学校入学。

 引越しの祝いの席や正月には、吉原から幇間(たいこもち)の桜川忠七を呼び、獅子舞を躍らせるような家であり、曾祖母が南千住に「柳亭」という寄席をもっていた関係で、柳家三亀松、広沢虎造、玉川勝太郎、等芸人が家に出入りしていたので演芸通となる。

 小学校3年生の時、自分の名前さえ漢字で書けない国語力だったが、芥川龍之介「杜氏春」を教科書で読み読書好きになる。
 
また小学生で相撲ファンになったが、それは、ぴっかぴっかの現役力士に憧れたのではなく、相撲読物などにある土俵では無敵だった偉丈夫が、引退して数年後、悲運の運命を辿る人生の縮図の描写に強く惹かれたため。
 後に、尾崎士郎、船橋聖一、北条誠などの相撲小説にも影響を受ける。

 物を大切にする子供で、特に紙ものには執着し、父のポケットからこぼれる、パン紙(負け馬券)ですら蒐集する癖があり、後に生涯のコレクター道を歩むことになる。

 父親の乾分が何人も家を出入りしていたが、「異人の寅」「情(なさけ)」「インディアンの和」の3人は父のお気に入りで豪も裏切ることがなかった。

 寅と情は戦後間もなく死去。

 インディアンの和はボクサー漫画「ノックアウトQ」のなかで作者、山川惣治が描く江東一喧嘩の強い愚連隊の首領であり、一人で関東関根組に向かったほどの命知らずで出獄する際に必ず殺られるので、父が関根賢氏と会い、自分の乾分にさせると話し、無事、出獄させた。

 また和が付けていた「これを着ていたら短刀で突かれても平気、何度も命拾いした」と言う鎖帷子を見たのは8、9歳の時だった。

(ちなみに、全盛時、関根組は関東一円に乾分一万人を誇った。この組の大幹部に鶴岡政二郎親分が襲われた時、その急場に飛び込み救ったのが、若き日の稲川聖城だった。)

昭和25年(10歳)

 父が清水の賭場で喧嘩に巻き込まれ、父を助けようと父から貰い受けた「僕の刀」を持って家を飛び出す。
 その時、祖母が火鉢の灰の下から油紙に包んだものを引き出すと
拳銃であった。
 この時、生まれてはじめて拳銃を目の当たりにする。
 喧嘩場に真っ先に駆けつけようとする政叔父に「帰りな」と言われるが、
<父の危険を知って家に凝っとしているような子供なら、父はいらないのだ>との想いで、叔父に付いて行く。
 
 後に「僕の刀」という題名で小説デビュー作となる。

昭和28年(13歳)

 市川学園中学入学。

 2月1日、NHKでテレビ放送がはじまる。その7ヶ月後、通学路の農家の家で初めてテレビを見せてもらう。テレビのなかの大スターは「天皇の次に有名」と言われた力道山である。

 父の兄弟分蛎殻町の鈴本栄太郎の乾分に力道山の大スポンサーであり立志伝中の人物である明治座社長の新田新作がおり、44歳で明治座の社長となった。
 その新田に養子縁組を望まれるほど可愛がられ、会うと必ず「坊や、はいよ」と言って5千円をくれた。

 毎週日曜日、浜町の明治座へ通い、と同時に新国劇、歌舞伎、新派、浪曲の舞台を見まくる。
 (父、梅太郎は新田から現在の金で10億は貰っていたのではないかと、しかし、その金で買った家も全て博打で失うこととなる)

百瀬博教のその演芸通の充実度合いは、

「百瀬博教の遊びには年季が入っている。子供の頃から自然に鍛えてある。
にわかシティーボーイとは格が違う。何しろ子供の頃から吉原の太鼓もち桜川忠七の芸を見て、育っているのだから羨ましくなる。父親に連れられて明治座に新派や歌舞伎を観に行く。花柳章太郎、水谷八重子の「鶴八鶴次郎」に感激する。家には古い落語や浪曲のレコードがたくさんあり、金馬の「居酒屋」、金語楼の「入営初だより」、虎造の「石松代参」を聞いて育つ。年季が入っているというのはこういうことだ」(川本三郎)
と書かれている。

 また力道山との初の出会いは、新田建設の資材部長、兼、社長の運転手をしていた時が初対面。
 力道山の運転で競馬場に行ったこともあった。

 その後、新田新作の関係より、力道山の道場にも顔パスになり、当時の日本人レスラーはもちろん、外人スターであるシャープ兄弟とも写真を一緒にとってもらったりの境遇であった。

 子供の頃から侠客の父の下に出入りする、乾分たちの生活を見るうちに、酒・博打は嫌いになるが、中学2年の時、酒で間違いを起こした、父の乾分のインディアンの和が父に木刀を背負わされるのを目撃し一生酒はやらないと決意。(背負わせる(しよわせる)とは、打ちつけるの意)

 また、父の使いで馬券を買いに行った、乾分の三郎がサラリーマンの給料2ヶ月分ほどの当たり馬券を呑んでしまって、殴られた、その日以来、博打には手を出さないと決意する。

 主に双葉山時代の相撲本・少年漫画(「冒険王」「おもしろブック」)を探すために古本屋通いが始まる。
 以来今日まで暇があれば古本屋に入り浸る生活が続く。

 また叔母の坂本和子の恋人が、当時、小野川部屋の幕内力士(後に関脇まで出世する)信夫山(しのぶやま)で、彼が家に来るたびにアメリカン・ポップスのレコードを買ってくれる。
 浪曲、講談、歌舞伎、漫談、軍歌だらけだったレコードコレクションが一変することになり、子供心に相撲取りを身近に感じさせていた。

昭和30年(15歳)

 中学三年生の時に「時津風部屋に入りたい」と言ったが「お前、相撲取りに小遣いやる人になったほうが気持ちいいぞ。」と柳橋で定期的に行われた街相撲の勧進元であった父に言われる。
 父のその一言が現在のPRIDEのプロデューサー役にも繋がることとなる。

 素人大相撲大会は、東京の夏の風物詩で、都内の神社や広場で、町内の有志が勧進元となって毎夜、行われていた。
 父が開催する相撲大会には、柔道の高段者である加藤幸雄も参加していたが、加藤は木村政彦以前、昭和26年にブラジルでグレイシー一族と最初に戦う日本人として、エリオ・グレイシーと戦って敗れることで歴史に名を残す柔道家でもあった。

 そして彼の弟子が明治大学で坂口征二と同級生になり、学生時代から坂口とは懇意になり、また市川出身でウイリアム・ルスカに敗れて、ミューヘンオリンピックの無差別級銀メダリストの西村幹樹など実懇で柔道人脈に繋がることとなる。

 父の諌言にもかかわらず、それでも諦めないので、浜町の明治座へ連れて行かれ、新田新作、東富士、さらに力道山から、
「甘っちょろい気持ちで相撲とりになるのが、沢山いるけど、百人が百人成功できない。聞けば、坊ちゃんは新田会長の養子になるそうじゃないですか。一生懸命勉強して、会長の手助けが出来るようになって欲しい」
と当時の大スターから直々に説得される。

11月3日、国府大女学院の体育祭に見に行き、仮装行列でラファエロのマドンナに扮した女学生に一目惚れする。
 一途に恋焦がれるが、成就することはなかった。

昭和31年(16歳)

経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言したこの年、「太陽の季節」が日活で映画化。
石原裕次郎、ボクシング部の一人として脇役で映画デビュー。
市川学園高校入学、ちなみに高校の一年後輩には芸能界の大立者であるバーニングプロの周防都雄社長、また中学、高校を通じて、一年後輩にケーダッシュの川村龍夫社長がいる。
 また、4年後輩には、高橋英樹氏もいるが高校時代には面識はなかったが、日活の俳優になってからは会うたびに気持ちよく挨拶してくれた。

 高校2年の体育祭の時、柔道部40数人を動員し、三橋美智也のソーラン節の出し物で仮装行列に参列。
 御揃いの浴衣、本格的な踊りで一位を獲得。
 プロデューサー業に目覚める。
 義父になるはずの新田新作が、51歳の若さで亡くなる。
 告別式には、各界の名士に祭壇の隣に天皇賞に輝く名馬メイジヒカリも参列し、花輪4千7百本を言う盛大さであった。

 高校入学と同時に蔵前国技館『相撲練成道場』入門。
 会員番号10番、毎週、土曜、日曜は、市川から風呂敷に包んだ褌を持って稽古に通った。

 石原慎太郎(23歳)「太陽の季節」で芥川賞受賞。
 親に隠れて、この“問題小説”を読む。

昭和32年(17歳)

鳥越神社の千貫神輿を初めてかつぎ、半纏の下に晒の褌を締めて、肩の重みに耐え、浴衣で見物する町内の人の前を渡御(とぎょ)し、3本締めで終える祭りの快感を知る。

昭和33年(18歳)

市川学園高校3年、公衆道徳委員長に就任。
父親が顔役であったため、子供の頃から不正、不良な行為にも敏感で当時は過度に真面目な生徒だった。

 それまで土俵もなかった高校に自費で赤土をトラック2台分を買い、放課後リヤカーに積み込み自力で土俵を作る。夏休み最後の日曜日、土俵造り職人を千住から呼んで仕上げ念願の相撲部開設。
 9月、千葉県相撲大会決勝戦進出、10月、静岡国体出場を果たす。
 級友が見送る静岡へ出発する本八幡駅の上りホームで裕次郎の「俺は待っているぜ」が流れてきて、歌に合わせて歌う。

 まさか、何年後に自分が石原裕次郎に会えるとは夢にも思ってみなかった。この年、「狂った果実」の大ヒットにより石原裕次郎は本格的なスターの道へ歩み、“裕次郎時代” が到来していた。

 また、この年、邦画界、最大のヒットとなった「嵐を呼ぶ男」は錦糸町江東楽天地の2番館で見て、そのカッコ良さに衝撃を受ける。

昭和33年(18歳)

身長181センチ、体重115キロの巨体を静岡国体で見込まれ立教大学相撲部推薦第2位になり、一位推薦の中京高の選手が早稲田にいったため、立教大学文学部史学科入学、同時に相撲部に入部。
2年生まで校内の道場で暮らす。
父・梅太郎、72歳で、渡世稼業を隠退。
その披露宴の一切を仕切ってくれたのが若き日の稲川聖城会長だった。

この年、初めて年上の女子大生と交際。
童貞喪失を果たしたが、わずか8カ月で振られる。
この経験から学び、その後、女性に振られることはなくなる。

昭和34年(19歳) 

叔父の坂本雄五郎に頼み、将来、政界の実力者の住み込みの書生になりたいと思っていたが、父の指図で、戦時中、上海で児玉機関の金庫を牛耳っていた右翼の大物、吉田裕彦氏と面会。
吉田事務所で働くことになある。

赤坂の広東料理「いづみ」で関係者と会食の後、赤坂のナイトクラブ・「ニューラテンクオーター」へ連れて行かれ、用心棒として修行することになり立教大学相撲部も2年で退部する。

当時、トリオ・ロス・パンチョス、ナット・キング・コール、サミー・デイビス・ジュニア、ヘレン・メリル、アール・グラントなど世界中のエンタテイナーが集い、ゴージャスなショーが繰り広げられ、日本を代表する泰斗、有名人、金持ちが集う、このナイトクラブを命懸けで守ることになる。

社長の山本平八郎より「この店を守れるのは貴方しかいない」との言葉に舞い上がり、用心棒を始めるに当たって、父より、渡されたワルサー一丁を毎夜、上着の下に隠して出勤した。

給料2万円、クラブの隣にあるホテルニュージャパン678号室を棲み家とすることとなり、今までの貧乏学生生活から脱却。
同時に日本一のナイトクラブの用心棒の仕事柄、命を張った数々の修羅場を体験。
夜毎に発生する事件から、男と女、金遣い、裏社会、ダンディズムなど、人生に必要な様々なことを学ぶ。

お店を通じて人脈もひろがり、当時の大スター、ナット・キング・コールなどを招聘した「呼び屋の帝王」故・永島勝司と懇意になり、数々の来日アーティストの公演を見に行くことになる。

また当時、頻繁に通った湯河原の貸元・富本富二郎は「百瀬、おまえの服は地味すぎるぞ」と高価な背広やシャツなど無尽蔵にくれお世話になった。
人脈を整理すると、富本は生井一家総長、銀座の貸元篠原縫殿之介(昭和35年没)の乾分であり、また篠原は、父・梅太郎の兄弟分でもあった。
篠原の乾分が後に国粋会(生井一家)総長になる森田政治であり、常に引き立ててもらった。

昭和35年(20歳)

ニューラテンクオーターで、「生涯のあにき」と慕う石原裕次郎と邂逅。
「僕は貴方みたいな人が好きなんです。熱血漢っていいな。一度僕の家に遊びにいらっしゃい」
との言葉にぶっ飛び、私設ボディーガードとなり親交を温める。

その後、赤坂の高級料亭「千代新」を案内した後、裕次郎が慎太郎を連れ、揃いの上布を着流して、クラブの階段を下りてくる。

この時、握手をしたのが、慎太郎との初対面だった。

夏、渋谷でベレッタ22口径を4丁購入。
これを機会に拳銃を多数所持するようになる。

昭和36年(21歳)

1月19日、成城にある裕次郎邸に招かれる。
当時、最も仲の良かった立教大学の2年先輩で柔道部副主将だった後藤清忠(当時は東京トヨペットの社員で後に自殺)と共に訪問する。
その後、頻繁に招かれるようになる裕次郎邸では長島茂雄と3人で出前の職人に寿司を握ってもらったりもするようになる。

その8日後、石原裕次郎(26歳)がスキーで骨折のため入院、見舞いに訪れた「月刊平凡」の編集者、木滑良久(30歳)を紹介される。
後にマガジンハウス社長から会長へとなる木滑氏との交際は現在まで40年に渡る。
入院中の裕次郎を何度もお見舞いしていたが山下清画伯と裕次郎の対談の翌日、慎太郎氏と2度目の対面となる。
部屋に入ると「こんな高い部屋に、おまえはずっと入っているつもりか。もっとお金を大事に使え」と裕次郎を叱責していた。
しかし、ここでも挨拶を交じわすことはなかった。

3月9日。有楽町の日活国際会館ホテルで長門裕之、南田洋子夫妻の結婚式と披露宴が開催。二人を結ぶ契機になったのは慎太郎の小説「太陽の季節」の映画化であり、裕次郎のデビュー作でもあった。
裕次郎はギブス姿のまま出席することになり、その車椅子を押す役を頼まれる。

当時、夜の六本木等に勢力を誇っていた東声会・町井久之会長の昔の恋人をひょんなことから山王病院に担いで運び助けたことから、町井氏がラテンクオーターに来た際に、
「いいか、お前達よりずっと年下だが、この店を命懸けで守っている男(ひと)なんだから、どこで会っても立てろよ」と見込まれる。

12月、裕次郎の誕生祝いを兼ねた餅つき大会に招かれ、裕次郎の豆絞りの手ぬぐいの鉢巻と「石原組」と入った藍色の半纏姿に見惚れ、色違いのお客用ではなく、裕次郎と同じ色の半纏を所望する。

昭和37年(22歳) 

120キロの巨躯を見込まれ、石原裕次郎の要望で、日活映画「雲に向かって起つ」(石原慎太郎原作)に出演。
その後も続いて「花と竜」(舛田利雄監督)にも出演。
当時の「週刊明星」にも、裕次郎にスカウトされた新人と紹介される。
喧嘩シーンで裕次郎と絡むが、主人公に勝つ役柄であった。
しかし「映画出演とはひたすら待つもの」と知り俳優業に適性の無さを思い知る。
3本目の映画「高知喧嘩軍鶏」の出演依頼の声が掛かかるが、これは裕次郎の口利きではなかったが、宍戸錠に負ける役だったので受けなかった。

映画の撮影の合間に収録された「ロッテ・スター・アルバム」控え室で、この日、初めて裕次郎から慎太郎を紹介してもらう。

石原慎太郎がオーナーと言われる新橋のメンバー制キークラブ「易俗化」(えきぞっか)
に裕次郎に連れて行ってもらうようになる。

女連れで入ると、慎太郎から、「会員資格に合わない」と門前払いされたり、またある日、裕次郎と当時〝青年将校〟と言われた中曽根康弘が、二人で肉声で「草原情歌」「もずが枯木で」歌合戦するのを立ち会う。

南千住の東京スタジアムで皇太子殿下と美智子妃殿下がデトロイトタイガースと大毎オリオンズの試合を観戦された時、大映映画の秘書課長に依頼され、遠くからお二人を用心棒することになる。

その夜、永田雅一社長の奢りで生まれて初めて柳橋の「稲垣」で芸者遊びをする。
当時の偉丈夫ぶりを物語るエピソードに、みぞれの降る2月、大学の2年先輩の後藤清忠が運転する屋根なしのポルシェで湯河原から東京まで戻るが、運転する後藤が、あまりに寒がったため上着もシャツも着せて上半身裸で帰ってきたが風邪一つ引かなかった。

初の海外渡航に台湾へ。
その経緯は裕次郎がスキーで骨折し入院の際、東宝の俳優宝田明が無礼な振る舞いがあったと聞いて偶然会った宝田を怒鳴りつけたが、その行為が裕次郎の気分を害しているとの話を聞きつけ、丁度「金門島にかける橋」の撮影をする裕次郎を追って台湾へ渡航することになる。
 
当時、中国と抗戦中の台湾へのビザ発行は当時難航を極めたが稲川会の幹部で小田原の貸元、井上喜人(きいち)から、化粧品会社Sの岡田課長を紹介してもらい、Sの社員としてパスポートを得た。
(39年に海外渡航が自由化されるまで、パスポートの取得は銀行からお金を借りるよりもずっと難しかった)

夏、用心棒として怖いものなしの見境のない暴れっぷりに稲川親分から、湯河原の富本旅館に呼び出され「お前は評判悪いぞ……」と叱責を受ける。

そのまま、稲川錬成道場に半月泊まり込み修行する。
そんなある日、海水パンツ一丁で稲川会長が、児雷也の刺青を背にカレーを作り、一緒に乾分達、10人で食したが、「どうだ、俺のカレーは」と会長が怒鳴ると「美味しいです!」と大声で答えたのが木更津の浜田幸一だった。

昭和38年(23歳) 

渡世人として私淑していた生井一家総長、国粋会会長・森田政治は父・梅太郎の乾分筋で“自分の人生を一遍の詩にしてしまおうと生きていた漢”であり19歳の時、闇討ちされ碧眼となった伝説の親分である。

映画監督・五社英雄の著書、「蒼き龍たち」の主人公として描かれるほどの暴れん坊であったが、たいへんな教養人でもあった。

その森田と父が対面したある日、
「小父さん、ヒロ坊を私んところにください。乾分に欲しいと言うわけじゃありません。小父さんさえ承知してくれれば吉日(よいひ)を見て、内々だけで兄弟分の盃をしたいと思っているんです」と。
「いけねぇよ。森田。度胸三分、我慢七分って言うじゃねぇか。こいつにはまだ我慢が足らなない。嬉しいがまだ23(年齢)だ」
と断られる。

その森田政治会長と銀座のゲイバー「やなぎ」へ。

そこで、来日中のアラン・ドロンと邂逅。その日、ラテンクオーターのママで元松竹の女優だった山本浅子と長嶋茂雄も客に。

勝新太郎とも交友、若山富三郎、田宮二郎などを紹介される。玉緒夫人の初めてのお産を山王病院に見舞いに行ったり、また氏の主演作品「鯨神」を一緒に見たりするが、その、とりまきになることは一度としてなかった。

ラテンクオーターで「講道館を知っていますか」と聞いてきた、クエートの石油商、アルマズーク氏と懇意になる。
「軽機関銃で鹿狩りをする」「52連発の軽機関銃を撃たせてくれる」との話にクエート行きを夢見る。
その後、敵の拳銃で命を落としそうになり、用心棒としてケンカに勝つには機関銃が必要だと思い立ち、アルマズーク氏を頼って3月、日本を出発。
 パリ、ロンドン、スペイン、ストックホルム、コペンハーゲン経由でクエートへ渡航。

 52連発の軽機関銃トミー銃を本気で持ち帰ろうとしたが叶わず、アルマズーク氏からプレゼントされた、コルト38口径、ラマ22口径の2丁の拳銃を日本へ持ち帰る。
 当時の税関はスーツケースは空けられるがボディーチェックすらなかった。
羽田まで出迎えてくれた後藤に、パレスホテルのトイレで「俺の拳銃(どうぐ)見てやろうか」と言った時の気持ちよさはなかった。

この頃、「走るポンティアックの中から青山霊園の桜の木に向かって発砲の練習をしていた」
「夜中に撃つと、拳銃の先からオレンジ色の光が30センチくらい出て、それはもう綺麗だった」と語る。

夏、稲川親分より、連絡があり銀座の事務所に行くと湯河原で稲川親分が勧進元になり15日間に渡って行われる「青少年体育奨励素人角力大会」を開催し、その際に使う、廻し、幕、水桶等々一切の用意を命じられ、30万円を渡される。
今で言う大会のプロデューサー役を任される。

この催しは、東京から力道山、大鵬、児玉誉士夫、伴淳三郎などが訪れる、
日本一の大規模な大会であった。

3日目に夕立がきて土俵が水浸しになったが、灯油を土俵に撒いて乾かし、無事、大会を再開させた。
この大会で2度に渡って5人抜きを果たし力道山に賞賛される。

 12月15日。子供の頃から面識のある希代の英雄・力道山、ニューラテンクウォーターで大日本興行の村田勝志に刺され、その後、入院先で死亡。

 普通なら、店に居るはずだったが丁度その夜は、日曜日で湯河原に旅行中であった。

 この頃、大映女優の江波杏子から、さまざまな教養を伝えられる。(ベルイマンの「沈黙」を有楽町に見に行く約束をするが、現場に父親がやってくるようなこともあった深窓の令嬢だった)
 詩が好きだと言う、彼女から「グールモン詩集」を教えてもらう。
 しかし、拳銃不要所持事件で保釈中に赤坂アマンド前で偶然会うと、迷惑そうに冷たくあしらわれる。
(教養をあんなに伝えようとしたのに……。教養の究極は思いやりだ)
と感慨。

昭和39年(24歳)

東京オリンピック開催。中学時代に、ベルリン・オリンピックのドキュメンタリー映画「民族の祭典」の魅せられていたので開会式から全種目観戦をくわだてる。
(オリンピック以降の東京の変貌、人心の頽落が百瀬作品のテーマになる)

東京オリンピック終了後、兄弟分の後藤よりサイレンサー拳銃を預かる。
その2ヵ月後、拳銃不法所持で後藤が逮捕される。

2月、石原裕次郎宅が拳銃不法所持の疑いで家宅捜査を受ける。
その容疑に、立教大学生が関与したと警察が発表する。
前年から、里見浩太郎、山城新伍等がハワイからピストルを持ち帰るなど、拳銃事件が頻発する。

12月25日、後藤が口を割ったため自宅に捜査員が来る。
(その前日、立教大学相撲部の道場で、学生横綱の堀口圭一に永い別れの記念に道場に盛られた砂に向かって一発撃たせてやる)
父と相談しサイレンサー付き自動拳銃ブローニング22口径を2丁持って、警視庁保安課に出頭。
麹町警察に移される際、初めて手錠をかけられる。
保安課の一ヶ月の取調べから4課丸暴担当に引き渡される。

12月25日より、40年の7月中旬まで麹町警察署の留置場で調べられる。
 ここで邂逅した一力会会長、鍋島力哉から
「ワシ感動しましたがな。あんたはんと刑事のやりとりをテープにとって乾分達に聞かせてやりたいですわ」
と褒められ、その言葉にメロメロに酔い厳しい取調べが苦にならなくなる。

西巣鴨の東京拘置所に移監される。

10ヶ月の取調べのあと、保釈金500万円で釈放、裁判を待つ身となる。

赤坂TBS前のアマンドの地下で慎太郎と遭遇。
「石原」と呼び止め、裕次郎宅の家宅捜査に対する裏切ったとの誤解を問いただす。
話はまとまらず、3日後に3人で赤坂の「写楽」で会う約束をする。

3日後、裕次郎は現れなかったが、ステーキを食べ、その後、アマンド地下で、コーヒーとレモンスカッシュで話をする。慎太郎が太るのが嫌いなので、毎日マラソンをする話の後、
「マラソンなら必ず君に勝つ自信がある」と慎太郎が言うと「相撲なら片手でぶっ飛ばす」「僕は君みたいな体は嫌いだ」と。
これを機会に慎太郎とは何度も会うが、裕次郎は同席しない。
「君は男に惚れ過ぎるからいけない。裏切られた時の打撃が大きいんだ。惚れるなら女に惚れろ!」と言われる。

昭和40年(25歳)

7月、父・梅太郎(82歳)死去。
8月、釈放後、三島由紀夫の初版本蒐集のための古本屋通いを始める。
収監状を持ちながらも、癌を患った母親の今際(いまわ)に立ち会えまいと、収監状を破って保釈逃亡。
法務局から何度も「下獄せよ」と通達があったが無視。

後3年、本格的に逃亡者として日本を転々。

昭和41年(26歳) 

 森田政治国粋会会長と共に、正月、神戸へ病床の田岡一雄山口組組長を見舞いに行く。
 その時、同席したいた長男・満氏(当時、慶応大学に通っていた)に持参していた慎太郎に薦められたアンドレ・ジイドの「地の糧」の文庫本を手渡す。
 このとき、森田政治が当時山口組のナンバー2だった地道行雄と兄弟分の盃を交わすことになる。その時に地道行雄が森田政治に向かって
「兄弟、本当だったらウチの親父(田岡一雄組長)と兄弟分になれる人間なのに、俺みたいなヤツと兄弟分になってくれて、すまねえな」と。その言葉が終わらない内に、森田政治は地道行雄の襟をグッと持つと、
「おい地道、何言ってんだ!俺はお前が好きなんだよ。お前に惚れてんだよ。だからお前と兄弟分になったんだよ。それがイヤならここで別 れよう!」と。
 地道行雄はやられながらも「嬉しいなあ」と。
 それを見て「ああ、こういうふうにやるんだなあ」と学ぶ。
 そして翌日、河豚をご馳走になる。地道が「百瀬、これから懲役行くんだなぁ。何年だ?」「6年行くんです」「ふーん、短いな。帰ってきたら何するんだ?森田の身内になるのか?」「いや、私はアラビアのクウェートに行って石油か何かで金を儲けたい」
「そんな夢みたいなこと言うな。俺のところに来い」「いや、私は誰の子分もイヤなんです。親分ならなってもいいけど」「面白いな、お前は。よしっ、食べるのはお前、金を払うのは俺」

昭和42年(27歳)

夏、秋田へ。藤田嗣治の絵「力士」(横綱・栃木山の画)をどうしても見たく、前年に千秋公園に建てられた平野政吉美術館などを訪ねる。
偶然、館長の女婿が立教の剣道部で平野館長を紹介され懇意になる。

秋田の地で、逃亡中にも関わらず、トルコ風呂を経営。

10月、逃走中に自由が丘の恋人の家で週刊誌を読んでいると恋人の母親が「大変、大変、百瀬さんの写真が出ている」と知らせてくれる。

急いでテレビの前へ行くと「小川宏ショー」に自分が連続射殺事件犯、永山則夫に小型ピストル、ロスコーを渡した108号事件の容疑の重要参考人として全国指名手配される事実を知る。

皮肉にも、これがテレビ初出演となる。
この事件には冤罪ではあったが、その後、逮捕された永山則夫とは刑務所の留置場ですれ違う。
しかもこの冤罪のおかげで、捜査網が一段と強化される。

昭和43年(28歳) 

 逃亡中の身でありながら「石原慎太郎の会」の幹事として参議院選挙に初出馬した石原慎太郎を応援する。

 東宝劇場で上演する文士劇「日本の一番長い日」を観劇。
慎太郎氏が軍刀を当て、自決するシーンに、「いよう、当選確実!」と半畳を入れる。

「選挙、全力で応援します。当選は間違いないでしょう。
40代の後半には大臣ですね」と言うと「いや総理になる」と慎太郎。
11月、秋田に潜伏中、選挙の遊説に秋田に来た石原慎太郎を藤田嗣治の世界最大のキャンパス画「秋田の行事」を見せるため平野政吉美術館へ招待する。
その後、「濱の家」にて、きりたんぽの酒宴を共にする。

 12月、木滑良久氏のはからいで羽田空港の地下で石原裕次郎と再会。
しかし、それが、「あにき」と生前口を聞いた最後となる。

 12月31日、母・菊江(56歳)死去。
しかし、今際のきわに立ち会うことが出来なかった。
母の死は、「日本一のマザコン」の性格を決定付ける。
 そして、間もなく保釈金500万も没収された。

その日、偶然出会った、木滑氏より食事代(逃亡資金)として8000円をもらう。

昭和44年(29歳) 

3月、逃亡先の中野ブロードウエイで多数の警官、刑事に囲まれる大捕物の末、2つの手錠を後ろ手に掛けられる。
この護送の車中、その手錠を破り逃亡を試みるが、そのまま赤坂署に車は飛び込み手錠4つ嵌められてようやく逮捕される。
そして拳銃不法所持の罪状で(しかもその数、書類上は250丁!実際には5百丁!)、
6年半の獄中生活を送ることとなる。

4月、秋田川尻の刑務所へ下獄、「高校時代から続く真夜中に大声で叫ぶくせ」のため病舎へ送られ、さらに「生来の乾分を作り易い体質」が警戒されて4年8ヵ月の独房暮しとなる。
秋田では、本を読みたいので昼間、作業をしなかったため、食事が量の少ない5等めしであった。
そのおかげで、入獄前には120キロ近くあった体が“国費の強制ダイエット”で最初の一年半で40キロ痩せる。
栄養失調のため30メートル先の風呂場に行くのに2、3度倒れるほどであった。
夏でも冬でも、毎日、最低7時間の読書を課し、看守から『元旦くらい勉強するのをやめろ』と言われるほど、絶え間なく古今東西の書物を読み漁り、日々、大学ノートに文字を刻み、その数は41冊に。

獄中で博覧強記の人となる。

昭和45年(30歳) 
三島由紀夫死去の報に、秋田の獄一人喪に服す。

昭和48年(33歳)

山形の獄に移監。独居房から雑居房へ移され印刷をしている第一工場で写植係として働く。
印字表を覚え、すっかり校正が出来るようになる。
「不良だけに校正は旨いんだよ」と。
塀の中のソフトボールにも精を出す。
刑務所内で月に2回行われる俳句会に欠員があり入会。

昭和49年(34歳) 

8月、出獄。妹の仲人、吉田安男、義弟の鈴木修、修の従兄弟の藤井克育に迎えに来てもらう。

入獄した夜、出獄の日に必ず食べようと決めていた仙台の「大町とんかつ」の「ひれかつ定食」を食すが、<ああ俺は自由になったんだ>と心の底から喜ぶが、麦飯に舌が慣れ運ばれてきた白米を半分も食べられなかった。

夏、代々木の床屋ナリオカで、高校の後輩、川村光生と再会。
その後も、鳥越祭りを楽しむ会、出版パーティーなどを協力してもらう。

昭和50年(35歳)

拳銃不法所持の際、麹町警察署の留置所で邂逅した一力会会長、鍋島力哉と一緒に訪ねた南青山の新日本プロレスの事務所にて初めてアントニオ猪木と出会う。

立派な挨拶をしてくれるが、
「こいつは一筋縄ではいかない漢だ」が第一印象。

その後、猪木とはラテンクオーター等で親しく会話をかわすようになる。
この年、高校時代の恩師・能村先生が俳句とエッセイの名手であることを知り、それを機に、俳句本に猛然とのめり込む。

小野里稔(現『Free & Easy』編集長)と邂逅。

地元、市川学園の後輩で、氏は後に製作会社IVSを経てイースト入社。
後の百瀬テレビ人脈の端緒となる。

昭和51年(36歳) 

 6月。毎年6月7日に近い日曜日に開催される鳥越祭りに際して浅草鳥越神社の氏子として、母、菊江を追悼するために『鳥越祭りを楽しむ会』を初めて主催。

この祭りのために百瀬と染め抜いた半纏を30枚あつらえる。
(今でも、この会は主催しており百瀬人脈が勢揃いする)

 自伝的エッセー、私家版『僕の刀』上梓。
この当時の記述、極端に少ないが、「東奔西走し主に不良債権回収の旅をしていたが今だ機が熟せずだったな」と本人の弁。

 与党総会屋である経営者保護協会設立、八重洲画廊設立など。

昭和56年(41歳)
 4月、解離性大動脈瘤の手術で、裕次郎、慶応病院に入院。

昭和58年(42歳)
 山陽新幹線のグリーン席で、詩人の高橋睦郎と邂逅。

昭和59年(44歳)
 地元・市川に新設された古本屋にブラリと入ると、その主人が株の天才であることを発見、その才能を見込み親交を深める。

 その後、彼に300万円の資金を預けると、大儲けし、さらに、知人14人から集めた5千万円を運用し、バブルの弾けるまで、彼の儲けた資産は総額960億円まで膨れ上がる。

昭和61年(46歳) 

 私家版詩集『絹半纏』上梓。
映画「パリ、テキサス」の主人公の貧乏たらしい野球帽姿に心を打たれて、
(FOREVER YOUNG AT HEART)のロゴの入ったアドミニラル・キャップをかぶり始める。後にトレードマークとなる。
(本意は、お金持ちに見えないために、かぶり始めたらしいが……)
以来、鳥越祭りとお葬式以外はこの帽子をかぶらない時はない。

昭和62年(47歳) 

7月17日、「惚れて惚れて惚れぬいた」石原裕次郎死去。

 詩人の高橋睦郎に歌舞伎座で20歳年上の人間国宝・中村雀右門丈を紹介され、その後、長く親交を暖める。毎年、鳥越祭りで着る着物は、雀右門丈に貰ったものである。
 9月、池袋西武百貨店八階特設会場、「石原裕次郎展」で「裕次郎を語る」トークショーをアントニオ猪木と出演。
 俳句研究『にんげん歳時記』に連載。

昭和63年(48歳) 
 永井荷風、志賀直哉、谷崎潤一郎等の小説、源氏物語などの英訳及び、川端康成のノーベル賞受賞に深く関わったエドワード・G・サイデンステッカー氏と邂逅。
 氏が鳥越祭りにちなんだ文章を発表したことを機に氏に連絡したところ、「ぜひ会いましょう」との話になり、二人で対談集を出すことに。
 バブルの絶頂時に、失われた東京を求めて二人で東京の各所、柳橋、浅草、上野、新宿、麻布を対談しながら見て回る。
 青山の表参道近くのマンションに仕事場を持つ。

 新潮5月号、千号記念号に山本健吉氏が「百瀬博教という詩人」で激賞される。

平成元年(49歳) 

新潮45『不良日記』連載(平成元年1月~平成2年12月)
サイデンステッカー氏との対談共著『私の東京』(富士見書房社刊)出版、解説、大岡信。
赤坂のゴーゴークラブ「夢幻」の売却を巡り邂逅した、「レイトンハウス」の社長、赤木明と懇意になる。
(赤木明は、伝説の地上げの王としてバブル期に君臨)
F1に参戦した赤木社長とF1観戦のため、イタリア旅行へ。

平成2年(50歳) 

赤木明にF1ハンガリーグランプリに招待される。

平成3年(51歳) 

「ガリバー誌」に『空翔ぶ不良』連載
(平成3年4月~平成4年)世界を旅行して周ることに。
NY、パリ、ロンドン、ブタペスト、北京、サンクト・ペテルブル、モスクワ等、を大尽取材旅行。
イラストレーター安西水丸氏との二人旅に。

NYではじめて見たスノードームの収集を始め、
スノードーム協会事務局長に就任。
現在1700個を所有。
これを機に安西氏が百瀬本の大半の装丁を担当するようになる。

赤木明氏により、F1ハンガリーグランプリに再び招待される。
また赤木氏他、7人に現金27億円を貸し付ける。

大学時代の後輩、立教大学相撲部監督・堀口圭一が、
母校・立教大学相撲部をモデルにした、
映画「しこふんじゃった」で、人気監督となった、
周防正行監督との交流はじまる。

10月、バブル崩壊の余波を受け、「金運大明神」と言われた黄金時代の終焉。一文無しとなる。

株の天才である市川の古本屋の主人、レイトンハウス社長・赤木明、富士銀行乃木坂支店長が延べ4000億円の不正融資を行っていた疑いで、富士銀行不正融資事件に関わり逮捕。

平成4年(52歳)

 花田紀凱編集長時代の「週刊文春」誌に『不良ノート』連載始まる。
(平成4年8月~平成6年9月)
 初の週刊誌連載で話題になるが超多忙に。

 評論家から「真の不良文学」「背徳の文学者」「日本のヴィヨン」「日本のシラノ・ド・ベルジュラック」と騒がれるようになる。

 9月7日、マガジンハウスの石川二郎氏との打ち合わせをするため出向いた赤坂の「春秋」で裕次郎の告別式以来、5年ぶりに石原慎太郎に邂逅。
 「お前の書くものは、ロマンチックすぎる、センチメンタルすぎる、お前は、受動的なんだ。なんでも受け入れちまうんだ。女なんだ、それじゃあ駄目だ」
 と言われる。
「……だから石原さんは総理になれないんだ」と応じ、帰り際、
「ここでお見送りします。そうだ。先刻、弱々しくなったと言いましたね」と言って氏を抱きかかえ上げる。

『不良少年入門』(カッパサイエンス)出版
         
アントニオ猪木と獄中生活18年の右翼運動家、野村秋介の諍いを仲裁。
双方に信用を得る。

平成5年(53歳)

2月10日、旧年12月28日亡くなられたマガジンハウス会長、清水達夫氏をしのぶ会が帝国ホテルで開催。
 氏とは、幼年期を送った日本橋から会長になるまでを二人で語った対談集である「下町・風神雷神」が上梓する前に亡くなられ幻の著書となる。

6月13日、丸の内ピカデリーで北野武監督作品「ソナチネ」を鑑賞。

 乾分たちを紙相撲の力士を見立てて遊ぶシーンに、こんな子供じみた遊びに心底熱中してしまう漢とスクリーンを通じて邂逅できたことと、インチキ臭いことの大嫌いな漢の生得持っている人格に感動。

週刊文春連載の「不良ノート」に「ソナチネを観た日」と題して書き綴る。
この章を読み、水道橋博士、俄然、興味を覚える。


平成8年(56歳)

裕次郎追悼本、『俺の裕次郎』(クレスト社)出版。スノードームコレクションを安西水丸氏と語り会い、各界のコレクターが綴った『スノードーム』(キネマ旬報)出版
Bart誌『東京不良グラフィティ』連載
(平成8年10月~平成9年10月)

平成10年(58歳)

 花田紀凱氏との共著『総会屋から見た日本企業』出版
 週刊宝石『百瀬博教交遊録』連載(平成10年10月~平成12年8月)

 西麻布「キャンティー」で邂逅したK-1石井館長、RINGS代表前田日明らとの交流が始まり、俄然、格闘技界との接点が深まる。

 K―1ラスベガス大会に観戦旅行に出掛けたところアントニオ猪木と再会。
またPRIDEを主催したKRSが経営危機で、行き詰っているところ、PRIDE再建チーム(森下、榊原、谷川、柳沢ら)と邂逅。
世話人就任を依頼される。
(しかし、当時は高田 vs ヒクソン戦さえ見ていなかった)

平成11年(59歳) 

 名古屋レインボーホールにてPRIDE5を初めて観戦、その後PRIDEの世話係、プロデューサーに就任。同時に「格闘技興行についていろいろ教えてください」と教えを乞い、アントニオ猪木にPRIDEエグゼクティブプロデューサー就任を要請。

『Free & Easy』(イーストプレス)
「百瀬博教のミッドナイトシュークリーム」を連載(11年8月~)
メンズウオーカー(角川書店)に「裕次郎時代」(5月~翌4月)を連載。

10月4日、TOKYO FM「ビートニクラジオ」にてゲスト出演。
ビートたけし、浅草キッド、とラジオ共演。浅草キッドの初遭遇となる。

11月21日 PRIDE8 有明コロシアム
イゴール・ボブチャンチン vs フランシスコ・ブエノ戦のIR、KO劇に興奮。いまだに生涯観戦のベストバウトに。


平成12年(60歳)

 PRIDE順調に拡大。
 世界一の格闘技イベントに成長し人気を博す。
 マッチメーカーとして、次々と本人が直談判で選手を投入。
(小川直也、藤田和之、ケンドーカシンなどなど)

 世間ではプライドの会場で猪木の隣に座る、正体不明の怪人として話題になる。
 また猪木とは、リング外でもプランナーとして猪木詩集『馬鹿になれ』、
 豪華写真集『INOKI ROCK』をプロデュース。

 5月、東京ドームでPRIDEグランプリ開催。桜庭和志が90分に及ぶ激闘でホイス・グレイシーに歴史的勝利を収めた瞬間、リングサイドに居た浅草キッドをアントニオ猪木に紹介。

 12月3日、 雑誌「映画館へ!」で北野武と対談。
 生まれてはじめてタバコに火をつける。
 「石原裕次郎のたばこの火だってつけたことないんだけど、めちゃめちゃ好きな北野武監督のタバコの火は、こらからもすけさせてもらいます」と。
        
平成13年(61歳) 

 CS朝日ニュースターの対談番組、「百瀬博教 時間旅行」テレビレギュラー、スタート。

 出版界の仕掛け人であり、石原慎太郎の最側近編集者でもある、見城徹の要請を受けて、『プライドの怪人』(幻冬舎)出版。

二人は何度も面識がありながら、「俺を嫌っていた」と思っていたが見城氏は、「真っ当に、共同体の規範とは違う、自分の規範で生きてきた人と、小手先で何かやったらならば、生涯顔向けが出来ない」と思っていたと。

 8月19日、「K―1アンディーメモリアル2001」にて「K-1VS猪木軍」、藤田 vs ミルコ等のカードで開戦、
その背後で猪木と石井館長の間を取り持ち、黒幕ぶりを発揮。
 12月31日、大晦日イベント『INOKI BOM-BA-YE』では、
紅白歌合戦にTBSの裏番組で勝負し、民放最高の14・9%を記録する。

平成14年(62歳)
 
8月28日、国立競技場で9万人を動員する、記録破りの格闘技イベント『Dynamite!』開催。
アントニオ猪木の地上3千メートルの「闘魂ダイブ」をプロデュース。

平成15年(63歳)

 地上波進出。テレビ東京「プラチナチケット」レギュラー出演。
猪木、ボブサップと共にメインキャラターに。

  文化放送「百瀬博通の柳橋キッド」スタート。
  ラジオパーソナリティーに。

 6月、主催する「鳥越祭り」にアントニオ猪木、ボブ・サップの2大スターが参加。

  8月、PRIDEミドル級グランプリ、桜庭 vs シウバ戦の勝者、シウバからマイクを受け、リング上で初めて、興行主、勧進元として挨拶する。

「え~もう胸がいっぱいで、何を言っていいかわからないような気持ちです。え~私の母って言うのは、格闘がすごい好きで、私は日本一のマザーコンプレックスなので、もう三〇年も前に亡くなった母に、世界一強い選手の試合を見せようと思って、毎回毎回努力してきました。これからも皆さんに、もの凄い試合を見てもらおうと思っています。どうぞこれからもPRIDEをよろしくお願いします。どうぞよろしくお願いします
(と4方に頭を下げる)」
 この挨拶は、子供時代に相撲協会理事長が挨拶する様を見て、憧れた夢の実現でもあった。

 8月22日、なかのゼロホールにて、浅草キッドと共に「男の星座祭り」を開催。

〈この年表は、このイベントに向けて水道橋博士が作成したものである。〉

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