見出し画像

『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#2

 物語を書きはじめる前にことわっておきたい。
 プロローグで、この本はノンフィクションではないと書いた。
  ノンフィクション作品の定義には私は書き手として拘っているので、両論併記や引用資料の明記、引用部分の指定は必要と考える。
  そこで、まず、この物語はその条件を満たさない。

  その前提での読み物として認識して欲しい。

 故・百瀬博教は数十冊の著書と書籍化していない雑誌の原稿を含めて膨大な活字を遺して逝った。
  氏の文章の特徴は過去を回想するのに、ほとんど「日付」を打たないことだ。
  そこで私は氏のほぼ全ての文章を蒐集し、わかるものは日付を打ち直し、時系列に整えた。
  そして本人にインタビューして聞き書きを加えた。
 地の文章にはあえて氏の独特な懐古的な文章を引用し文体を整えた。

  この物語では百瀬博教本に頻出する一人称の「私」を「博教」に、普段、私が一人称に使用する「ボク」を「私」に変えて物語っていくことにした。

  だからこそ、この物語は百瀬博教本人が書き、語った自叙伝であり、百瀬博教の主観で描かれた『命懸けの虚構』なのである。

文武両道

  本編に入る前に、私と百瀬博教の関係を整理しておく。
最初の出会いは1999年10月4日のTOKYO FM『街で一番の男〜ビートニクラジオ』のスタジオだった。
 この番組は師匠・ビートたけしがメインに、弟子の我々、浅草キッドが殿にお目通りする大物ゲストを招く構成であった。
  当時の百瀬博教は既に格闘技プロデューサーを既につとめていた。

  私は、それ以前に百瀬博教が1992年から週刊文春に連載した『不良ノート』を熟読しており、また北野武監督作に寄せる一文に猛烈に惹かれており、この番組のゲストに「作家」として推薦した。

 当日、編集者の花田紀凱と連れ立ってラジオブースに入ってきた百瀬博教は我が師・ビートたけしとの対面は「意外にも」三度目だった。

 その日の様子を百瀬博教が『週刊宝石』の連載『百瀬博教交友録』(1999年11月11日18日合併号)に残している。添えられたイラストレーション・題字は百瀬博教と生前特に懇意だった故・安西水丸だ。

画像1

百瀬博教交友録 
「日本一の母親孝行」北野武と過ごした夢の二時間

 平成十一年十月四日六時、麹町の「ダイヤモンドホテル」の新館ロビーで、「メンズウォーカー」の編集長花田紀凱を待っていると何時ものように遅れることなくやって来た。
 これから彼に案内されて近くにある「TOKYO-FM」へ行き「HANA-BI」でベネチア賞をとった監督北野武と対談するのだ。この対談は、番組の進行役である浅草キッドのリーダー水道橋博士が、拙著のとても良い読者だったことから実現した。本当は八月二十五日に行なわれるはずだったが、北野武の母堂が亡くなり、その日が葬儀の日と定められたので急遽延期となった。      それがこの日実現されるのだ。「どんなこと喋ればいいのかな」「何時もの調子でやればいいんです」
 テレビにもラジオにも慣れている花田は何の相談にも乗ってくれず、カプチーノを啜っている。と急に、
「前田日明さんと高田延彦さんの対談をアントニオ猪木さんが司会するっていうのメンズウォーカーでやりたいんだけどどうでしょう」
「どうでしょうって、何かものを頼む時だけ、いきなり取って付けたようにいい言葉遣ったって駄目ですよ。前田と高田の対談はまず無理。そしてそれをアントン(アントニオ猪木)が司会するとなれば、まあ最低百万円は用意しなくちゃならないよ。司会してもらった後で、前田、高田、猪木の三人を連れて、アントンの大好きな気の利いたイタリア料理の店に行くとするじゃないか。そうすると彼は支配人を呼んで『いつもの百万円のワインある』って照れずに言える人なんだ。ケチな原稿料程度じゃ納まらないぜ」
「そこを百瀬さんと猪木さんの仲ということでよろしく頼みます」
 まあ、絶対に実現しない企画なので、頼まれた私もそんなに重圧を感じずにすむ。
「前田さんと高田さんの対談はまず無理って返事でしたけど、どうして」
「でしたけど、なんて言葉普段使わない人じゃないの。そうやって美しい言葉が使えるんならどんどん使った方がいいね。普段の貴男の言葉遣いは、あまり褒められたものじゃないんだから。有名なレスラーくらい難しい人間てないんだってことを知っちまうと、彼等の心の深い部分にある『オレは日本一』という心情に触れる仕事は 持ち込みたくないんだ」
「その辺はよく理解らないけど、一つよろしくお願いします」
 懲りない編集長とこんな話をしている中に「TOKYO-FM」のスタジオヘ行く時間になり、皇居を見下ろせるビルの八階に行った。
 ラジオ出演は初めてだ。どうぞこちらへと通されたスタジオには、
映画やテレビで見たことがあるように、随分大勢の人が働いていた。
 ガラス張りの奥の小さな部屋に入ると、机を挟んで北野武が長袖のシャツ姿でこっちを向いて坐っていた。
「この度は御母堂様がお亡くなりになり、さぞかしお力落しのことでしょう。お悔み申し上げます」
 と言うつもりだったが「この度はどうも」としか言えなかった。
 夢のような対談を前にして上がってしまったらしい。 マイク・タイソン、オスカー・デラホーヤのように、一秒いくらの北野氏をぼやぼやさせておくわけがない。早速水道橋博士、玉袋筋太郎両人の進行で、「北野武vs百瀬博教」という、私が十年前から夢に見ていた対談が始まった。
「今夜は作家の百瀬さんです」
 と水道橋博士が私をリスナーに紹介してくれたり、一九四〇年生れでしたよねと言われた時も、大きくうなずいただけだったので、これではいけないと思った北野武が、
「百瀬さんはラジオに来て一言も喋ってないぞ。声が無いので本当に居るのかどうかわかんないだろう、お前」
 と水道橋に言ってくれた。そうか、これはラジオだからうなずいていてはいけないんだと大いに反省。
「裕次郎さんと百瀬さんてどういう出会いなんだろう。俺、そこが聞きたい」と北野武は私が喋りやすいように仕向けてくれる。
 石原裕次郎との出会いを喋ろうとすると拙著「不良ノート」(文藝春秋刊)「不良日記」(草思社刊)を詳しく、読み込んでくれている水道橋博士が、「まああの詳しくは、おいおいとこう語っていくということで、前半のCM前は私の一人語りですみませんでした」と言って対談が再開する。
「まず、殿(北野武を弟子達はこう呼んでいる)との出会いを教えてもらいたいと思っているんですけど」
 最初は田辺音楽出版の川村龍夫に銀座のクラブで紹介してもらった。北の湖が横綱現役の頃だけど、まるで力ずくで年貢米を取られてる百姓が嫌々悪代官に頭下げるみたいに、もう地べたにおでこがくっつきそうなやり方で挨拶されたので、こっちが恥かしかった。
 紹介者が怪しいとこんな風になっちまうんだって、心の中で泣いていた。
 その後、西麻布のイタリアンレストランで再会した時、俺の書いた『ソナチネを観た日』を読んで理解してくれたらしくて、向うから『お話しませんか』って言ってくれたんで、嬉しかった」
 それから、水道橋博士の質問の意味を取り違えておかしな返事をしてしまった後に、下獄中の話、市川の古本屋の主人がバブル時代に九百六十億円の資産を持ったが、それがはじけて一銭無しとなった話等々を、約二時間喋りに喋った。
 対談の中で、北野氏ほど母親孝行者はいない今太閤だと言った。
 そして、二番三番はなく四番は正道館々長石井和義の名を挙げた。
 対談が終り、花田と食事に向う車の中で、もし自分の母親が生きていて今夜の対談を聴いたらどんなに喜んだろうと思った。
 そして自分があの対談の間じゅう如何に上がっていたかを知った。
 母親孝行では北野氏にも負けない男を思い出したからだ。
 それは映画監督周防正行だ。しかし、周防が鯉の滝のぼりよろしく、鯉から竜となって世界的な監督として名声を得ると、それまで彼の周囲にいた者達は、彼が変ったと言い出すようになった。そうなるのがあたりまえなのだ。
<竜は本来孤独な動物である。それが雲をけって上昇する途には、友情などが入りこむ余地がない。竜となった人物が愛情をそそぐのは、そのリーダーシップに服し、彼の副業をたすける人々に対してであって、ともすれば、彼を批判しがちな友人に対してではない>(「二流人物論」より)

 竜の中の竜北野武と思いっきり喋った私は西麻布の「キャンティ」で、オーソブッコを喰べようと思った。
                          (敬称略)

 現在も書籍化されていない、週刊誌の連載原稿をそのまま丸ごと引用したのは百瀬博教の独特の口調、このような文章を手書きで原稿用紙に書く作家であること、すでにマット界の黒幕的立場にあることを今の読者にイメージして欲しい旨だ。
 また私はこの錚々たる人物が入り乱れる「百瀬博教交友禄」の書籍化を長く望んでいるが、いまだに叶わないままだ。
 ここでもうひとつ指摘しておくと、この連載はそれまでの百瀬博教の随筆と異なり、過去回想ではなく日付が打たれており現在進行形であったことだ。(1998年10月8日から2000年8月17日号まで連載は続いた)
 その後、ビートたけしと百瀬博教の両者は交流を深めたが、それは、この文章の後半部分に書くことになるだろう。
 私は、これを機に氏の面識を得たが、当時は自分が書き手になることを自認しておらず、もっぱら周囲の懇意のライターに氏の評伝・自叙伝の執筆を薦めていた。
 特に書評家・吉田豪は百瀬氏直々の指名で数度のインタビューを果たしていたが、当時の格闘技界の不穏な空気と、百瀬主観に寄せた内容になることを危惧、又、取材対象との距離感を保つ自己ルールのため一度、その原稿から離れた。(賢明な判断だと思う)
 私は、その未発表の原稿を吉田豪に「是非、読ませて欲しい」と頼み込み、渡された原稿の面白さに仰天して、個人的に趣味として百瀬博教研究が日課と成った。

  さて「武」を師と仰ぎつつ、「文武両道」と名付ける、私の「文」の師であるのは高田文夫だ。
 氏と百瀬博教の出会いについても書籍化されていない原稿を書いているので、生前の氏の人柄を知らない人のために、ここに再録したい。

笑学校課外レポート No.13
百瀬博教 vs 高田文夫 私情最強トークの実現

 「オマエらの漫才があそこまで凄いとは思わなかったよ。でもオマエは話を説明しているだけで全部、相棒が面白いこと言ってるじゃないか!」
 若干の怒気を孕みながらボクに苦言を呈しているのは百瀬博教氏である。
 63歳には見えない、その巨躯から発せられる尖った言葉は、まるでスターウォーズの悪玉、ジャバ・ザ・ハットの如く、得体の知れない威嚇に満ちている。
 PRIDEの会場でアントニオ猪木の隣に座る強面の格闘プロデューサーとして、その存在を世に知られ浅草キッド著『お笑い男の星座2 私情最強編』の最終章の登場人物として接近して以来、ボクはこの稀代の怪人と急速に交流を深めていた。
 そして氏が2003年4月1日、ボクたちの本業である漫才の本場所『我らの高田笑学校』へ観客として足を運んだ、その翌日、青山の百瀬邸で昨日の舞台を振り返っていた。
 丁度、同席していた番組制作会社イーストの次廣ディレクターが、
「百瀬さん、博士は突っ込みですから、あれがスタイルなんですよ」
 と妙に丁寧な説明してくれた。
「ふ〜ん。そうなのかぁ……」と含み笑いを浮かべる百瀬さん。
 それがボケなのか本気で言っているのかわからず空笑いをするボクに対して「でも一言だけ言っておくけどな。なんでオマエらは、あの舞台に出てるんだい? いったい高田文夫にどういう義理があるの? 彼は関東高田組ってシマを名乗って、どういう了見で北野武の乾分のおまえたちを仕切っているの?」
 と唐突に聞いてきた。
 氏は今でこそ作家・詩人の肩書きではあるが、侠客の家に生まれた仕事柄、親分、乾分の義理立て筋が通らない行為にはことさら厳格だ。
 だからこそビートたけしの弟子、乾分で仕えているボクたちが、よりによって「関東高田組」と名乗って「高田笑学校」と題された舞台に上がることは、一見、仁義を欠いている姿を怪訝に思ったようだった。
 縄張り争い? これは面倒な話だ。


 ボクはその頃、まだ氏と今ほど懇意ではなく、いささか曲解とも思えるこの誤解に対し、
「……手前、北野一家に遣えます、若い者、親分の盃兄弟、関東高田組で稼業、漫才師をしております。以降、万端宜しくおたのもうし……」などと即座に簡単明瞭に仁義を切れるはずもなく、事の経緯や事情を説明できなかった。
  しかし堅気の人間が実録物のヤクザ映画を抗争する理由や、細かい組織図、人間関係まで、初見では良く理解できないのと同じで〝プロ〟の百瀬さんとて演芸界の話となれば、その師弟関係やら師匠と放送作家との関係やら分からないのも無理はない。
 だからと言って、これから生じるであろう様々な綻びを、そのまま繕うことなく放置しておくこともできなかった。
  翌日から数日かけて、ボクは意を決して長い手紙を書いた。 
 それはボクたちが、いかにして、たけし軍団入りしたか、その後、演芸界に於いては高田先生に私淑して舞台を踏んできた過程、また関東高田組の説明、高田文夫=立川談志門下の立川藤志楼の落語家としての歩みなどなどを説明した上で、さらに高田先生の著作『毎日が大衆芸能』と『江戸前で笑いたい』の2冊をその手紙に同封した。

  数日後、再び、青山の百瀬邸に呼ばれた。
「おい読んだよ! わざわざありがとうな。あの本、読んでわかったけど、俺にとっては立川志の輔があんなに名人だったってことが発見だな! いいものを紹介してくれてありがとう!」
 この怪人、漫才の形式すらも知らない演芸音痴に見せかけているが実は幼少からの演芸通で、ボクの前では文字通り三味線を弾いていただけなのだ。
 なにしろ柳橋の顔役の家に生まれ、粋筋を可愛がる家風から、正月には吉原から幇間を呼び獅子舞を踊らせるような育ちであり、曾祖母が南千住に「柳亭」という寄席をもっていた。
 揺籃期から、この寄席に柳家三亀松、唄入り観音経の三門博、作家の正岡容、浪曲師の広沢虎造、玉川勝太郎、歌舞伎の中村勘三郎等々、年中、芸人が家に出入りしていた。
 その一方で力道山のスポンサーとしても知られる明治座のオーナー新田新作が父親の乾分筋に当たることから、毎週日曜日、浜町の明治座へ通い、新国劇、歌舞伎、新派、浪曲の舞台を見尽くす生活を送った。  
  しかも、5歳以降の記憶が全て頭に映像として刻印されていると言うほど、細部にわたり写真的記憶がある特異な才能を氏は持っている。
 まさに「想い出に節度がない」と自称するほどで、氏が記した著書には原体験の洪水と郷愁が溢れ返っているのだ。 

 それは評論家の川本三郎をして、
「百瀬博教の遊びには年季が入っている。子供の頃から自然に鍛えてある。にわかシティーボーイとは格が違う。何しろ子供の頃から吉原の太鼓もち、桜川忠七の芸を見て育っているのだから羨ましくなる。父親に連れられて明治座に新派や歌舞伎を観に行く。花柳章太郎、水谷八重子の『鶴八鶴次郎』に感激する。家には古い落語や浪曲のレコードがたくさんあり、金馬の『居酒屋』、金語楼の『入営初だより』、虎造の『石松代参』を聞いて育つ。年季が入っているというのはこういうことだ」と評されたほどだ。

 そして古いものにも愛着が強い。狂とつくほどの古本マニアであり、また作家では明治、大正の東京を愛する安藤鶴夫、戸坂康二、川口松太郎などを愛好している。
 さらに6年半の刑務所服役時代に濫読を続け身に付いた教養と知識量は計り知れない。

  余談だが、ボク自身が氏を生半可ではない演芸の通人として心得るに至ったのは、
「ものの始めが一ならば、国の始めは大和です。お仙ちゃんの腰巻真っ赤です。赤いものを見て迷わぬ奴は、石仏、木仏、金仏、四角四面は豆腐屋の娘、色が白いが、ちょっと水くさい……」
 と寅さんでお馴染みの啖呵売を、よどみなく語ってみせてくれた時のことだった。
  これは40年前に氏が、麹町の警視庁の取り調べ室の留置場で知り合った香具師が隣の房で語っていた口上をそのまま脳裏に刻み込んだものを、ボクの前で再現してくれたのだ。
  また秋田の獄で覚えた『江戸の尻取り』の暗誦をマガジンハウスの清水会長が舌を巻くという逸話が著書に出てくる。
「百瀬さんの本に出てきた、あのエピソードって本当に覚えているのですか?」と話を振ったところ、
「いいかい、よく聞けよ!」と前置くと一瞬、目を閉じて記憶の底を洗うと、滔々と喋りだした。
「……ボタンニカラジシ、タケニトラ トラヲフンマエワトウナイ ナイトウサマハサガリフジフジミサイギョウウシロムキ ムキミ、ハマグリ、バカ、ハシラ ハシラハ2カイトエンノシタ シモタニウエノノヤマカズラ カツラブンジハハナシカデ……」
(※牡丹に唐獅子、竹に虎 虎を踏んまえ和藤内 内藤様は下がり藤 富士見西行うしろ向き むき身、蛤、馬鹿、柱 柱は二階と縁の下 下谷上野の山鬘 桂文治は噺家で……)
 この後も果てしなく延々と続く言葉の羅列を、まるで原始的ラップとでも言うべき独特の節回しでボクの前で諳んじて見せた。
 これは講談師になってもきっと太成したであろう。

 このずば抜けた過去再現能力は、氏の言葉への感受性に起因しているのだろう。
「人は言葉でぶっ飛ぶ!」
 と何度も著書で繰り返すように、芸事に限らず、詩、俳句、小説などの文芸など言葉が孕むドラマに対する強い感受性は生来のものであり、故に氏は「人生を一遍の詩のように生きる」ことを是とし「言葉でうっとりとする」瞬間を求めて半生を送ってきた。
 しかし、氏はこうした過剰なまでの純情と詩情溢れる「文」の世界への傾倒がありながら、アウトローが蠢く「武」の世界を命懸けで生きてきた漢(おとこ)でもある。
 19歳のとき赤坂ニューラテンクォーターで用心棒となり華やかな社交界と権謀渦巻く裏社会を知り尽くし、20歳の時、当時、日本映画界最大の花形で時代の寵児であった石原裕次郎の私設ボディーガードとなり、その後、綺羅星のようなスター達の裏面を知り尽くす立場となる。
 そう。この怪人の略歴、人脈を追っていけば、戦後芸能史が影絵のように浮かび上がってくるのだ。

  数々の氏の交遊のなかでも、特筆すべきエピソードと云えば、今では二人旅に出かけるほど懇意な立川談志師匠との邂逅であろう。
 1993年、TBSのハイビジョン放送の番組『SHALL WE 談志』に百瀬さんが出演した時のことだ。
  当事、週刊文春に連載していた『不良ノート』での書き手の記憶の鮮やかさ、粒だつ細やかさに感心した談志師匠のリクエストであった。
 これが百瀬博教と立川談志との初対面、竜虎相まみえた演芸界伝説の〝第一次頂上作戦〟だった。
  組長と家元による過去の思い出ゲームの末、その演芸通ぶりが認められ、この二大巨頭はすぐに意気投合する。
 番組の中で師匠が聞いた。
「でも、なんで刑務所に入ったんでしたっけ?」
「僕は拳銃不法所持で入ったんですよ!」と百瀬さん。
「拳銃ってその程度で? 6年も?」
 真顔で聞いた師匠に氏は平然とこう返した。  
「その程度って言ったって、師匠、僕、拳銃を600丁位持ってたんですよ!」
 大喜利で問題にしたって決して出やしない桁外れの回答に、てっきり一丁だと思っていたのだろう、さすがの談志師匠もスツールからのけぞるほど爆笑していた。
  とはいえ昭和38年頃、百瀬さんがポンティアックに乗ったまま青山墓地で三角窓から電信柱ごとに早撃ちの射撃訓練をしていたという話の後に、
「そんだけ撃ってよく捕まらなかったね~。俺も、こっち(注射)の方は打っていたけどね~」
  負けずに逆襲するあたり家元も見事だった。
 
 2003年8月22日──。
 ボクたちは、『お笑い男の星座祭り』と題し、ゲストの百瀬さんに夥しい昭和裏芸能史を語っていただくべくトークライブを開催した 。
 35年前の拳銃不法所持事件の逮捕劇となった中野ブロードウェイでの大捕物帳から話が始まると、博覧強記の百瀬さんの記憶が次々と沸きあがった。
 少年時代から面識がある力道山、石原裕次郎との出会いと別れ、用心棒時代の修羅場の数々、バブル時代の960億円まで膨れ上がる株投資話、アントニオ猪木との蜜月関係の真相など、劇画から抜けだしてきたような半生が語られていく。
  規格外の仰天発言の連発に会場は息を呑み感嘆、そして爆笑に包まれた。
「バッバッ! ダハハハ!!」
  その客席で、一際、手を叩き笑い続けたのが高田先生であった。
  翌週の高田先生の連載コラムでは「男が騒ぐ百瀬博教」と題したライブ評を寄稿された。

 8月22日、浅草キッドが出版記念ライブ「お笑い男の星座祭り」。私はこの人の生しゃべりが聴きたくて夜の部、百瀬博教の巻へ駆けつける。最近では常にアントニオ猪木の隣にいる〝プライドの怪人〟として有名だが、我々にとっては詩人であり、日本一の不良であり、あの石原裕次郎のボディーガードとして知られる男の中の男である。当日は水道橋博士の手作りによる〝全記録〟百瀬年表が配られたが、これが実に手の込んだ仕事ぶり。舞台上のトークも、拳銃の話や逃亡中の話。石原兄弟との交流など男騒ぎする話ばかりで男汁飛び散るアッという間の2時間半。男が男であった時代に思いをはせる。  
      (2003年8月25日『日刊スポーツ』
                          「高田文夫の娯楽極楽お道楽」より)

画像2

 かくして、高田文夫、百瀬博教という直接面識のないふたりが舞台と客席に別れて見つめ合ううち、いつしか軌道がシンクロしはじめたのだ。

  そして、ついに演芸界の〝第二次頂上作戦〟が実現する。
  9月22日、新宿京王プラザホテルの一室で行われたCS朝日のトーク番組『百瀬博教 時間旅行』収録である。
 この番組は、百瀬さんがホストで各界の著名人をゲストに迎え、ざっくばらんに語り合う趣向の番組。
 今回、高田先生がキャスティングされたのだ。
 そして、二人を共に知る仲介役としてボクたちも同席することとなった。
「キッドォ、えぇ、今日は仕切り頼むよ! おい!俺、初対面の年上の人って苦手なんだよォ、で、先方さんの機嫌はどうなの?」
 とボクたちの念達ぶりを気にする高田先生。
 この初顔合わせに、ある意味、一抹の危惧を覚え最も緊張していたのは、その前後の小さな亀裂を知っているボクなのかもしれない。
 しばし先生とボクらが歓談していると、ついに百瀬氏一行が入ってきた。

 百瀬さんはご機嫌で入ってくるなり目の前にグラスに水を注ぎながら声を上げた。
「かんぱい! ぱい! ぱい! ぱい! ……」
 このフレーズは、高田先生の落語のCD『紺屋高尾』のなかのくすぐりで(正確に言えば春風亭昇太師匠の持ちネタを、さらに引用しているのだが……)、これは本人以外には伝わらない挨拶である。
 その出会いのツカミを聞きボクは安堵した。
  そして収録前、番組側が渡した立川藤志楼(高田先生の高座名)の落語のCDを持ったまま、百瀬さんが仕事部屋に篭ったきりだった、と氏の側近から聞いた報を思い出した。
 「距離は人を夢見させる」が百瀬さんの口癖でありながら、その一方で「出会いに照れない!」も信条でもある。
 だからこそ人との邂逅には徹底的にこだわるのだろう。
 かつて、この番組で横尾忠則氏と対談した際、百瀬さんが事前に文筆家としても旺盛な仕事量を誇るこの画伯の100冊を超える著作を全て読んでいて、作品解説をしても「私より詳しい!」と横尾さんを感嘆せしめたこともあった。

   収録開始より、二人はまるで旧知の親友の如く語り合った。
「高田さんの本、読んだんですよ。そしたらね、志の輔、小朝のことを褒めてたの。小朝って人は、どの程度の技かわかってたの『紙くず屋』とか聞いてたから。でも志の輔って今まで嫌いだったのよ。というのは、談志のパーティーに俺が行ったときに談志が『石原裕次郎の用心棒だった百瀬さん』って紹介してくれたら、志の輔だけが紋付着て司会者なのにワッハッハって笑ってるのよ。『いるわけないよ、そんな人』って顔してんの。俺のことを知らないから。それから何年かして、銀座の『美弥』で志の輔にあったら、もう態度が違うんだよね。その間に俺のこと学習したんだろうね。まあ頭の良い男だなぁとは思ったけどね。でも高田さんの本を読んで、気になって志の輔の落語のCDを全部買ったんですよ。で、みんな聴いてみた。そしたら、『千両みかん』から何から巧いんだよね。このごろあいつの顔を見ると『日本一の落語家』って顔をしてるね! それをちゃんと褒めてあげて育ててあげようとしている高田さんてスゴイなぁ!って思って高田文夫のファンになったのよ!」
   一気呵成に喋り捲る百瀬さん。
「そうっすかァ。それはありがとうございます」
 ガッテン!ガッテン!と得心がいった様子で高田先生も照れている。
「それで、今日は、その高田さんに、どうしてもお目にかかりたい、そして、先生に俺の芸を見てもらって……」
「ええぇ? 芸を見るんですか?」
 百瀬さんのまさかの〝ネタ見せ宣言〟に先生がずっこける。
「もう俺、不良とかね、金貸しとか、格闘プロデューサーとかね、もうやんなっちゃったんですよぉ。今日、来てもらって俺のことを見て、演芸通の先生に『この芸は、売れる、売れない』って判断してもらおうって……」
 百瀬さんの突然の芸人宣言と、この茶目っ気には一同大笑いである。

「十数年前に、たまたま夜中に見たんですよ。北野武と高田文夫の番組をね。高田さんが『この男は人を立てるなぁ』って見てたんだよ。でも高田さんが凄いのは『俺が育てた』って言わないところだね。高信太郎みたいな〝はんちく〟だと『俺がたけしを育てた』って言い過ぎて北野武も『何言ってんだ、この野郎』っていう感じになるよね。ケネディだって大統領になると父親が6人も出てくるんですよ。でも高田さんは落語でもそうだし、志の輔、北野武、立川談志……。いろんな人がいるんだけど自分より年上の人を立てながら、もっともっと凄くしてあげようって持ち上げるのはホントに偉いですよ。う〜んだから、俺がさっきから何が言いたいかって……俺がもう63歳だから……ということで、今日はこれが枕なんですけどワッハハハハ」
「ダハハハ! 志の輔も枕はたっぷりですからイイですよォ。百瀬さん、落語は子供の時からお好きなんですか?」
「僕は落語っていうものはなかなか接することがなくて……なにしろ父が弁護士だったものですから」
「クククッ そうなんですかァ?」
「ワハハハ! 父にそういうものは聴いちゃいけないって、マルクス・レーニン主義なんかを4歳の頃から勉強していたものですから、ワハハハ!」
「ダハハハ! その喋りイケますよォ~芸人でも!」
  百瀬さんが任侠の家系だと知っている先生も大笑いしながら合いの手を入れる。
 「戦後間もなく父の家へ柳家三亀松がストリッパー連れてきたり、玉川勝太郎、広沢虎造とか挨拶に来ていたから、芸人さんが本当はどんな人なのかって言うのはずっと見てましたね。これは内緒なんですけど、立川談志は俺のことを好いてくれてるんですけど、一番好きな落語家っていうと亡くなった志ん朝なんです」
「おぉそれはボクもなんです!」と高田先生。
「ちょっと待ってください! 先生は談志師匠の弟子なんですから、そこで乗ってどうするんですか!」
 ここまできて、ようやくボクたちが割って入ることができた。

  それでも尚、愉快そうな百瀬さんが語りかける。
「先生、聞いてください。うちの親父が、志ん生と可楽が好きだったんですよ。で、いろいろ聴いてみると、正蔵もやってますよ、柳朝も志ん朝もやってる、その3人がやってる『佃祭り』が束でかかっても志ん朝の左手の小指でポンッだね。そのぐらい違う!」
「やっぱり志ん朝ですよね、志ん朝師匠は若い時から好きでしたか? 朝太の時代?」
「だぁ~い好き!」
「ちょうど百瀬さんとは世代が一緒ですもんね。あの頃の朝太から志ん朝になった頃って言ったら元祖アイドルだったですからね。テレビの出始めの頃のスターですよォ」
「『サンデー志ん朝』なんか良かったね~。先生、俺もう、いやんになっちゃうぐらい好きだったねぇ」
「わかります、わかります!」と先生もノリノリだ。
「言葉遣いがいいのよ。俺の親父がしゃべっているような言葉を使うの。例えば『佃祭り』で、かつて永代橋で身投げを思いとどまらせた女とばったり出会って、その女の家に連れていかれると、その女の亭主が船頭じゃないですかぁ。それで『実はこの旦那に助けられた』っていうと、『じゃあ、すぐ魚屋行って、刺身そういってこい!』って言う。うちの親父もねぇ、いつも『そういってこい!』って言ってたんですよ。」
「同じ調子なんですね、志ん朝さんと親父さんが……わかるなァ」
 二人は意気投合し手を取り合わんばかりである。
 志ん朝の「そういってこい!」の一言だけでウットリし、同じ時代を共有し分かち合えることが出来る。
 それこそが古典芸能の「芸」の力なのであろう。

「ボクなんかも、志ん朝・談志の世代だから、百瀬さんがおっしゃってる事がわかるんですよ。ボクが大学生の頃、志ん朝師匠と柳朝師匠が二朝会を始めたんですけど、もう全部駆け付けましたね、二朝会に!」
「でも、柳朝で巧いのは『馬の田楽』ぐらいですね! ワハハハ!」
「そうそうそう、芸は上手くないんですよォ、伝法で威勢がいいだけでね」
「でも、柳朝がハワイに行ってフランク・シナトラに撮影の合間に暇だから、オイチョカブを教えたって話、あれは面白かったな!」
「そうそう! 百瀬さん、それよく知ってますねェ~『勇者のみ』に出てるんです映画に!」
「それだけが自慢だったんだもんワッハッハ、それで喋ってるところがだらしないのよ、池袋演芸場なの、ワハハハ。あの頃、僕は保釈中だったんだけど、41年頃、柳朝は凄かったね!」
「あの時代は、ボク、全部見てますよ!」
「名人会かなんかで日比谷を歩いてるんですよ。柳朝、すごいアロハシャツを着物にしたみたいなド派手な格好で!」
「しかし、百瀬さん、何でも知ってますねぇ、また古いことは!! ダハハハ!」
 まるで無邪気な子供のように馬鹿笑いしながら語り合う二人の話は、立川談志、三木のり平、林家三平、清川虹子、ビートたけし……と次から次へと名前が挙がり、時空を遡り止め処なく続いた。

  収録後、百瀬さんがドカドカとホテルの部屋から出て行った後、高田先生が呟いた。
「あぁウケたなァ……。それにしても、あんなによく笑う人とは思わなかったなァ~」
「先生、初対面には思えないですよ、昔っからの親友みたいでしたよ」
「なァ~。今日、全部、合点だよ。博士があの人に惚れるがよくわかったよ!」

 その一言はボクにとっての「そういってこい」であった。 

                                                        (笑芸人 2004年 新年号 1月)

どうだろうか、この対談の模様の再現だけで、知らない人にまで生前の百瀬博教の人となりが見えてくるのではないだろうか。

 私の子供の名前に掛けて「文武両道」として百瀬博教の対談を2編紹介したが、実は私には第3子がいる。名前は「士」と書いて「あきら」と読む。
格闘家の前田日明(あきら)を由来としている。実は私が最初に百瀬博教の話術に感心したのは前田日明との対談だった。
 私が百瀬博教に出会う前のことだ。
 ここに再録しておきたい。

 初出は1998年の刊の『格闘パンチ』
 この雑誌で百瀬博教と前田日明は初めて公式に対談をしている。


           ☆☆☆

 ──前田さんと百瀬さんは一度、西麻布の『キャンティ』で遭遇事件があったと聞いたんですけど。


前田 あれ、そうでしたか?



百瀬 あなたは男3人でスパゲッティを食べてたんですよ。で、俺はその隣の席にいた。そうしたらね、凄くあなたがいい、言葉遣いで話しててね。それで連れの人がフォークか何かを落としたんですよ。あなたがボーイさんに「すいません、すいません」ってお上品に呼んでいたら、そいつがマヌケな野郎で気がつかない。だから俺がね、「おい、ほら、何やってるんだ!お客様が呼んでるぞ!お前っ!」って言ったんですよ。




前田 ああっ、はいはい!ああ、そうでした、そうでした(笑)。




百瀬 そうしたらあなたがね「申し訳ありません」つて俺に言ったんですよ。あなたが帰る時にも「どうも先ほどはすいません」つて俺に挨拶してくれてね。「いえ、どういたしまして」つて俺も応えた。あなたは「なんか下品な人だなあ」という感じで俺のことを見てましたよ(笑)




前田 いやいやいや、えらい気合いの入った人だなと思ったんですよ。




百瀬 そうだったの。何から話をしようかなと思ってるんだけど、まず最初にね、俺はあなたに言いたいことがあるんですよ。要するにプロレスってのはカ道山が作ったじゃないですか。カ道山が作って馬場とか猪木とかが出てきてね、まあ前田さんが出てきたわけなんだけど。俺なんかはプロレスっていうのは全然わかんないんだけど、そのスター性っていうことにおいて考えるとね、たとえば力道山を長谷川一夫つていう感じにする。猪木が三船敏郎かな。そうするとあなたが石原裕次郎っていうことになるんだよ。


前田 石原裕次郎!ああ、そんな。



百瀬 なるんだよ!裕次郎に。

前田 光栄です(笑)。



百瀬 で、あなたも知ってるかもしれないけど、俺は石原裕次郎の用心棒みたいなことをしていたんですよ。だからわかるんだけど、石原裕次郎ってね、あなたみたいに努力して強くなった人でも何でもなくてね、生まれながらのスターなんですよ。当時の彼の周りには大川橋蔵、錦之助、市川雷蔵、勝新太郎、鶴田浩二、三國連太郎、森繁久弥とか、もうピッカピカのいろんな人がいたけどね、彼はね、全然気にしなかったのね、他の人を。



前田 ええ。



百瀬 相手にする必要がないんですよ。スターとしての次元が違うんだから。だからそういう意味でね、あなたも「俺は石原裕次郎なんだ」というつもりで、周りにごまんといるハンチクな敵とかを、相手にして欲しくないんですよ。でさ、あなた朝、鏡を見た?



前田 ……はい。



百瀬 その時、どう思いました?



前田 いや、ごく普通に……何も考えもせずに……。



百瀬 俺ね、こんなこと言うのはヨイショでも何でもないんだけど「世界でいちばん美しいのは誰ですか?」つて白雪姫のお母さんが言うんだよ、鏡に向かって。知ってるよね、この話。



前田……はい。



百瀬 そうするとね「それは白雪姫です」って鏡が答える。明日からはあなたが鏡の前に立つて「世界でいちばん美しい男は誰 ?」って聞いたら「それは前田日明です!」って応えるように鏡の裏にテープレコーダーかなんか仕込んどいてさ。



前田 ぷぷぷぶぷぷっ。



百瀬 いや、ホントだよ!

前田 ハ、ハイ(笑)



百瀬 だからね、あなたはこれから朝起きて何をするかっていったら、もう腕立て伏せとかそういうことは絶対にやらない!ひたすら鏡を見るんだよ。それで「ああ、昨日よりちょっと男っぷりが悪いな」とか「今日はいいな」とか、そういう次元で生きていってもらいたいんですよ。もうね、力とか筋肉っていうのはね、どれくらい悲しいかっていうことは、あなたは誰よりも知ったと思う。とにかく、あなたがこれからやることは、めざめたら鏡を見て、自分は昨日より美しいか美しくないか、そこだけですよ。もう、これからあなたは力じゃなくて美貌で生きていってほしい、と。これはホントの話なんだよ、冗談でも何でもなくて。



前田 ええ、はい。美貌で……。



百瀬 たとえば、もっと英語を身につけて国際的な映画俳優になるとかね、いろんな可能性があるじゃないですか。これね、馬場さんに「世界であなたがいちばん美しい」なんて言ったら、俺は逮捕されちゃうよ詐欺罪で(笑)。だから、そんなこと馬場には言わない。ホント、これからはそういう感じでやってくださいよ。



前田 はい、がんばります(笑)。



百瀬 これからはね、格闘家とかプロレスラーとかとは付き合わないでね、「ボク筋肉たくさんついてる男イヤだ」とか言っちゃってね。昔と違う前田日明っていう感じでいくと「前田さんのためなら家を売って金を作りたい」とか言うバアさんとかさ、新しいタイプの熱狂的ファンがいっぱい出てくるからね。



前田 はあ(笑)。



百瀬 俺なんかあなたに比べれば、たとえばあなたが江戸城の若様、俺がその下の駕籠かきの鼻ったらしの連れ子みたいな役しかできないんだよ、見ての通りのブスだからさ。だけど、俺はいざっていう時には二人でいて「前田、この野郎!」つて生意気なヤツが言ったら、俺は弱くても「なんだこの野郎!」って1秒でやられても先に俺がかかっていきますよ。そのあいだにあなたはパーツと逃げちゃえばいいんだよ。その時に一緒にケンカしちゃダメなの。俺はいざという時の緊張度ってのは凄くありますから。今までそういうことに遭遇してね、一同も失敗したことないんですよ。とにかくいい女の代表は白雪姫!いい男の代表は前田日明!これで明日からやってほしいと思います。



前田 なんてリアクションすればいいんですかね?(笑)。



百瀬 あまり参考にならないかもしれないけど、ホント俺はそう思ってんのよ。カッコつけて守れない約束をするからカッコ悪いのよ。でもね、世の中ってそういう人が多いんですよ。たとえばアントニオ猪木!



前田 はあ(笑)。



百瀬 彼はカッコつけなければ何事も起こらないのに、カッコつけるから事件起きちゃうのよ。差しで会うと面白くて優しい人間なのにさ。プロレスも天才なんだし。

前田 ええ、よくわかります。

百瀬 だから猪木はあなたにも嫌われたりすると思うんだよね。あなたは心のどこかでまた「猪木が好きだ」つていう気持ちはあるの?

前田 はい。……マヌケなところが(笑)。

百瀬 うん。猪木もカッコつけないでさ、あなたが捨てられちゃったみたいな感じで他の団体に行った時(第1次UWF)もね、夜一人で来て正座して「前田クン、ごめんね。俺が金がないばかりにこんなイヤな思いをさせちゃって。たいした金じゃないげどここに9万円あるから、これで明日パンでも買って食べて」つて嘘泣きすれば、「よし、この人のためなら命懸けよう」とかなるじゃない(笑)。人生って演出だから。あなたはメッチャクチャ自分を演出していけば、ますますダンディーになると思うなあ。



前田 はい(笑)

百瀬 これからはね、カッコつけてちゃダメなんですよ。英雄主義は敗北する!だから「俺がリングスの前田日明だ!」つて意気がるんじゃなくて、たとえばあなたのところで教わっている練習生のふりをしてね。生意気な野郎から電話なんかかかってきても「今、ウチの前田は出てますけど、なんなら私が稽古つけましょうか?」みたいな感じで言えると、いいんじゃないかなと思うんですよ。



前田 はい(笑)



百瀬 そういえば、電話で思い出したけど、面白い話があったんですよ。六本木でね、俺がどうしても電話したかったんですよ。そうしたら酔っぱらってるヤツが二人、公衆電話で電話してて、俺が「すいません、電話したいんですけど」つて言ったら、「向こう行けよ!」って言うんですよ。今から11年<らい前かな。それで「イヤだよ、俺はここの電話がいいんだよ」って言ったの。それでそいつが終わって俺が電話しようとしたら、後ろから背広をつかんで「おい!早く終わらしてやったんだから、礼くらい言えよ!」つて言われたの。その時ね、胸ポケットに入れであった万年筆みたいになってる特別製のナイフをいきなりピッと出して、そいつの頬に突きつけてやったんですよ。「おい!お前、なめるんじゃねえぞ、手ぇ出してみろ!」つて言ったら「は、はい」つて手を差し出したの。それで「ポールペン持ってるか?」つて聞いたら「あります」つて。それで俺がそいつの手に電話番号を書いてやったんですよ。「こ、これ何ですか?」つて言うから「これはニューラテンクォーターってとこなんだよ。俺はそこの百瀬っていうんもんだ!」文句あるならいつでも来い。ヤボな野球帽かぶってるけど不良なんだよ。てめえ、カッコつけてるけど、不動産屋だろ!お前、名前はなんていうんだ?」つて怒鳴りつけてやったらさ、その野郎が直立不動で「ハ、ハイ、わたくし、大手町の鈴木と申します!」だって(笑)。もう笑っちゃってさあ。ひっくり返っちゃったよ、俺は。「大手町ってどこの会社だ?」つて聞いたら「それだけは勘弁してください」つて、で、そいつの連れに「お前は?」つて聞いたら「私はこの方とは全然関係ございません」だって(笑)

前田 ガハハハ八!

百瀬 そういうヤツばっかりだから、カッコばっかりでね。とにかく弱そうなヤツだけに気をつけてね。たとえば、あなたが酔ってお婆さんを突き飛ばしたとするでしょ。そのお婆さんが俺んちに来てさ、「前田選手に突き飛ばされた。私は悔しい。どうしてもリベンジしたい。家を1億4000万円で売るから、その金で彼をホームから突き落としてくれ」とかね、頼まれちゃうんだよね。そういうこともあるから、弱いヤツさえ気をつけとけばいいの。

前田 はい(笑)



百瀬 それからもう一つあなたに非常に興味を持ったのは、何かあなたに失礼なことを書いた格闘技雑誌の編集長の人(現在『格闘マガジンK』編集長.・ザンス山田さん)がいたじゃない。



前田 はい。



百瀬 どこかのトイレで何かしたとか(女子便所説教事件)あったじゃない。それをビデオ(『前田日明とは何か?』発売・ポニーキャニオン)で大阪たこ焼き(原タコヤキ君)かなんかと、トイレの中で再現してたでしょ。あれを見た時にね、「なんて前田ってカッコイイやつなんだろうな」と思ってね。あれをできれば、人生でできないものはないですよ,あんな剽軽なことできるんだから、カッコイイ人生を送れますよ。



前田 送れますか(笑)



百瀬 なんかさっきから俺ばっかり話しちゃってるけどさ。そういえばあなたの引退試合(7・20/前田日明リングスラストマッチ)、このあいだテレビで見ましたよ。



前田 ああ、ありがとうございます。



百瀬 でも、本当はああいう試合ってイヤだと思うんだよね。自分が仕込んだ若い衆に掌底かなんかで顔を殴られちゃってさあ。俺なんかね、身内とやる麻雀大嫌いなんですよ。なぜかっていうとね、麻雀は4人でするでしょ。そうすっと鼻ったらしの若い衆の中に入んなきゃなんない。そいつがね、俺が牌を切ると生意気に「通す!」とかなんとか言うんですよ。「何が通すだ!チンピラのくせに、この野郎!」と思ってね。



──いや、それは麻雀だから(笑)·


百瀬 我慢ならないね。そんなチンケな野郎に「通す!」なんて、言われてまで麻雀やりたくねえんだよね。だからね、そんな「通す!」なんて言われる麻雀はずうっと前にヤメた。

前田 いやあ、なんか調子狂っちゃうな(笑)。



──百瀬さんのパワーは前田さんの磁場まで狂わせますか(笑)。



百瀬 俺はね、生まれつき耳がいいんですよ。刑務所で500何人いたんだけど、俺がいちばん耳がいいのね。それで遠くにいる炊事夫の声が聞こえるんですよ。だから献立がわかるの。それで周りのヤツから「百瀬さん、今日は何ですか?」って聞かれて「おう、今日はカレーだよ」とかね(笑)。その耳がいいということで、俺はバブル時代に一時だけ大金を手にしたんですよ。



前田 耳が良くて大金を…?



百瀬 古本屋に行ったらね、そこの店長のオヤジが何かプツブツ小声で話をするんですよ。誰もそいつの話を聞いてくれない。声が小さくて聞き取れないから。でも俺には聞こえるんですよ。で、一生懸命そいつの話を聞いてやって仲良くなった。そうしだらそいつが株の天才だったんですよ。俺はそいつを信用して、必死になってかき集めた2億円をポンと貸してやったんですよ。それがバブルがはじける寸前には960億円の資産になったの。



前田 えっ? 960億!



百瀬 そう!それで俺は一気にマハラジャ気分になっちゃって、もう金のないャツとは口利きたくない、みたいな感じになっちゃって(笑)。



前田 それ、いつ頃ですか?



百瀬 昭和62年から平成2年くらいまでのことですよ。
「『週刊文春』に『不良ノート』を連載している百瀬博教がある家に行って金庫からいきなり10億円持っていった」とかヨタ記事まで書かれちゃってさ。ホン卜は4億円集金に行ってもらえなかったってのに(笑)。
そういうヤキモチ焼かれるほど金を儲けたんですよ。たまたま耳がよかっただけでね。



前田 はあ~、凄い話ですねえ。



百瀬 それで不動産や株の資産が100億になった時にね、その株の天才が俺んちに来たんですよ。昭和62年だったかな「百瀬さん、100億の資産になりました」って。そいつがね「将来、50億ずつ分けましょう」つて言うんですよ。「そうじゃないよ、俺はお金を出したかもしれないけど、君の方が頭よくて本当だったら俺は一銭も儲けられないのに君が一生懸命やってくれたんだから、君が60億、俺が40億でいいよ」つて。その時に天才が金をどうやって分配するかっていう覚え書きを書いたのよ。そんな念書持ってたって今は天才が倒産しちゃったから何の役にも立たないんだけど、それを書く時に「キミにはお父さんもお母さんも嫁さんもいろんな人がいるけど、そういう人にはこの件に関して絶対に容喙させないでほしい」つて言ったんですよ。そうしたら彼は「容喙(ようかい)」っていう、言葉がわかんなかったの。あなた「容喙」つてわかりますか?



前田 いや、わからないです。



百瀬 「口出し」つて意味なんですよ。それで「何で不良が『容喙』なんて言葉知ってんだろう?」つて中央法科中退の株の天才が不思議がっててね。俺は刑務所の独房で6年間勉強してたから、いろんな言葉を知ってるんですよ、難しい言葉をね。「一家脊属」とか「容峰」とか、たとえば「満天皇」と書いて「どうだん」とかね。そういうのを読めるのね、俺は。それでいつかそのお金を分けようって話になってたんだけど、天才が「百瀬さん、相談があるんですけど。このまま5年くらい株やってれば500億は行くと思いますけど、どうでしょうか?」つて。俺も凄い爪を伸ばす男だから「やろう!」つて言ったんだよね(笑)。そうしたら500億突破しちゃった。



前田 500億……。

百瀬 うん。それである時に、F-1のレイトンハウスってチーム覚えてる?



前田 ええ、はい。

百瀬 あれのオーナーの赤城明が俺のことをニューヨークやプダペストやミラノやパリ旅行をさせてくれたり、宮士銀行の中村課長っていう人にも会わしてくれたんですよ。そうしたら「お金を貸してあげるからもっと増やそう」みたいなことで、その中村課長と株の天才が組んで、とうとう960億にしたの。でもその後、中村も株の天オも、富士銀行の不正融資事件で捕まっちゃったんですよ。だけど俺は捕まんなかった。それはね、その中村課長っていうのは俺より12歳年下の人なんだけど、俺んちに来てね「先生よぉ、お金いらねえのかよぉ」つて言うんですよ。いつくら金がほしくてもね、12歳年下の銀行員の兄公にこんな安い口利かれてね「俺はイヤだな、こいつと付き合ってもしょうがねえな」と、お金はほしかったけど付き合わなかったんですよ。だから首葉を大切にしたおかげで事件に巻き込まれなかったんですよ。いつでもね、言葉遣いとか礼義とかが身を助けてくれる。「どうもすいませんでした」つて頭を下げれば済むことが「おう、いつでもやってやるぜ!」みたいになっちゃったらさ、殺られちゃいますよね。相手の言葉にカッときて、殺りたくもないのに殺っちゃったっていうヤツには、刑務所でいっぱい会ってるわけですよ。そういう人たちに暴力をふるわせない言葉。それはやっぱり挨拶がいちばん大切なんですよ。挨拶って身を守る鎧だからね。これからはあなたも『キャンティ』で俺に見せてくれた挨拶の上手さをもっと磨いて、挨拶の天才として生きていりと将来凄いことになるね。

前田 はい。

百瀬 そうすれば金だってついてきますよ。あなたが60歳になった時に「ああ、金はもういらない。金は空しい」とかなんとか言っちゃってね(笑)。「おい、そこの金庫開けて10億持っていけ」みたいな爺さんになれるんじゃないかな。とにかく「前田日明挨拶道場」みたいなのを作っちゃってさ、挨拶の有段者をたくさん生み出してほしいね。そんな感じでこれからは生きていってほしいなあ。

──なんか宗教みたいですね(笑)。

百瀬 うん、前田教っていうことでね、今までは力でひれ伏させてきたけどさ、そんなことじゃなくて、南アフリカのマンデラ大統領と世界に通用する挨拶の研究をするとかやってほしいんですよ。



前田 マンデラ大統領と(笑)

──百瀬さんは子どもの頃から「おぼっちゃま」だったんですよね。



百瀬 それほどじゃないけど、とにかく運のいい子どもだったんですよ。勉強なんか嫌いだったけど、金くれるオヤジを見つける天才だったのよ。

──コギャルみたいですね(笑)。



百瀬 俺んちは人様から金をもらっちゃいけないとか、そういう教育委員会みたいなこと絶対言わない家だから「はしっこい」っていうことがウチでは美徳だったんですね。場面を見られる、空気が見られる、そこんとこをずっと俺は習ったんですよ。たとえば前田さんがこれから口説こうっていう女と飲みに来てるのにさ「前田さん、このあいだの女の人キレイでしたね」とか言う嫌味な男がいるじゃない、よく。



前田 いますいます(笑)



百瀬 そういうことを俺は子どもの時から絶対に言わなかった。だから、警察に捕まった時に、俺はピストルを200丁持ってたんですよ。でも言わなかったんですよ。「言えば罪は軽くなる」とか何とか言われても、俺んちは曾祖父さんの時代から、頑張れば頑張るほど賞金が出るような家だったから頑張れたんだよね。差し入れにお袋が来てさ「弁護士さんが感心してた」とか「ワタナベ警部が感心してた」とか言葉の勲章をバンバン投げつけるわけだよ、金網の外から。そうなったらもう、嬉しくて嬉しくて「言うもんか!」つて頑張っちやったもんね(笑)。だから、俺が勉強嫌いだったのは、すぐに褒美をくれなかったからだね。たとえば学校の先生がさ、俺が分数できるたんびに1000円ずつくれてればね、俺は算数の勉強したんですよ(笑)。だけど、学校の先生ってのは銭もくんねえじゃない。能書きばっかり言うだけでさ。

──さすが独特の教育世観ですね(笑)。



百瀬 いや、だからウチに出入りしてたフーテンひろしなんていう人が来て「酒買ってきて」って言われると、俺は女中を使いにやらず自分で特級酒買いに行くんですよ。それで「おにいちゃん、剣菱なんて気が利いてるねえ、お釣りはとっときな」「はい」なんてね。「猫の貯金箱に入れておきます」とか言っちゃって、ホントは入れないんだけど(笑)。入れるフリをしてると「坊やはエライ、貯金はいいぞ。じやあもっとあげようね」とかね。で、しみったれた小父さんが来た時はどっか遊びに行っちゃってさ(笑)。箱崎の倉吉つていうウチの親父の子分が凄い金儲けが巧くて「アンちゃんはきっと出世する」なんて言って必ず小遣いをくれるんですよ。それから新田新作っていう新田建設や明治座の社長で力道山のスポンサー、知ってるでしょ?

前田 はい、知ってます。



百瀬 ウチの親父が新田新作の親分の鈴木榮太郎と兄弟分だったんですよ。ウチの親父は先が見えたから、若い頃の新田新作に博打の金とかを貸してた。だから、自分の親分以上に親父と仲良かったんですよ。で、新田新作っていう人は戦争中に川崎の基地で外人の捕虜に、行田の方から持ってきたキャベツを食べさせたり、憲兵に隠れて酒を飲ましたりしてね。それで戦争が終わった時に「新田新作出てこい」ってGHQから呼び出された。これはギロチンじゃないかと思って逃げる算段してたんだよ。ウチの親父なんかは「新作、もしギロチンだったら、俺たちも死ぬから」つて一緒について行った。そうしたら逆に、今でいえば600億円の東京復興の士建仕事をくれたんですよ、それで一挙に金持ちになった。昭和25年に自費の3000万で建てた国技館をポンと相撲協会にくれてやったくらいの人だからね。そんな関係で俺は中学3年生の時に新田新作の養子になるところだったんですよ。



前田 凄い縁ですねえ。



百瀬 その頃、俺はあなたみたいに強くないんだけど、ポチャポチャ太ってたから相撲取りになろうかなと思ったら、力道山に「相撲取りになんかなっちゃダメだよ」つて言われて、ならなかったんですよ。だから力道山もけっこう知ってたんですよ。で、新田新作はその当時リンゴが、一個10円の時にね、中山競馬場で会うと5000円くれるんですよ。その金を貯めちゃってね、それで中学3年からずっと金貸しをやってたんですよ。近所の大学生に貸したりしてね。

──筋金入りですね、それは(笑)。

百瀬 金を貸す時の気持ち良さったらないんだよね、一昨日までえばってた大学生も、金借りるときには人格が変わっちゃってさ。中学生の俺に「ひろちゃん、ありがとうございます!」なんてね。その言葉に酔っちゃってさ、バブル時代にいい気になって貸しすぎちゃって今は百無しになっちゃった(笑)。ただ、そういうことをやってきたから、俺はお金を生み出す人とかを見る目ってあると思うんですよ、今は不景気だけど、自分自身が金だと思ってるから、やっぱりこれからもきっと金は集まるなあって安心してるんだよね。



前田 百瀬さん、お父さんの組は継がれたんですか。

百瀬 ええ。でもね、親分になるっていうのは、地球七周り半くらい苦労するとこだからね。これは昔お世話になった森田政治親分の姐さんの言葉ですけど「ヤクザで苦労するくらいだったら違うことで苦労したほうがいい」


前田 それほど厳しい世界なんですね。



百瀬 そう。あなたはヤクザ稼業に向いている性格なんだだよ。でも、あなたがヤクザだったら、いちばん最初に殺される!腕に自信のあるのは殺されるんだよ。なぜかっていうと俺がケンカするじゃない、前田組と。そうしたら前田組長がいちばん強いわけだから、どんな手段を使ってでもやっつける。組長がいなければいいんだもん。あとはへナチョコ野郎ばっかりなんだから。そうすると、昼飯のかやくうどんに毒を入れられたりさ(笑)いつでも危険にさらされているわけよ、親分は。だから危ないんだよ。あなたがどこかの親分になってれば、あなたを倒さなければ自分の立つ瀬がないってことになるから、変なチンヒ°ラをそそのかしてハジキで撃つとか、そういうことわかるよね。



前田 はい。



百瀬 あなたの幸せっていうのは格闘家になったっていうことですよ。だから命長らえたのよ。あなたがストリート・ファイターから格闘家になったから、こうやって出世もしたし、名前も知れたし、今、中華料理を食べてられるんですよ。そうでしょ?



前田 はい。



百瀬 だから俺もある時にヤクザって辛すぎる稼業だなと思って。もちろん度胸もないし、俺は親分になって日本を制覇するっていうオ覚もなかったし、俺の視線っていうのも違ってたから。今は百瀬組はやってないけど、母の大好きだったお祭りだけは毎年6月にやってるんですよ、浅草の鳥越神社で。今度見に来てもらえばわかるけど、もう東映映画より格好いい。毎年お客さんが300人以上来るんだけどね。中村雀左衛門っていう歌舞伎の女形が舞台衣装みたいな着物を俺にくれるんですよ。それに着替えるためにみんなの前で俺が浴衣をパッと脱ぐと、上着のダボの胸のところにお袋の名前なんだけど「菊江」つて書いてある。「俺は今、お母さんを思い出してるよ」って。これがいい場面なんですよ。でもね、K-1の石井館長が祭の祝儀に一億円くれたら来年から「菊江」はやめますよ。「和義」つて入れますよ(笑)。

前田 ガハハハ。

百瀬 でもホントに人生は演出だよ、刑務所に行く前に俺は凄い勉強をさせてもらったんですよ、父と仲の良かった銀座の森田政治っていう国粋会の会長が、当時山口組のナンバー2だった地道行雄と兄弟分の盃を交わすことになった。それで森田会長と一緒に俺も神戸に行ったんですよ。その時に地道行雄が森田政治に向かって「兄弟、本当だったらウチの親父(田岡一雄組長)と兄弟分になれる人間なのに、俺みたいなヤツと兄弟分になってくれて、すまねえな」つて言ったんですよ。その言葉が終わらない内に、森田政治は地道行雄の襟をグッと持ったんだよね「おい地道、何言ってんだ!俺はお前が好きなんだよ。お前に惚れてんだ!だからお前と兄弟分になったんだよ。それがイヤならここで別れよう!」って。そうしたら地道行雄がやられながら「嬉しいなあ」って。俺はそれを見ててね「ああ、こういうふうにやるんだなあ」つて。

前田 まるで魔法のかけ合い合戦の現場に立ち会ったようないい場面ですね。

百瀬 見事な演出だったね。アントニオ猪木が議員時代にキューバのカストロと話なんかしたりしてたけど、たとえばあなたがカストロと会ったらいきなリ首を絞めちゃうとかね(笑)。「いつまでも突っ張ってないで米国と手を組め!」なんて言って。相手に「そうだよな」つて思わせる、何だかわけがわからないけど実を結ぶやり方っていうのを俺はそこで覚えたな。それで地道さんがね「百瀬、これから懲役行くんだなぁ。何年だ?」「6年行くんです」「ふーん、短いな。帰ってきたら何するんだ?森田の身内になるのか?」「いや、私はアラビアのクウェートに行って石油か何かで金を儲けたい」「そんな夢みたいなこと言うな。俺のところに来い」つて。「いや、私は誰の子分もイヤなんです。親分ならなってもいいけど」つて。そうしたら「面白いな、お前は。よし! 食べるのはお前、金を払うのは俺」つて言ってふぐを食いに連れていってくれた。



前田 いい話ですね....

。

百瀬 何でも演出なんだよ。あなたが、たとえば皇太子殿下の大親友になればさ、皇太子殿下と兄弟分の前田さんと俺とはこんなに仲がいいんだって感じでさ、俺もみんなに言いふらすでしょ。誰かが「雅子さまの具合はいかがですか?」つて聞くと「まだ御懐妊なされていないそうですよ」とかね(笑)。そういう感じで行こうよ。



──凄い感じですね(笑)



百瀬 いや、そのくらい次元を高くやっていってほしいんだよ。これからの前田さんは詩人になって「今日、朝起きてカエルを6匹探しました。7匹目のカエルを踏んでしまったったのです」とかさ。「カエルさんごめんねごめんね」とかさ。それを英語に訳して講談社のインターナショナルを通じてアメリカで出版して「ミスター・マエダは詩人だ」って感じで俺と組んで向こうに行ってさ。そうすると向こうの大金持ちのユダヤ人のオバさんか何かがさ、金持ちにはカエル好きがいっぱいいるからね。

──いるんですか!(笑)。



百瀬 いるよ!そういうオバさんが「ミスター・マエダの詩は可愛い。全米カエル協会の理事にしよう」とかってさ。それで年間2000方円くれるとかね。するとマネジャーの俺が「ダメだ、彼は2000方なんかで暮らせる人じゃない。20億くれ」とかさ(笑)。そういうノリでやっていこうよ。

前田 すいません、あんまり面白すぎて聞き惚れちゃいますよ(笑)。対談になってませんね。でも、うちの親父が百瀬さんのような「男気」の世界が大好きなんですよ。で、凄い揉め事があって、誰がどういう場面でどういうことを言ったら治まった、あれはカッコイイとか凄いとかいう話をどこからか聞きかじってきては~ちっちゃい時から親父に聞かされて育ったんですよ。だから、百瀬さんのお話を聞いていると凄く懐かしくて。

──懐かしい(笑)。



前田 中途半端なことをするのを「ひやかす」とか言うじゃないですか。



百瀬 うん「ひやかしはダメだ」とかね。



前田 そういうセリフは30年ぶりに聞きましたよ。百瀬さんの本の中で(笑)。



百瀬 最後に勝利する人って、やっぱり「ひやかし」じゃないよね。だからあなたはこれからも、ひやかし野郎を蹴り続けて、もっともっといいポジションを目指してピッカピカの人になってほしい。これは前田日明ファンの俺の切なる願いです。



前田 ありがとうございます。



百瀬 だから、これから3年か4年はさ「あっ、僕はそば屋の出前持ちからやります」みたいなこと言ってさ、あなたがこれまでの栄光を捨てれば捨てるほど、人って見てくれるし、協力者もどっさりできるし、ファンもできるからね。もう明日からね、町内の縁の下で死んだ犬を探したりしてね(笑)。あなたは体が大きいからさ、ちっちゃい人間を連れていって「いなくなった犬はいませんか?」って近所を回るのよ。そうすると町内から今度は市になって国になって世界になってっていう感じでさ、そうやってフィールドを広げていきましょうよ。! 



前田 はい(笑)

百瀬 俺はホントにね、そういうふうに思ってるんだ。この10月から秋元康さんが俺のプロデューサーになってくれて「お話会」とかをやるんですよ。その「お話会」のいちばん最初のお話を聞いてくれる人があなただから、今日面白い話をここでしたんだけど、これは全部本当の話ですから。こんなバカみたいなくだらないことを言ってるヤツでも長いこと不良の世界で生きていたんだなあということを見てね、いわんや自分は国定忠治よりカッコイイわけだからさ。



前田 今日は一生分カッコイイって言われた気がしますよ(笑)。



百瀬 いやいや、あなたにはこれからもっともっとカッコイイ男になってもらうよ。これからは強いだとか何だとかってそういうのは相手にしないでね、「おい、お前たち、まだ格闘やってるのか……俺は今日ちょっと草むしりしなくちゃいけないんだ。ロンドンのお城の」とかさ。そういう人になってほしいな(笑)。

前田 わかりました!(笑)。

百瀬 これからも一年に3回くらいは会おうよ!



前田 はい(笑)

--------------------------------------

 どうだろうか。格闘界一の知性と読書量で対談の名手だった、前田日明がこれほどまでに掌で転がされているところを見たことがなかった。
 そしてふたり共にチャーミングなこと。
 後にPRIDEとRINGSの興行を巡って対立軸に陥るふたりだが、最初の出会いはこれほどまでに友好的であったのだ。

 さて私自身が本人取材を正式に始めるのは、2002年1月17日のことだ。
 この日、スコラ誌での対談を終えると青山の自宅に招かれた。
 何部屋にも分散され保管されている、山積みとなった本や本人曰くの「想い出グッズ」の分量に圧倒された。
 そして私が最も魅了されたのは、6年に及ぶ獄中の勉強ノートだった。
 一糸乱れぬ、その筆致と文字量。
 人生の暗闇のなかで、この集中力と向上心を保ち続ける心意気。
 今、無邪気に大声で笑い話をする人と、文の中にある人が同じ人格とは思えなかった。
 それ以来、百瀬邸を訪ねて話を聴くようになり、正式にテープを回す許可も頂いた。
 やがて毎週のように会うようになり、夜な夜なボクが運転する車で百瀬博教の想い出の地を巡り、古本屋観光を繰り返した。
 アルコールを一滴も飲まない氏との交流は酒も女も一切なかった。
 ただただ想い出に節度がない人物の過去を遡るだけの時間だった。

  それは10年に及んだ。


サポートありがとうございます。 執筆活動の糧にして頑張ります!