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百瀬博教年表

生前は「PRIDEの怪人」として知られていた百瀬博教さんですが、没後12年が経ち、若い読者には百瀬博教さんの存在も経歴について何も知らないはず。そこで『命懸けの虚構』を読んでもらうためにはサブテキストが必要だと思ってこちらを用意しました。もっと詳細なものもありますが、とりあえず俯瞰的に抑えて欲しい簡略版です。

1940(昭和15年)
2月20日東京柳橋の侠客、百瀬梅太郎(53歳)母菊江(31歳)の次男として、柳橋代地河岸にて誕生。

1946(昭和21年)6歳
千葉県市川へ移り住み、市川小学校入学。

1950(昭和25年)10歳
父が清水の賭場で喧嘩に巻き込まれ、父を助けようと父から貰い受けた「僕の刀」を持って家を飛び出す。

1953(昭和28年)13歳
市川学園中学入学。力道山の大スポンサー、明治座社長の新田新作に養子縁組を望まれるほど可愛がられた。新田新作の関係より、力道山の道場にも顔パスになり、外人スターであるシャープ兄弟とも、写真を一緒に撮ってもらった。

1956(昭和31年)16歳
市川学園高校入学、ちなみに高校の一年後輩にはバーニングプロの周防都雄社長、また中学、高校を通じて一年後輩にケーダッシュの川村龍夫社長がいる。高校入学と同時に蔵前国技館『相撲練成道場』入門。

1958(昭和33年)18歳
市川学園高校3年、公衆道徳委員長に就任。子供の頃から不正、不良な行為にだった。自力で土俵を作り相撲部開設。9月千葉県相撲大会決勝戦進出、10月静岡国体出場。身長181センチ、体重115キロの巨体を静岡国体で見込まれ、立教大学相撲部推薦第2位になり、立教大学文学部史学科入学、同時に相撲部に入部。
この年、初めて年上の女子大生と交際。童貞喪失を果たしたが、わずか8カ月でふられる。この経験から学び、その後、女性にふられることはなくなる。

1959(昭和34年)19歳 
赤坂のナイトクラブ・「ニュー・ラテン・クオーター」で用心棒として修行することになり、相撲部も2年で退部する。当時、トリオ・ロス・パンチョス、ナット・キング・コール、サミー・デイビス・ジュニアなど世界中のエンタテイナーが集い、有名人、金持ちが集う、このナイトクラブを命懸けで守ることになる。
給料2万円、クラブの隣にあるホテルニュージャパン678号室を棲み家とする。

1960(昭和35年)20歳
ニュー・ラテン・クオーターで、「生涯のあにき」と慕う石原裕次郎と邂逅。「僕は貴方みたいな人が好きなんです。熱血漢っていいな。一度僕の家に遊びにいらっしゃい」との言葉にぶっ飛び、私設ボディーガードとなる。

1961(昭和36年)21歳
1月19日、成城にある裕次郎邸に招かれる。
その8日後、石原裕次郎(26歳)がスキーで骨折のため入院。見舞いに訪れた「月刊平凡」の編集者、木滑良久(30歳)を紹介される。

1962(昭和37年)22歳
俳優として日活映画「雲に向かって起つ」(石原慎太郎原作)、「花と竜」(舛田利雄監督)に出演。初の海外渡航に台湾へ。

1963(昭和38年)23歳
ニュー・ラテン・クオーターでクエートの石油商、アルマズーク氏と懇意になる。「52連発の軽機関銃を撃たせてくれる」との話にクエート行きを夢見る。アルマズーク氏を頼って3月、日本を出発。パリ、ロンドン、スペイン、ストックホルム、コペンハーゲン経由でクエートへ渡航。軽機関銃トミー銃を本気で持ち帰ろうとしたが叶わず、アルマズーク氏からプレゼントされた2丁の拳銃を日本へ持ち帰る。
12月15日。力道山、ニュー・ラテン・クウォーターで大日本興行の村田勝志に刺される。ちょうどその夜は、日曜日で休みをもらい、湯河原へ旅行中だった。

1964(昭和39年)24歳
兄弟分の後藤よりサイレンサー拳銃を預かる。その2カ月後、拳銃不法所持で後藤が逮捕される。
12月25日、後藤が口を割ったため自宅に捜査員が来る。自動拳銃ブローニング22口径を2丁持って、出頭。麹町警察に移される際、初めて手錠をかけられる。この日より翌年7月中旬まで、麹町警察署の留置場で調べられる。その後、西巣鴨の東京拘置所に移監され、10カ月の取調べのあと、保釈金500万円で釈放、裁判を待つ身となる。

1965(昭和40年)25歳
7月、父・梅太郎(82歳)死去。
収監状を持ちながらも、癌を患った母親の今際(いまわ)に立ち会えまいと、収監状を破って保釈逃亡。法務局から何度も「下獄せよ」と通達があったが無視。後3年、本格的に逃亡者として日本を転々。

1967(昭和42年)27歳
夏、秋田へ。逃亡中にも関わらず、風俗店を経営。
10月、逃走中に自由が丘のピアニストの恋人の家で週刊誌を読んでいると、恋人の母親が「大変、大変、百瀬さんの写真が出ている」と知らせてくれる。「小川宏ショー」に、自分が連続射殺事件犯、永山則夫に小型ピストルを渡した108号事件の容疑の重要参考人として全国指名手配される事実を知る。これがテレビ初出演となる。この事件には冤罪ではあったが、その後、逮捕された永山則夫とは刑務所の留置場ですれ違う。

1968(昭和43年)28歳
逃亡中の身でありながら「石原慎太郎の会」の幹事として、参議院選挙に初出馬した石原慎太郎を応援。
11月、秋田に潜伏中、選挙の遊説に秋田に来た石原慎太郎を、藤田嗣治の画「秋田の行事」を見せるため平野政吉美術館へ招待。
12月、木滑良久氏のはからいで羽田空港の地下で石原裕次郎と再会。しかし、それが、「あにき」と、生前、口を聞いた最後となる。
12月31日、母・菊江(56歳)死去。
しかし、今際のきわに立ち会うことができなかった。 母の死は「日本一のマザコン」の性格を決定づける。


1969(昭和44年)29歳
3月、逃亡先の中野ブロードウエイで、多数の警官、刑事に囲まれる大捕物の末、2つの手錠を後ろ手に掛けられる。この護送の車中、その手錠を破り逃亡を試みるが、そのまま赤坂署に車は飛び込み手錠4つ嵌められてようやく逮捕される。そして拳銃不法所持の罪状(書類上は250丁!実際には5百丁!)で、6年半の獄中生活を送ることとなる。
 4月、秋田川尻の刑務所へ下獄、「生来の乾分を作り易い体質」が警戒されて、4年8ヵ月の独房暮しとなる。毎日、最低7時間の読書。大学ノートに文字を刻み、その数は41冊に。獄中で博覧強記の人となる。

1973(昭和48年)33歳
山形の獄に移監。独居房から雑居房へ移され第一工場で写植係として働く。

1974(昭和49年)34歳
8月、出獄。

1975(昭和50年)35歳
麹町警察署の留置所で邂逅した一力会会長、鍋島力哉が台湾でプロレス興業を打つために南青山の新日本プロレスの事務所に訪れるのに同行。ここで初めてアントニオ猪木と出会う。

1976(昭和51年)36歳
6月。毎年6月7日に近い日曜日に開催される鳥越祭りに際して、浅草鳥越神社の氏子として、母、菊江を追悼するために、『鳥越祭りを愉しむ会』を初めて主催。この祭りのために百瀬と染め抜いた半纏を30枚あつらえる。(今でも、この会を主催しており百瀬人脈が勢揃いする)
 自伝的エッセー、私家版『僕の刀』上梓。

1984(昭和59年)44歳
株の天才である市川の古本屋の主人に300万円の資金を預けると、大儲けし、さらに、知人14人から集めた5千万円を運用し、バブル崩壊まで、彼の儲けた資産は総額960億円まで膨れ上がる。

1986(61年)46歳
私家版詩集『絹半纏』上梓。
映画「パリ、テキサス」の主人公の貧乏たらしい野球帽姿に心を打たれて、(FOREVER YOUNG AT HEART)のロゴの入ったアドミニラル・キャップをかぶり始める。

1987(昭和62年)47歳
7月17日、「惚れて惚れて惚れぬいた」石原裕次郎死去。
俳句研究『にんげん歳時記』に連載。

1988(昭和63年)48歳
川端康成のノーベル賞受賞に深く関わったエドワード・G・サイデンステッカー氏と邂逅。対談集を出すことに。東京の各所、柳橋、浅草、上野、新宿、麻布を対談しながら見て回る。
青山の表参道近くのマンションに仕事場を持つ。

1989(平成元年)49歳
新潮45『不良日記』連載(平成元年1月~平成2年12月)。
サイデンステッカー氏との対談共著『私の東京』(富士見書房社刊)出版。
赤坂のゴーゴークラブ「夢幻」の売却を巡り邂逅した「レイトンハウス」の社長、赤木明と懇意になる。F1に参戦した赤木社長とF1観戦のため、イタリア旅行へ。

1990(平成2年)50歳
赤木明にF1ハンガリーグランプリに招待される。

1991(平成3年)51歳
「ガリバー」(マガジンハウス)に『空翔ぶ不良』連載(平成3年4月~平成4年)。世界を旅行して周ることに。NY、パリ、ロンドン、ブタペスト、北京、サンクト・ペテルブル、モスクワ等、を大尽取材旅行。
イラストレーター安西水丸氏との二人旅に。NYではじめて見たスノードームの収集を始め、スノードーム協会事務局長に就任。
赤木氏ほか7人に現金27億円を貸し付ける。
10月、バブル崩壊の余波を受け、「金運大明神」と言われた黄金時代の終焉。一文無しとなる。株の天才である市川の古本屋の主人、レイトンハウス社長・赤木明、富士銀行乃木坂支店長が、延べ4000億円の不正融資を行っていた疑いで、富士銀行不正融資事件に関わり逮捕される。

1992(平成4年)52歳
 花田紀凱編集長時代の「週刊文春」に『不良ノート』連載始まる。
『不良少年入門』(カッパサイエンス)出版
アントニオ猪木と獄中生活18年の右翼運動家・野村秋介の諍いを仲裁。

1993(平成5年)53歳
6月13日、丸の内ピカデリーで、北野武監督作品「ソナチネ」を鑑賞。週刊文春連載の「不良ノート」に「ソナチネを観た日」と題して書き綴る。
この文章に博士が魅入られる。

1996(平成8年)56歳

裕次郎追悼本、『俺の裕次郎』(クレスト社)出版
『スノードーム』(キネマ旬報)出版
Bart誌『東京不良グラフィティ』連載(平成8年10月~翌年10月)

1998(平成10年)58歳
 花田紀凱氏との共著『総会屋から見た日本企業』出版。
 週刊宝石『百瀬博教交遊録』連載(平成10年10月~平成12年8月)
 K―1ラスベガス大会に観戦旅行に出掛けた際、現K―1社長谷川貞治と交流を深める。PRIDEを主催したKRSが経営危機で行き詰っており、谷川、柳沢に世話人就任を依頼される。

1999(平成11年)59歳
 4月29日。名古屋レインボーホールにてPRIDE5を周防正行監督と一緒に初めて観戦。その後PRIDEの世話係、プロデューサーに就任。同時に「格闘技興行についていろいろ教えてください」と教えを乞い、アントニオ猪木にPRIDEエグゼクティブプロデューサー就任を要請。

 7月4日。PRIDE6(横浜アリーナ)観戦。市川高校の後輩、川村龍夫(ケイダッシュ社長)経由で小川直也をブッキング。小川劇勝の後、祝福のためリングに上がる。

『Free & Easy』(イーストプレス)「百瀬博教のミッドナイトシュークリーム」を連載(11年8月~現在も続く)
メンズウオーカー(角川書店)に「裕次郎時代」(5月~翌4月)を連載。


2000(平成12年)60歳
1月30日、「PRIDEグランプリ」(東京ドーム)に藤田和之を
ブッキング。正月にアントニオ猪木を新年の挨拶に訪れた時に
見かけた藤田をスカウトした。
PRIDE順調に拡大。マッチメーカーとして、
次々と直談判で選手を投入(小川直也、藤田和之、ケンドーカシンなど)。
世間ではプライドの会場で猪木の隣に座る正体不明の怪人として
話題になる。
猪木詩集『馬鹿になれ』(角川書店)をプロデュース。

5月、東京ドームでPRIDEグランプリ開催。
リングサイドにエリック・クラプトンが自費で来場。
挨拶して特性ジャンバーをプレゼントする。
その隣のマネージャーだと思っていたのが、藤原ヒロシであった。
後に藤原を通じてPRIDEの曲を藤原と共に作ってもらうことになる。

8月「PRIDE10」(西武ドーム)。
この日、百瀬博教のプロデュースでアントニオ猪木が
「イノキボンバイエ」のテーマで初めてPRIDEのリングに上がり
「123ダー!」をし、最高の盛り上がりを見せる。
この後PRIDEはますますメジャー化していく。

12月3日、 雑誌「映画館へ!」で北野武と対談。
生まれてはじめてタバコに火をつける。
「石原裕次郎のたばこの火だってつけたことないんだけど、
 めちゃめちゃ好きな北野武監督のタバコの火は、
 こらからもつけさせてもらいます」と。

12月31日 INOKI BOM-BA-YE in大阪ドーム開催
DVDの副音声にて猪木・百瀬・浅草キッドの解説を収録


2001(平成13年)61歳
CS朝日ニュースターの対談番組「百瀬博教 時間旅行」
テレビレギュラー、スタート。
見城徹社長の要請を受けて『プライドの怪人』(幻冬舎)出版。

8月19日、「K―1アンディーメモリアル2001」にて、
「K-1VS猪木軍」、藤田 vs ミルコ等のカードで開戦。
その背後で、猪木と石井館長の間を取り持ち、黒幕ぶりを発揮。

12月31日、大晦日イベント『INOKI BOM-BA-YE』では、
紅白歌合戦にTBSの裏番組で勝負し民放最高の14・9%を記録する。


2002(平成14年)62歳
8月28日、国立競技場で9万人を動員する記録破りの格闘技イベント
『Dynamite!』開催。アントニオ猪木の地上3千メートルの「闘魂ダイブ」をプロデュース。
豪華写真集『INOKI ROCK』をプロデュース。

12月31日、大晦日イベント『INOKI BOM-BA-YE』プロデュース。さらに前年の視聴率を上回る16%を記録する。


2003(平成15年)63歳
テレビ東京「プラチナチケット」レギュラー出演。
文化放送「百瀬博通の柳橋キッド」スタート。
8月、「PRIDEミドル級グランプリ」
リング上で初めて、興行主、勧進元として挨拶する。
8月22日、浅草キッドと「男の星座祭り」を開催。
10月よりテレビ東京「てっぺん魂」にレギュラー出演。藤原ヒロシ

12月、アントニオ猪木、百瀬との覚書を破って、
日本テレビで『INOKI BOM-BA-YE』を放映するも低視聴率で終わる。

2003年年末、それまで協力関係にあったPRIDE、K-1が分裂し、
アントニオ猪木がPRIDEを離れた後は百瀬もPRIDEから姿を消した。

※その後は、K-1がPRIDEに対抗する形で立ち上げた
総合格闘技イベントHERO'S(2005年頃)で格闘家・高谷裕之を応援する姿が見られた
 

2004(平成16年)64歳
3月6日、南青山スパイラルホールにて誕生パーティを兼ねたトークライブを開催。芸能プロダクション設立と会長に就任を発表。

2006年(平成18年)65歳
6月5日、フジテレビがPRIDE(DSE)との契約を全面解除

2008年(平成20年)67歳
1月27日、死去。
自宅を訪れた知人が風呂場の湯船の中で意識を失っている百瀬を発見。救急搬送されたが、同日午後3時半ごろ、死亡が確認された。
死の3年ほど前から体調を悪化させていた。
映画『タバコ・ロード』について書いた文章が絶筆となった。

2月20日、青山葬儀所でしのぶ会「不良ノート」が開かれ、
アントニオ猪木、ビートたけし、周防正行、EXILEのHIROら
約700人が参列。

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