大阪大学基礎工学研究科を退職しました

表題の通り、大阪大学基礎工学研究科を退職しました。
3月29日が最終出勤日でした。

といっても、既に2月23日から有給消化に入って、3月中はアンドロイド・オペラのデュッセルドルフ公演に参加していたので、
このエントリを書いてる時点で本格的な業務から既に一ヶ月半くらいが経過しており、自分の中で(仕事そのものが)過去の話に属しつつあります。

あと、本当はこういうエントリってはてなで書くのがいちばん王道なんだろうなー、とか思うのですが、
なんか個人的にnoteはじめてみようかなという気になったのでこっちで。

TL;DR

・阪大のアンドロイドとかやってる有名な黒い人の研究室を退職したよ
・もともと演劇人で音響さんとかやってたり
 サブカル雑誌で書くライターやったり幅広く仕事してたよ
・在職中はアンドロイドやコミュニケーションロボットのミドルウェアを
 中心にフロントエンドからハードの直前までわりとフルスタックに
 開発してたよ
・職場以外ではIoTとかVTuberとかの関連技術の記事を書いたり
 ロボットで芝居オペラをやるエンジニアをやっていたよ
・雑誌とかアニメのお仕事で技術解説や設定考証のお手伝いしたり
 小説書いたりアニメ映画用のAIプログラム書いたりもしてたよ
ニートに戻ってしまったのでお仕事をください(切実)

はじめに(小説調で)

(長いので、普通の退職エントリを読みたい方は次項へどうぞ)

旅行は苦手だと思っていたのです。
それが、こんなに長い旅になるだなんて。

2015年6月10日。その日の中野は妙に蒸し暑かったことを覚えています。
サブカルチャーの聖地・中野ブロードウェイ。
その2階の最奥にあるSpace Jingaroではデザイナーの古賀学さんが主催する『月間水中ニーソ』の6月号として、フェチ界隈で絶大な支持を集める競泳水着メーカー・Realiseの社長を招いたトークイベントが行われていました。
毎月そのイベントに参加していた私は、その日も業界裏話に笑ったり、
”フェチ”と一言に斬れない人間の嗜好の奥深さに舌を巻いたりしながら、
隣のカフェでオーダーした東南アジアの瓶ビールで乾きがちな喉を潤したりしていたのです。

握りっぱなしのビールがぬるくなり始めた頃。
トークの前半が終了して短い休憩に入り、手持ち無沙汰な私は、いつものようにiPhone5を取り出し、Twitterを開きました。
そこに飛び込んできたRTの文字列が、それから4年近い自分の運命を変えるとも知らずに……。

1浪1留2休で東工大の院を卒業してから丸2年ニート暮らしをしていた私は、
「これだけメディアでも有名な先生のところを受けたら、ネタになるかもなぁ。どうせ落ちるだろうし」と気楽な気持ちで応募することにしたのです。

……とはいえ旧帝大の高名な研究室に応募するわけですし、一応当該分野で修士号を取ったとはいえ、有名なジャーナルに論文が載ったとかの実績があるわけでもないので、応募締め切りまでの3週間でロボット作って、それを使った演劇を上演することにしました。
(それが私の主催する劇団粋雅堂15年6月公演・ロボットト演劇『tele- -phone』でした)

結局3週間は新作を作るのにギリギリの日数で、ヒーヒー言いながら記録用の写真とムービーを撮ってもらい、なんとかプレゼン資料に盛り込んで大阪に送りました。
それからなぜかトントン拍子で話は進み、2週間後の7月8日。酷暑の豊中市に私はいました。
応募先のボスをリスペクトして、上下黒のスーツ、シャツもネクタイも黒という服装は、7月の太陽光を効率よく熱に換えて、そりゃあもう暑かったわけです。

暑さの汗と不慣れな道に迷った汗と、石橋門からの通称・阪大坂のクライムヒルの汗。
水分を根こそぎ奪われたところに、生まれて初めての就職面接という冷や汗までかいて、脱水スレスレだった私は会話の内容もほとんど覚えていません。
ただ、面接を終えて退室しようとしたとき、(いつものように)黒ずくめな服装のボスがぽつりと言ったことだけは印象に残っています。

「……黒が被ったな」

あー……こりゃ落ちたな。
もちろん研究職の経験も業績などもないニートなので、はじめから受かる自信など皆無な記念受験の気持ちだったのですけど、
まさか服装で落とされるとまでは思ってなかったので、脱水でぼーっとした頭のまま、後に住む三国から新大阪まで歩いて新幹線で帰京したのでした。
お土産を買った記憶はないので、鉄板の土産話を手に入れてそれで満足としたのかもしれません。

これから再び長いニートぐらしが始まるぞい!
……と、思いを新たにした矢先、採用のメールが来ました。

「着任は8月1日」

2週間で部屋探しと引っ越しを終えないといけないという、
慌ただしい夏が始まりました。
それから3年8ヶ月続く、長い長い大阪旅行の始まりです。

なにをしていたか

在職中はJST実施の2つの大型プロジェクトにメンバーとして携わり、
主にアンドロイドやコミュニケーションロボット用のプログラムを開発する仕事に従事しました。
研究室自体の規模が非常に大きく、両プロジェクト経由での共同研究なども盛んに行われていたので開発の需要が相当あり、
また学生の手に負えないレベルのもの・研究に直結しないのでマンパワーを割きにくいものも多かったため、それらの開発や相談が回ってくることが多かったです。
必然的にフロントエンドやバックエンドといったフィールドを選ぶ余裕もない状況だったため、実験用のUIからハードの直前までわりとフルスタックに開発に参加しました。

開発のタイム感はかなり特殊で、5年10年かけてじわじわ進める
“秘伝のタレ”みたいなプロジェクトも複数ある一方で、
「来週ドバイでデカい賞の表彰式があるんで、受賞スピーチで使うプログラム書いて!2時間で!」みたいな極短納期な案件もそれなりにありました。

開発に充てられる期間は総じて言えば標準的だったと思いますが、
それは企業的な開発のルールやしがらみがない分軽量に進められることと、
その分コーダーひとりひとりの負荷がかなり大きくなること、集団での開発手法が徹底されていないことによるロスの和差によるものではないかなと。

私が関わった中ではロボット用のミドルウェア(他で言えばROSなどに相当するハードとクライアントPCを結ぶ制御部)の開発・改良のウェイトが一番大きく、一部のロボットでは既存環境からの更新のために全ソースコードを別言語で書き直し/移植したりと、かなりがっつり書いたりもしています。

使用言語もハード向けのオールドスクールなC言語から今風のjava script、C#、Pythonあたりまで幅広く扱いました。
(もちろん、私の一番得意なMax/MSPも事あるごとに引っ張り出してねじ込んだりしています・笑)

また、コミュニケーションロボットという学問領域の特性上、
UXから音響・映像メディア、シングルボードコンピューティング、
機械学習とかなり広範な知識の集積が必要となるため、
今流行りの分野に関してはかなり全般的に鍛えられた感じです。

反面、「特任研究員」という職位のわりに、自分の実績になるような研究活動はほとんどしていません。
在職中に論文を稼いで博士を取得するという道もあったのですが、
……そこはまぁ、なんとなく、です。

職場以外ではこことかここのような記事を書いたり、
劇場用アニメ用にプログラムを書き下ろしたり、
ハッカソンの審査員をやったり高校生向けの講演に呼ばれたりと、
これまでのキャリアとガチ理系な職場とのハイブリッドもやっていました。

演劇自体はさすがに本公演は難しかったものの、年1回のペースでテクノロジーがっつりな作品を作り続けてきました。
(詳しくはこっちのblogにまとまっています。よろしければどうぞ)
副業がっつりできるような職場ではなかったですが、業務外のクリエイティブな活動はむしろ評価してくれる風土はとても快適だったと思います。

職場のよかったところ

まずは何よりも「変人が多かったこと」でしょう。
大学、あるいは研究職自体がそもそも社会の基準から言えば変人の集まりなのでしょうけれど、その中でも特に濃ゆい人材の集積地です。
研究室のボス自体がそのような人材を好んでいたというのが最大の理由でしょうし、実際濃さに見合った優秀な同僚たちの集まりでした。
周知の通り、いまの大学、特に工学系は人材に求められる能力の高さのわりに給料は企業の半分くらい、ということも多いわけで、その中でもアカデミアに残ろうというひとたちの能力の高さや“変わり種”感はなかなかに味わい難いものであります。
(実際、優秀な学生は大学を離れ、大手に行く傾向の強い研究室でした)

あと人材に関して言えば、同僚に複数人の哲学者(文字通りのPh.D.)がいて、工学屋さんの興味偏重になりがちな研究の現場に人文知の香りがほのかに漂う環境だったことも自分の経歴に合っていました。
自分の部屋の隣にマルクス・ガブリエルから清水ミチコまで来る職場って、テレビ局とかでもない限りなかなかないような気がします。

また、環境面では予算額の大きいラボだったため、国立大学特有の「あれがない、これがない」という不足に苦しまなかったことは非常に幸運でした。
私自身、予算のない国立大院のラボ出身ですし、ポストを得て他大学に栄転になった同僚のぼやきを聞くにつれ、そのありがたみは身にしみます。

人型のロボットを扱う研究はロボット自体が一番コストフルなものですが、自分の研究室でかなりの数を持てているため、最小限の調整で必要なハードを確保できることは、研究・開発の双方で極めて有益だったと思います。
……もっとも、私自身は(補給に恵まれない)現場育ちで、あまり「あれがほしい、これがほしい」というのがないタイプなため、恩恵に最大限預かれていたのかはよくわかりませんが。

仕事の中身に関しては、なんといっても自分の関わった仕事が大きくメディアに載る機会が多かったことは大きなモチベーションになりました。
「オルタ」シリーズの科学未来館での展示とそれに続くメディア芸術祭や
アルス・エレクトロニカ受賞、平田オリザさんとの共同研究での演劇教育、
そして企業との無数の共同研究などなどなど、
「自分の研究室のリリースをテレビで初めて知る」という笑い話が本当である程度にアウトプットの多い職場で働けたことは今後表現に関わる仕事に携わる上でも貴重な経験だったと思います。
(マツコロイドとかテツコロイドとか漱石ロイドとか観音ロイドとか、
結局実物まだ見たことないですし)

総じて、貴重な経験や人の通らないパスの通行券を手に入れるのが好きで、
アカデミアでの出世とか、高額な報酬を得て成り上がるとか、そういう意識の高い目的が薄い私にはとてもよい職場でした。
専業のプログラマ・テクニシャンを雇える研究室はまだまだ少ないですが、私のようにハマるマッチングも本当は多いのではないかなと思います。

やめた理由

特にはありません。
「そろそろニートに戻るかー」くらいの軽い気持ち、です。

普通は、次の(より大きな)キャリアに移るとか、
起業するだとかのポジティブな理由だったり、
あるいは職場の風土や業務内容がブラックすぎるとか、
長年の間にキャリアパスや企業の方向性が変わりやりたいこととのミスマッチを生じたとかのネガティブな理由だったりと、
そういう話があってこその退職エントリですが、どちらでもないです。

逆に、こんなに好き放題、出勤時間から有給のとり方、タスクの進め方まで文字通りの「裁量労働」をさせてくれた研究室には感謝しかありません。
また、一般的にポスドクのためのポストである特任研究員(常勤)という職位は博士号持ちが前提となりますが、プログラマ募集という特殊な案件だったためか、修士卒の私でも雇ってもらえたことは本当に貴重な機会をもらえたと思っています。
唯一、毎日必ず自分のデスクに出勤すること(リモートワーク不可)だけは時代に反している感じがしましたが、大学という極めて大きな組織では当然のことでしょう。

強いて理由を探すなら、仕事のサイクルの違い、というのはあるかなと。
もともと工学徒(工学者)であると同時に、演劇の世界で長年スタッフワークをしてきたので、やっぱり「現場」というものが好きだったことと、
家業が雑誌の出版で、私自身も雑誌に記事を書かせてもらうことがあったりした関係もあり、《はたらく→〆切→打ち上げ→短い休憩→はたらく》というサイクルが魂のレベルで刻み込まれているので、
“研究のためのプラットフォームづくり”という、わりと終わりのない開発とはあんまり相性がよくなかったこともあるでしょうし、
また、たまにある大きなデモや海外のショー・展示会の機会は優先的に学生に割り振られるため、現場やその後の打ち上げとの距離が遠くなってしまっていた、というのはわりとじわじわくる要素ではありました。

もちろん、大学(院)というのは研究のための機関であると同時に、学生の教育のための場所でもあるので、そうした華やかな大舞台は前途ある学生たちに譲って経験を積んでもらうことは当然のことではあります。
なので、これは単に「昔から繋がりのある仲間や友達たちとメディア芸術祭とかSxSWとかでワイワイしたかったなー」という願望だけであります。
どちらかと言えば、プロジェクトの区切れと、わかりやすい印としての飲み会がないカルチャーがなかったことの方がつらかったかもしれないですね。
「打ち上げで飲みたいから演劇やってる」と言われる程度に芝居人にとって飲み会は大切なのです。

(幸いなことに研究室でも飲み会は結構多く開催されていましたし、クラフトビール好きな先生が多かったので、そっち方面にもかなり明るくなることができました。そういう飲み会は今後もぜひ参加したいところであります)

あと、これは良いところでも悪いところでもないのですが、お金がないことで有名ないまの大学の状況下では珍しく大型予算をバンバン取ってくるメガ研究室だったので、予算の使い方は(定期的な査察などを含め)かなり厳しかった印象があります。
そんなお金持ちなラボの中にあって、私は着任時に買ってもらったMacBookPro(竹)と27インチのディスプレイ2枚くらいしか研究費を使ってもらわなかったので、かなりローコストな研究者だったかと思います。
…もっとも、プログラマとしては決して高くない給料まで含めてコスパが良かったかはわかりませんが(笑)

最長5年までの契約だったので、研究室にはあと1年はいられたのですが、
なんとなく元から3年くらいかなー、と最初から思っていたことと、
「もしオリンピック絡みの仕事が来ることがあるなら、20年3月退職だと遅いかな」みたいなことを多少考えていたくらいです。
(ちなみに、もちろんそんな大きな仕事とか来ていません。お誘いはぜひ)

いずれにしても、やっぱり自分は現場にいて、その場の動きに能力・気質を最適化している人間だ、という再確認ができたので、
「本番」とか「現場」という言葉のある世界に帰ろう、というのが、今回の退職の直接の動機ということになるかと思います。

これからどうするか

特にありません。ニートに戻ります。
……といっても、来月で35歳になるので、いわゆる定義からするとあと1ヶ月でただの無職になるわけですが。

就職が決まったときにやりたかったことが2つあって、
①退職エントリを書くこと
②失業保険で暮らすこと

このうち①はこうやって叶っているので、
次は②を実現しようかなぁという感じです。
働くこと自体は嫌いではないのですが、
もともといろんな仕事・いろんな現場に行くのが好きだったので、
今のところ特定のどこかに再就職する気持ちはあんまりありません。
(ものすごく高待遇なら別ですが!ぜひよろしくお願いしたいところです)

しばらくはフリーランスでお仕事をいただきつつ、
久しぶりに劇団の本公演を打ったりして過ごすつもりです。
(次回公演はすでに動き始めています。こちらもぜひ読んでいただければ)

できること

せっかく長々と退職エントリを書いたので、
最後に求職代わりにスキルリストを書いておきます。

・ロボティクス、コミュニケーション、メディア系の研究の
 プログラミング、実装、デバイス開発
・演劇・メディアアート現場でのデジタルエンジニアリング、
 特にロボットを利用したもの
・舞台音響・舞台照明、ステージまわりのスタッフワーク
・劇作・作詞、雑誌やWebでのライティング、特に批評やサブカルチャー、
 科学の知識を必要とするもの
・創作における科学・工学の考証、設定補助
・(非メディアアートの)創作におけるプログラミング・開発

特に、演劇やロボティクス、アニメーションやSFなどに興味が強いです。
自分で書いていても典型的な器用貧乏タイプかつ、スキルセットの総体が見えにくいタイプだとは思いますが、
他の誰も持っていない組み合わせの能力をいくつか持っているつもりですので、上記のうちのどれか、
あるいは複数の複合がもしお探しの人材とマッチしましたら kamdagawa[☆]gmail.com までお気軽にご連絡いただければ。

超絶に長くなりました。

あの暑い暑い6月にふと思い立った大阪への旅路は、
思いの外、長い紆余曲折と数々の替えがたい出会いや経験の果てに、
結局は長年住み慣れた街へと帰り着きました。

とりあえず積年の夢だった退職エントリを書き終えることができたわけで、
この記事を閉じて同時に新しい夢とか願望とかを探しにゆこうと思います。

新しい暮らし、新しい出会い、新しいお仕事が開く新しい扉の風景が、
今からとても楽しみです。

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