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役になりきるも役になるも素敵だなという結論。

私、
役になりきるってなんだよ。
って思ってた話。

また今回も演技のお話です。

皆様のおかげで有難いことに声優活動が続けることが出来ております。

今日も頭の中を整理する為に「役になりきるってなんだよ。」って思っていた私の生意気な考え方を整理整頓しようと思います。

「役になり切って」は
ディレクションをする人や
演技の講師の方が口にする印象があります。
勿論、役者さんも。

お姫様になりきる
悪女になりきる
怪盗になりきる
ヒーローになりきる

って、

おままごとのような、
エチュード的に

自分が正解を決められて、
自由に演じられるものでは

〇〇になりきる

が、成立する。と思っています。

でも、私は
キャラクターデザインがあり
決められたセリフがあり
物語が最初から最後まで決められていて
既に決められた設定があるキャラクターの声を務める際

この、【役になりきる】は違和感の塊でした。

《なりきる》わけですから、
わたしは《〇〇になりきっている》という
「わたし」という自我が
私の場合、
演技とお芝居やる上で非常に扱いづらかったのです。

それに、
役になりきるって、

既に他者に決められているもので、
特にセリフが決められているのですから、
なり切った時の自分の言葉で喋れるはずは無い。と考えています。

役になりきっているなら、
台本のセリフがスルスル喋れる、というのも
感覚的ではありますが理解ができます。

ただ、なりきっているのに
なぜ台本に書かれたセリフを言っているのだろう。
なり切っているのなら
なりきった私から出た言葉で喋らなかったら
なりきるにならないんじゃないか?

と、大変頭でっかちに考えているからです。

結論、私は
【役になりきる】のアプローチが
まるで向いていないようです。

改めて、【役になりきる】ってなんだろう?

と考えてみた。

なったつもりでしかないのではないか。というのが
現在のわたしの結論なのですが、

それでいいよね。と思います。

役になりきるって
その人物(役)をキャラクター的に捉える
物語の役割的に捕らえる

ということなのかな?と
最近は考えております。

決定権が自分に無いなら「なりきる」は成立しないのではないか、と考えていますが、

(※自分で「こうしよう!」は、必ず決定して持っていかなければいけない仕事です。
それを、
現場でアリか無しかを決めるのは
クライアント様や音響監督さんです。

そういう意味で、最終「決定権は無い」と言っています。)

(でも「こういうのどうですか!」と
決めて現場に持っていかないと話にならないし、
この「決めて持っていく」は、最重要なくらいとてもとても重要な作業です!)

決定権が自分にあるものの範囲なら
なりきる。は、成立するんじゃないかな?と。

わたしは

役になりきるんだよ。
と教えて貰って実戦しましたが
うまくいきませんでした。

そこはセンスが無いからか
経験が乏しいからか
違和感を感じて上記のようなことを考えて散らかしてたからと言いますか

何故かは特定できていませんが
多分、好みじゃなかったのかもしれません。

向き不向きってあるよね。

この「役になりきる」アプローチでうまくいく役者さんは沢山いらっしゃると思います。

役になりきるって

結局、役を生きる上で
使っている素材は全部その人自身(私)から出てくるものなので

結局同じ引き出ししか開けられないのではないか。と思っています。

この役は私ではないのに
私の似たり寄ったりの引き出しの中ばかりから出されては
それは役ではなく、私ではないか。
役の意味がなくなってしまうのではないか。
私、西瓜すいかがこの役やることに意味があります、ということなら
ケースバイケースで多少理解ができるけど、
それでは、役じゃなくなっちゃうんじゃないか?
と思うのです。

(なりきるかなるか置いておいても
その引き出しを増やすことを
役者さんたちは日々行っています。)

任せていただくキャラクターで
そのキャラクターになりきるということが、
現在のわたしの結論的では、
感覚的に無い、ものになっています。

もし、
私の出演している作品を聴いて、


このキャラがそこに存在している!
と聴こえたならば

役になりきらないアプローチで
求められたものの正解を応えられたのではないかと思います。


お芝居の中で、キャラ感を保ちながら感情が出ると
役になりきっている

ように聴こえがち、見えがちになる。と思っています。

その人の内面を見えたような印象を受けるからだ、と思っています。

ただこれは
役になっているのかと言われると
見た人、聴いた人の判断に委ねられるところだと思うので、

その役をやった自分自身が、
いくら
「このキャラクターの気持ちになった!」「役になりきった!」
と心底確信しても

受け取る側がそう感じなければ

役になりきっている
役の感情、気持ちがわかっている

ことにはならないと思っています。

不成立だった、というかんじです。

望まれたのはソレじゃない、というか。

でも、
役者の中では一本通ってる

みたいな。

どこまで行っても
演技やお芝居は
人に判断してもらうことなので

自分がそれを出来た!と言い切ることに
いささか違和感がある
のです。

自信がある人は
それだけで人を惹きつけます。
だから
演技した時に
非常に魅力的に見えたり、聞こえたりすると思います。

でもそれが
イコールその役なのか

と考えると
わたしは、疑問なんです。

しかし、それで
そのキャラクターを生かし
見てる人、聴いてる人に

その役が生きているように映るなら。聴こえるなら。

その役になっているかどうかなんて置いておいても
大正解だな。と思います。

そのキャラクターを活かし、生きて、物語の最後までいけたら
アプローチの方法やその人のスタンスって
極論、どうでもいいことだよね。と思っています。

聴いてくださる人が、
そのキャラクターだ!!!って思ってくれたら
そのキャラクターは確かにそこに居る、と思うんです。

わたしがしたいことは、ソレです。

ぐだぐだ役になりきるなりきらないの話をしたのは
あーでもないこーでもないと考えまくる私の頭の中を整理したかっただけで

聴いて下さる人が喜んだり、そのキャラクターが生きてると感じて心を動かすことができたら…
アプローチは過程でしかないから、結果、どうでもいいよね。って。


私は、
その人になっている
なら、役が主軸

その人になりきっているなら
演じるその人が主軸

と、思っています。
勿論異論は大歓迎です。

OKを出す立場の人がそれでOKを出すなら

それが正解(どういうOKだったかは色々あると思います。)

そして
お客様が「いいね!」「最高だ!」と思ったら

なりきっててもなってても
ほんとにどっちでも良いし
どっちでも最高に素敵だな。

と思いました。

おしまい。

西瓜

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