絵解き東遊記表紙1

絵解き東遊記(4)

■絵解き東遊記 その7 鍾離権、道を志す

 さて、鍾離権はもともと上界の仙人が罰として下界に下ったもので、そろそろ再び上界に戻るころであった。
 空を飛んで通りかかった李鉄拐は、このまま吐蕃軍に大勝利したら、鍾離権は爵位を得て富貴に溺れ、仙界に戻れなくなってしまうだろうと考えた。
 そこで、李鉄拐は老人の姿になり、吐蕃軍を訪れた。
 粘不聿は敗残し、八、九割もの兵を失っていた。李鉄拐は、今夜、漢軍に災いがあるから夜襲をかけるようにと告げて去る。

 粘不聿は四万の兵で夜襲を準備する。果たして、三更になると、漢の陣営から火の手が上がった。李鉄拐が火をつけたのである。さらに大風が吹いて大火となった。
 吐蕃軍は火矢を射て、四面に伏せていた兵で、いっせいに漢軍を攻めた。乱戦の中、鍾離権は粘不聿と出会い、十合余り戦ったが、多数の兵に囲まれ、あわや捕らわれるところを馮己に助けられ、ただ独り、山中へと逃れた。

 険しい山中で進退窮まっていると、龍を雕(きざ)んだ杖を持った碧眼の異国の僧が現れ、鍾離権を、東華先生が悟りを開いたという村に連れて行った。

 村に着くと、白い上着を着た老人が、アカザの杖をついて現れ、鍾離権を村に入れ、麻姑酒と胡麻の飯でもてなし、富貴や功名を求めることのむなしさを説く。

 老人から養生とは心を虚に、腹を足りさせること等と聞いて、鍾離権は悟り、老人に弟子入りする。
 老人は、鍾離権に、長生の秘訣、金丹の火候(火加減)、青竜剣法などを、ことごとく授けてくれた。
 翌日、帰り道を聞いて村を出て振り返ると、村は見えず、鍾離権は、本物の仙人だったのだと気づく。

■絵解き東遊記 その8 鍾離権、剣を飛ばし虎を斬る

 鍾離権が家に帰ると、家族は、死んだと思っていた人が生きていたので、大いに喜んだ。
 数日後、戦いに敗れて勝手に帰宅したのを朝廷に知られて重罰が下るのを恐れ、また、道を慕う心も強かったので、鍾離権は身を隠して真を修めたいと思うようになっていた。鍾離権の兄の鍾離簡も同じ気持ちで、漢への仕官を辞して家にいた。
 鍾離権の話を聞いた鍾離簡は喜び、家族と別れ、二人は道服を着て如意を手に、頭の両側に髻を結って、ふらふらと華山三峰に向かった。

 兄弟二人が話をしながら山道を歩いていると、騒ぐ声がして、人々が虎を追っていた。
 虎はすでに子どもを害し、嶺を下って人々を傷つけていた。人々は鍾離権が体格が良く強そうであったため、助けを求めた。
 兄からも青竜剣法を試すときだと言われ、鍾離権は剣を手に取り、大きな声をかけて山のほうに放り投げた。すると虎は大きくひと声あげて、血しぶきをあげて山の下へと落ちた。人々は礼を言い、鍾離権に名を尋ねたが、鍾離は笑って答えず、剣を鞘に収めた。

 二人は華山に着き、修煉を重ねた。
 霊薬を至宝に変えて貧しい人々を助けるなど善行を重ね、上仙の王玄甫に話を聞いたり、華陽真人から太乙刀法や火符や内丹を伝えられたり、神仙秘訣を得て学んだりしているうちに、五色の祥雲、仙楽とともに仙童がやって来て、上帝の命令で鍾離権を迎えに来たと言う。鍾離権は、兄の簡に秘訣を授けて雲に乗って去った。兄の簡も、それからさらに修煉を重ね、後に昇天した。

■絵解き東遊記 その9 藍采和

 藍采和は赤脚大仙が世に降りたのだと言われている。人の姿はしているが、本性ははっきりしない。勝手気ままに遊び歩き、常に破れた藍衫(下級役人の青い服)を着て、六つの黒檀でできた銙(飾り金具)のついた革帯をつけ、その幅は三寸余り。一方の足には靴を履き、もう一方は裸足。 夏は上着の下に綿入れを着て、猛暑の日中でも汗をかかず、冬は単衣で雪に寝そべっても暑がる。

 日々城市で銭を乞う。手に長さ二尺ほどの大きな拍板を持ち、酔って、足を踏みならして舞い歌う。老人も子どももみな、これを見た。
 どこか正気を失っているようでそうではなく、でまかせの歌を歌うが、すべて神仙の奥深い意味があり、人には計り知れない。得た銭は縄でしばって持ち歩くが、散らしてしまっても気に留めず、貧しい人にあげることも、酒代にすることもある。あちこちをふらふらしていて、子どもの時に藍采和を見た人が、年寄りになってまた見たときも、容貌も服装も以前のままだったという。

■絵解き東遊記 その10 張果老

 張果老は混沌以来の白蝙蝠(コウモリ)である。その籍は天地の気で、日月の精を得て、果てしない時を経て人の姿になった。
 後に恒州中条山に隠れ、宛丘や李鉄拐ら仙人たちから説法を受け、汾晋(現在の山西省のあたり)をぶらぶらしている。不老長生で、年寄りに聞くと、自分が子どものころに見たときすでに数百歳だったそうだ。

 張果老は、いつも白いロバに後ろ向きに乗っていて、一日に数万里進む。休憩するときはこのロバを折りたたんで紙のようにし、小さな箱の中に入れる。乗りたくなったら、水を噴きかけて再びロバにし、後ろ向きに乗って勢いよく走り出す。
 唐の太宗や高宗が呼び出したが応じず、則天武后が召し出したときは山を出て、妬女廟の前で死んだふりをした。暑さで死体はすぐに腐って虫がわき、則天武后も死んだと信じたという。だが、後に山中で見かけたという人がいる。
 その後も張果老は、しばしば天子に召し出された。応じて仙術を披露したり、昔の話をしたりすることもあったが、最後は屍を残して仙人になり、弟子が葬った。後に棺を開けると、中は空だったという。

■絵解き東遊記 その11 何仙姑

 何仙姑は、広州増城県の何泰の娘である。生まれながらに頭のてっぺんに六本の毛が生えていた。
 唐の則天武后の時に雲母渓に住んでいた。十四、五歳の時に夢で仙人に、「雲母を食べると身が軽くなり不死となる」と告げられて、雲母の粉を食べると、果たして身が軽くなった。

 結婚しないと誓い、母も無理強いはしなかった。
 ある日、偶然に李鉄拐と藍采和に遇って仙訣を授かり、山谷を飛ぶように行き来していた。
 則天武后が召し出したが、連れてくる途中で突然姿をくらまし、いくら探しても見つけられなかった。
 後、景龍(七〇七~七一〇年)の時に李鉄拐に仙人とされ、白日昇仙した。


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