北の鉄の街と、東京のディープサウスが重なり合う瞬間

「僕がいちばん記憶に残っているのは釜石に行ったときだね。体育館みたいなところでやったら、客が全部学生服を着てるんだ。それでステージが終わって翌日、僕らが東京へ帰るために列車に乗ったら、昨日の学生服の子たちが乗ってくるんだ。集団就職なのかな。そのころ、そういうのがあるのか分からないけど、学生時代最後に見るアグネス・チャン。そして東京へ行く彼らと一緒に列車に乗っているバック・バンドの僕たち。すごい印象として残っている。」(『火の玉ボーイとコモンマン』より)

“日本最古のバンド”ムーンライダーズのリーダー、鈴木慶一氏の回想の一節である、1975年。結成まもないムーンライダーズはアグネス・チャンのバックバンドとして彼女のツアーに参加、その一環として、僕の住む街・釜石にもやって来ていたのである。“体育館みたいなところ”というのは、おそらく小川体育館のことだろう。70年代の終わり頃まではこの体育館でもずいぶんとコンサートが行われていたものである。

1975年といえば、釜石の駅前にはまだ製鉄所の煙突が立ち並び、白い煙をもくもくと吐き出していた頃だ。駅のプラットホームからも車窓からも見えていたはず。このいかにも工業都市を象徴する光景と東京へ向かう列車という装置に、慶一氏は自分の生まれ育った東京・羽田と旅の途中の自分たちを重ね合わせ、上のような少々感傷的ともいえる印象を抱かせたのであろうと、これも勝手に僕は想像するのである。

羽田というと空港という連想が働くが、彼の原風景にあるのは中小の工場が軒を連ねていた労働者の街だったそうである。「土の道に、たくさんの工場。これが僕が小さかった頃、一九五〇年代の羽田の風景だよ」「みんな同じ服を着て汗みどろになって機械をうごかしているんだよ。『輝ける未来へ、労働者諸君、漸進しよう』という文字が浮びあがってくるような光景だった」(前掲書)

ところで、慶一氏が言うところの、列車に乗り込んできた“学生服の子たち”というのは、私見では、集団就職ではなく、わが母校、釜石南高校に汽車で通う鵜住居や大槌の生徒たちではなかったか、と思っているのであるが、たとえそうだとしても、もちろんそんなことはどうでもいい。彼の心に釜石の印象が深く刻み込まれていたことが、素直にうれしい、のである。

(2007年3月25日)

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