めぐる夜桜

たまに通りかかる公団のそばの公園で、ぎゃあああああああ、としゃがみこんで絶叫している子がいた。
私はスーパーの袋を腕にかけて、あわてて駆け寄った。
そして、すぐ、その子のそばに、そっとゆっくりしゃがんだ。こういう時は、保護する側が冷静でないと、子どもはかえってパニックを起こす。
「ぼく、どうしたの?」
男の子だ。ずいぶん小さいな。3つ?4つ? 
ずいぶん服が汚れている。膝がすりむけて血が出ていた。
「ああ、転んじゃったの。痛かった痛かった」そっと言って、バッグからポケットティッシュを出し、まず治療をした。
血をそっとふき取る。いちまいめ。
砂粒をそおっと取る。にまいめ。
出血はそんなでもない。
「エラかったエラかった、よくガマンしたねえ」
わあああああああん
わあああああああん
困ったなー泣き止まない。それに晩ごはん時でそろそろ暗いのに、この子一人だけなぜそこの団地に入らないんだろう。母親迎えに来ないのかな。多分そこの子だけど。これくらい小さかったら普段は近所にしか出られないはず。
わあああああああん
わあああああああん
おがー
おがー
おがー
わあああああああん
「うんうん。よしよし」この子、言葉、まだかもしれない。私は泣き声をサーチした。赤ん坊のことばだ。
痛いよー
さびしいよー
こわれるー
こわれるー
おかー
おとー
たすけてー
おかー
やだー
こわいー
それやめてー
兄たんしんじゃうー
おとー
おかー
どこー
わああああああああああん

その子の心の眼の記憶の中に、包丁が見えた。危機。最近のことだ。でも、すんでのところでそれは去っている。この子は目撃していた。遭っていた。そして、捨て置かれた。
ああ。ずいぶん痩せてる。この子母乳もロクにもらってなかったな。
どうしよう。私子どもいないから扱い方分かんないよー。
でも、どうしよう、どうしよう、ほっとけるわけないよ。
私はその子の激しい泣き声と、サーチしたことばの壮絶な恐怖と混乱と悲しみに、同化してしまった。
うちに連れて帰ってきれいにしてやって服着替えさせてやっておなかいっぱいにさせてふとんにくるんで安心させてあげないと私はこわれる。
たまらなくなった。私も泣き出した。
そして、幼児をそっと抱いた。そして、抱きしめた。
その子は、胸の中でいっそう激しく泣いた。私も泣いた。私たちは泣いた。
私たちはやがて、ひとつのやわらかな、甘いかたまりになった。ひとつになった。
子どもの激痛が、しずまってくる。私の心も、しずかになってくる。

子どもの泣き方が、甘えるようなしゃくりあげかたになってきた。やっと保護された安堵から、話し始めたのだ。私はしゃくりあげる音と、人間のことばを使わないで話した。
ぼくね。ぼくね。  
「うん」
わかんない 。
「そうか」
おなかすいた。
「ごはんまだ?」
まだ。おなかすいた 。 
公園の中に何本かある桜の木。六分咲きほどになった花が、夕桜に変わり始めている。私はスーパーの袋の中をがさごそやった。自分用に買ったチョコレートがある。ぱっ、とその子の目の前に、魔術師のように出して見せた。
「たべよっか」その子は眼を輝かせた。そして人間のことば?で言った。
「あーあーあーあー!」
たべる!たべる!ほしい!ぼくそれすき!たべたい!ちょうだい!
「たべようね」
私はその子をベンチに連れて行くために、抱き上げた。せつなくなるほど、軽い。
そして連れて行って、膝に横抱きにしたまま座り、まず、スカートのポケットからハンカチを出して、その子の、涙と鼻水と泥でよごれきった顔をしっかり拭いた。
「きれいきれいしてからたべようね」その子は、おとなしく、されるがままになっていた。
さんざん泣いて、気が済んだのだろう。ようやく泣き止んだ。そうそう、涙と膿は、出し切らないと痛いからね。しかしチョコの威力、すごい。子どもにはお菓子って、てきめんなんだわ。
きれいにしたその子の顔を見て、その眼が私の眼を射た時、私は息が止まった。
あまりの、美しさに。
澄んで、宝石のようだった。人間離れしていた。
悲しそうだが、生命に燃え、世界を優しく俯瞰していた。
ぼくのおかー、もういなくなった。
「どこに行ったの?」
わかんない。兄たん、毎日おっかけてた。兄たん、泣いてた。兄たん、かわいそう。
「エラかったね。よくガマンしたね。もうだいじょうぶ。さ、チョコたべような」
チョコレートの箱を再び手にすると、その子はひったくるようにしてめちゃめちゃに開けようとした。でも開けられない。やぶいた。空腹で狂いそうなのだ。ああ。私はそっと手を添えて、一緒に開けた。
「ほらね。こうすると、開くんだ」
男の子は、きちんと座った。あれ?意外と行儀がいい。ああ、こうしないとごはんもらえないって覚えたんだ。私はひとつぶ、取った。
「はい、あーん」
男の子は、つばめのヒナみたいに口を大きくあーんと開けて、つやつや光るチョコのつぶをほおばった。そして閉じた。その時顔に表れた最高のしあわせの表情。そしてうれしそうに笑った。
「うふ
 うふ
 うふ」
うわあ。可愛いなあこの子。この世にこんなにおいしいものないよ、って顔。
「おいしいねえ。おいしいねえ」私はうれしくなって、しばらくそうやって食べさせた。そのたびに大輪の花火のように咲くその子の笑顔を見たくて。あ、でも、あげすぎたら下痢しないかな。栄養バランス栄養バランス。
「ぼく。今日は運がいいねえ」がさごそ。
「じゃーん。これなーんだ」男の子が、にっこりして、人間のことばで言った。
「にゅーにゅー」
「そー。牛乳。すきでしょ」
「んーんー」男の子は早くくれと言わんばかりに、足をバタバタした。
コップはないが、開けてそっと口にあてがった。驚いたことに、男の子はまたしても優雅に飲み始めた。へえ?ああ、こうすればこぼさないで全部飲めるって分かってるんだな。頭いいな、この子。
ごく、ごく、ごく。細いのどが動くのを、祈るように見つめた。男の子はやがて口を離して、また
「うふ」
と笑った。
「まいー」
「そうだねえ、うまいねえ。ぼくのむのじょうずだねえ」
「まいー」また、飲む。いっぱい飲ませてあげよう。おなかが満ちれば、気持ちも落ち着いてくるはずだ。
その美しい眼。だいじょうぶ、まだ魂は喰われていない。それどころか、ぼくやるよ、と言っている。美しい野生の生き物の仔。この子、将来化けるかもしれないな。つばつけとこか。パックに口をつけたまま、子どもが眼で問いかけてきた。
おねえちゃんおうちどこー?
なんかナンパされてるみたいだ。
「おねえちゃんちはね、向こうの三角山のしたのお池のおうち」
いっていい?
「でもぼく、今日はもう夜だから、おうちかえろう」
やだいくー 。
ああ、この子の家。なんてことだ。ぐちゃぐちゃに散らかって。父親は?いない。夜の仕事のようだ。兄たん、と呼ばれた少し年の上の子は、奥の部屋のこれまた散らかったふとんの上で、テレビを視ている。手にはミニカー。テレビを視ながら、この子と同じことを言っている。泣いている。
「兄たん、おうちいるでしょう」
うん兄たんすき。 
「じゃあ、兄たんにもチョコと牛乳持って帰ろうか」
うんいく。おねえちゃんきて、一緒にきてー 。
「うんいいよ」
ええと。この部屋は。3号棟の3階、303室か。階段だいじょうぶかな?
ああ、だっこして上がっちゃおう。
「じゃ、かえろうね」
「兄たん」
「うんうん」
「おとー」紹介したいのだ。
「ああ、うんうん、そうなんだー。かっこいいねー。トミカすきなんだねー。ぼくも買ってもらったのね。いいねえかっこいいねー。パパおしごと大変なんだねー」
その子のミニカーは、みどりいろだった。兄のはきいろ。

階段は、けっこう大変だった。うー。こんな小さくて痩せてる子でも階段はきついなあ。
でも、おんぶより抱っこのほうがいい。この子はまだそれが欲しい。

うすみどりいろの鉄製のドア。ノブに手をかける。開いている。
「ついたよ。ひとりで行けるかな?」
「ん!」
その子は気丈にうなずいた。ドアの内側に、残りのチョコの入った箱と残りの牛乳の入ったパックを入れた袋をまず置く。残りは全部、その場でしゃがんでバッグに入れた。その子がせつなそうな顔をした。
おねえちゃんちにいきたい。
「いいよ。こんど遊びにおいで」
いくー。いくー。あそぶー。
にこにことその子は笑った。
「ねー」首をかたむけて笑ってみる。
その子はおんなじ動作をして、
「うふ」
と笑った。
鉄の重いドアを開けてやるとその子は、するりとすべりこんだ。
兄たん。
大丈夫だ。この子は意外としっかりしてるし。むしろ兄を助けているくらいだ。この子が兄をあの時、救ったのが見えた。

団地を出ると、公園以外にも団地の敷地内に植えられた結構立派な何本かの桜は、すっかり夜桜になっていた。白い。こわいくらいだ。でも、綺麗だ。
私はその子を想いながら、ゆっくり家に帰った。三角山を下りて、大きな竹林の前を右に入る。敷地は千坪ぐらいで、たくさんの人が住んでいる。私は母屋に入ると、ただいまーと言った。そう。誰もいない。まだ働いているのだ。私は平気だ。

自分の部屋に入ると、二段ベッドの上の段に登って、肉体をするりと脱いだ。
私は子どもになった。私は3歳だった。自分で洗面所に行って、いちご味の歯磨き粉で一人で歯を磨いて、鏡に向かっていーってして、タオルで拭いて、電気をけして、また二段ベッドの上の段によじ登って、絵本を開いた。
蛍光灯は、ついていない。常夜灯の、オレンジの小さな蛍みたいな光で、絵本をながめた。私はまだ字がわからない。でも、絵を見た。お月さまが、空を歩いている絵本だ。


ある晩、私は夜中、おなかが痛くなった。
それが、
寂しくてこわくて死にそうだ、こわれる、誰か誰か誰かたすけてー!たすけてー!
という意味なのを、まだ知らなかった。ただすごくおなかが痛くなる。時々。
でもパパとママはいない。お姉ちゃんは幼稚園に行かなきゃいけないからもう下の段のベッドで寝てる。弟は別の部屋でおうばさんが添い寝している。おうばさんは、弟をおんぶしてはあげるけど、「だめ」「これ」「ばっちい」しか言わないし、私には口をきかない。
私は弟に話しかけた。森の木々やお池やカエルたちやお日さまやお月さまとお話して教わって、それをまた弟に話した。弟はきゃー、という言葉しか知らなかったけど、顔をくしゃくしゃにしてそう叫んで、私も一緒にきゃー、と叫んで、二人きりの時はずっとそうやってしゃべって笑った。


でも、その晩は、ほんとうにがまんできなかった。
パパとママは今夜もいない。お姉ちゃんは寝てる。弟はおうばさんと。
私はいつものように夜中、一人で常夜灯を見ていた。絵本はその晩、読みたくなかった。痛すぎた。涙が出ない。考えたら私は涙を流した思い出はない。思い出せない。
常夜灯はよく私に子守歌を歌った。
ぼんぼりー
ぼんぼりー
と、なぐさめるように寂し気に歌う。
でも、その歌さえも、きこえない。

私はおなかが痛くて、痛くて、でもママを泣かせたらいけないからぜったいに泣かない。
おしっこ。
いつものように、一人で真っ暗な長い廊下に出て行く。

廊下の突き当りに、女の人たちが入るおふろばがある。その手前右側に、お手洗いがある。眼をぎゅっとつむってお手洗いをすませた。でも。治らない。どうしよう。 お手洗いを出て、しゃがんだ。
痛いよう。
痛いよう。ママ。ママー。

でも、その晩はちがった。 ふっと横を見ると、明るい。あれ?おふろばの青いガラス戸の向こうが明るい。お月さまはあんなところには出ない。外には灯りもないからいつも夜はまっくろなのに。青い。透けてる。きれい。
それより、そのガラス戸の前に、へんなひとがいた。光ってる。まっしろだ。
そのひとは、笑って、ようこそ、って感じで、私に向かって両手を広げていた。
「おじちゃん、だれ?」
おじちゃんはしゃべらなかったけど、とても綺麗な眼をしていた。まっさおな沖の海みたい。透明で。
おじちゃんは、ちょっとだけ歳を取っていた。でも、光っててよくわからない。とにかく、あんしんあんしん、おいでおいで、と、だまって笑って言ってくれた。ようこそ。
私はたたたと走って行って、おじちゃんに抱きついた。おじちゃんは抱きしめてくれた。痛いのがなくなった。ぜんぜん痛くなくなった。
光るおじちゃんは、私をひょいと抱っこした。そして、ふわりと飛んだ。
そして、大きなお池のほとりに立った。
「おじちゃん、夜、あっちやだ」ふだん、弟とおうばさんのいないとき一人で遊ぶ森は、夜はこわいから。おじちゃんはそれをちゃんと知っていたから、広い池のそばに連れてってくれたのだ。
おじちゃんは私を抱っこしたまま、そこに座った。私は安心して、眼をつむった。にこにこできた。おじちゃんが歌った。ぼんぼりの寂しい歌じゃない。優しい明るい、綺麗ないい歌だった。ピアノの音ともハーモニカの音とも人の歌とも違うけど、いい歌だった。
眼をつむっていても、おじちゃんの姿がわかる。ひかりが。ぬくもりが。抱っこされてるのが。私はあまえていいのが、すぐ分かった。
「おじちゃん、わたしのこと、すき?」
だいすきだよ。 
愛してる 。
ずっとずっと一緒だよ。 
「私も!私も!」
おじちゃんはあったかい厚いからだで、私を優しく抱きしめた。おじちゃんと一緒に私も光った。私たちはやがて、ひとつのやわらかな、甘いかたまりになった。ひとつになった。
「おじちゃんおうちどこ?」
あっち。
おじちゃんは空を指した。
「ふうん。お月さまのひと?」
さあねえ。
「どこのひと?どこのひと?」
うふ。
「一緒に遊んでくれる?」
うふ。

私たちは、一緒に夜のお池の周りを、ゆっくりさんぽした。桜がまっしろで、おっかない。おじちゃんにぴたっとよりそうと、おじちゃんは私を抱き上げた。
「たかいたかいして」
おじちゃんはふわりと飛んだ。私はおじちゃんの腕に抱かれたまま、でも、私は、告白したかった。誰にも、言えないことを。きいてもらえないことを。
「おじちゃん。私、おうち、ほんとは、やなの」
しってる。
「私一人でさびしいの。パパはこわいし。ママは疲れてるんだ。かわいそうなんだ」
しってる。
「弟はしゃべれないから見てなきゃいけないし、お姉ちゃんはいじわる。たまごもきらい。弟のことはすきだけど、私、やなんだ。ぜんぶ、やなんだ」
私は、えんえん泣いた。あったかい光も、一緒にかなしんでくれている。
私はやっと、あんしんできたのだ。おじちゃんは、そのことも分かっていて、一緒に泣いてくれた。ずっと、長いあいだ。

泣き止んだら、眠くなってきた。あたまがふわふわして、からだが甘く重い。眠い眼をこすって、おじちゃんの綺麗な透明な眼をもう一度見た。かなしそうだけど、笑っている。私も、笑った。
「おじちゃん、またあえる?あそんでくれる?」私は、せがんだ。
もちろん。
「いつ?いつきてくれるの?」
おじちゃんはなんだか暗号のようなことを言った。私はおじちゃんの腕の中で、安心して眠ってしまった。


/待ち合わせ場所に現れた初めて逢うそのひとは、一つ上だと言っていた。まだ寒いのに真っ黒に日焼けしていた。お仕事が外なのだそうだ。でも、眼を見つめられてすぐ分かった。
あの光るおじちゃんだ。
そしてそう、あの公園で泣いていた小さい男の子だ。あの眼だ。
ああ、育ったんだ。そしてあの夜助けにきてくれたおじちゃんだったんだ。
「そのせつは、どうもお世話になりました」私が言うと、そのひとはほほえんで、ますます私の眼を見つめた。分かっているのだ。私が分かったのと同じように。
「こちらこそ、お世話になりました」そのひとも言った。 
私たちは、ちょっと他人行儀だったので、私は恥ずかしくて笑った。私たちはいっしょに笑った。
「飲みに行ったら、そのあとちょっと花見でも、行く?」そのひとが言ったので、
「あ、いいですねえ。ワンカップとか買って」とほほえむと、そのひともうれしそうに笑った。

うふ。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

ありがと♡ほかにも色々あるよ!触ってみる?
20

南条 イオ

恋、書くこと、音楽三昧の言葉屋。のんきに優雅にげんきよく。そして、今日を大事に無事に笑顔だよ!

tales

たまに、物語が生まれます。小説、童話、詩とないまぜのもの、恋のお話に、見つけたなにかのお話。あなたにあげます。
3つ のマガジンに含まれています

コメント4件

心抉れましたヤバい
男の子に関しては、恋人の思い出話に脚色しました。「私」に関しては、完全に実話です。あの白い人の眼がなぜ青かったかは、わかりません。
実話でも震える。
創作でも震える。
これはたくさんの人に読まれてほしい。
万人受けしないかもしれないけど絶対イイ!
side さん
ほんとうに、嬉しいです。私の方こそ、お言葉に泣きそうです。
ありがとうございます(涙)
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。