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「風の谷のナウシカ」のクシャナ

アニメは有名だが、これはどうしても原作でなければならない。
アニメを観た時は子供で感動したが、あとで原作を知ってショックを受けてからは嫌いになった。


主人公は『風の谷』族長の娘、グライダーのようなメーヴェを操るナウシカ。
彼女は世界の苦しみを等しく救おうとする、いわばメサイアのような存在だ。
純粋で、優しい。そして宮崎駿はきちんとその純粋な若さに、「暴力」を備えさせている。ヤンキーの、あの暴力的な子たちは、実は泣くほど純粋だ。泣くから殴るのだ。


物語は、過去の戦争によって汚染された世界が、猛毒の空気を持つ森に飲まれるのをどうすればいいのか、それを探ることがキーになる。


とにかく、臭い物には蓋をするという考えをお上はやりがちだ、ということを、まず宮崎駿は流れで持ってくる。つまり、広がり続け人間たちを脅かす猛毒の空気を発し、人さえ襲う蟲の群れの棲む森林『腐海』を焼き払い、散っている小部族もついでに乗っ取ろうと、大国が辺境に侵略してくるのが冒頭である。
映画では、この侵略者がトルメキア王国だけになっているが、原作では違う。
もう二つの大国があり、トルメキアと三つ巴の戦争になる。


(ちょっと脱線。『森』が世界を滅ぼすのって、面白い。アマゾンの森林は地球の酸素のために必要だから守りたいが、あの森林がすべて猛毒の空気しか発しないなら人類は即刻焼き払うだろう。森、に関して宮崎駿は正当な持論を持つが、この作品に関しては話を逆から攻めて行った。)


結論から言おう。自分がこの物語のどこに魅力を感じているのか。
「原作で」登場するトルメキア第四皇女、クシャナの存在だ。


アニメでも原作でも、主人公、メサイアたるナウシカの立ち位置は変わらないが、クシャナはアニメと原作で大きく異なる。
つまり、アニメでは単なる侵略者だが、原作ではもっと複雑で、私はナウシカより彼女がずっと好きなのだ。


クシャナは王国の唯一の王女だが、三人の兄がいる。
この四人のきょうだいはそれぞれ軍を持たされているが、三人の兄達の軍は単なる烏合の衆だ。兄達がどうしようもなく愚かで自分勝手で、私腹を肥やすことを好み、人間の命などなんとも思っていないからだ。
クシャナは一人正式な血を引く娘だが、母は毒殺されかけ発狂し、牢に投ぜられている。


クシャナがほかの兄達と違うのは?
兄達も父王も、彼女を亡き者にしようと虎視眈々と狙っているが、彼女はそんなことは百も承知で国から逃げることもせず、堂々と王女の冠を被っている。


彼女の持つ軍は、ほかの兄達のどの軍より強い。
何故なら、クシャナは兵士たちと「共に戦い」、兵士が殺されると「悲しむ」からだ。
もちろん、よよと泣き崩れたりはしない。兵を率いて行かねばならない。だが、本国から彼女の間者として遣わされるも次第に彼女に惹かれていく参謀クロトワが、兵士の死に際して彼女がちらりと見せる表情、態度に気づく。
「この女(ひと)、泣いてるのか?」
兵士たちは、なればこそ熱狂的にこの女指揮官を愛する。彼女のために命を懸ける。彼女が彼らを愛し敬い、彼らのために命を懸けていることを、兵士は分かるからだ。
彼女はまた非常に優れた戦略家でもある。だから、軍は最強である。
宮崎駿はこの女性に「大人の純粋な暴力」を備えさせている。それは後述する。


ぞくぞくする場面だ。
彼女が現れると兵士たちは歓喜し剣を捧げ持ち最敬礼する。クロトワはまずそれを見て「ドン引き」する。「クシャナが親父や兄貴たちに恐れられるワケだ。トルメキア軍の中で兵士にこれほど支持されている指揮官はひとりもいねえ」と。
そして地上戦で多くの兵が死んだ時、彼女は飛行艇から、自分の、結った長い金髪を短刀で惜しげもなくうなじから引き千切り、兵士たちに投げ与える。
「手向けだ受け取れ!」。そしておまえたちの仇は必ず取ると誓う。


また、地上で傷ついた部下たちと穴の中に閉じ込められ、人をも喰らう巨大な蟲や砲撃の世界の中で、瀕死の部下を抱いて、我知らず子守唄を歌ったりする。


そして、その源となるシーンは・・・私は、これをまったく描いていない映画をほとんど憎む。


クシャナは自分が失った兵士たちの雪辱を晴らすため、その敵である兄達に立ち向かう。その日、彼女は本国の城の地下牢を訪れる。独房には人形を抱いて歌いかける、狂った女・・・・・
「母上」
クシャナは声をかける。
クシャナの母は、人形を抱きしめて逆上する。
「私のクシャナを取りに来たのであろう!」
そう、本来毒殺されかけたのはクシャナで、母はその代わりに毒杯を飲んだのだ。
クシャナは静かに、告げる。
「あなたとあなたの娘を苦しめてきた毒蛇の牙をこれから砕きにまいります。
 どうか心安らかな日々を・・・・・」
そして深々と母に頭を下げる。
永遠の別れをしたクシャナは、母と失った兵士たちのために、戦いに出る。


この場面まで作れないのなら、最初からアニメなんて作ってほしくなかったね。


面白いのは、クシャナにとって大切なのはナウシカのように「世界そのものと人間をさえ超えた命」ではなく、ナウシカ同様利他ではあるが「自分の愛する人間たち」なのだ。
つまり、腐海や世界の終わりなどはクシャナにとってはけっこうどうでもいい問題だ。しかし殺された自分の兵士たちや愛する母、そして辱められた自らの誇りの為なら命などなんでもない。
世界が狭いと言えば狭い。ナウシカのようにマクロではない。
だが、その「狭い」世界は、楽園ではないだろうか。
あらかじめ失われた彼女の母と母子の安らぎと、愛するひとたちが誰も殺されないで笑う世界は。


実は、ナウシカのような天才の救世者は、世界にはそんなに必要がない。
いくら救世主が世界を救っても、そのあとに生きる人間たちは必ず、必ずその楽園を地獄に変えて住むようになるからだ。地球をまるごとホースで洗っても洗っても、人間が取れない限り、世界は清浄になどならない。決してだ。ナウシカは清浄な世界を夢見るが、それはやはり夢に過ぎない。


腐海の奥に、防毒マスクをしながら腐海の恵みによって細々と暮らす一族が、物語の後半で登場する。ナウシカはその主の穏やかな少年セルムと心通わせる。つまり、最終的には世捨て人になるしかない。LOVE&PEACE。ヒッピー。
セルムは代々そこで生きてきて、腐った世界がどう清くなるのかを教える。猛毒の森の底には猛毒の植物そのものが長い年月をかけて石と化して作った、清浄な世界がある。地獄の底に、天国が。


この発想は面白い。天国が天にではなく地の底に顕現するのは。
そして天国をつくれるのは、人間ではなく自然そのものでしかないという発想もおそらく少数意見だ。
そしてセルムと彼女の意見は、同じだ。何世代もかけて生まれたきれいな空気の世界は、秘密にしておかねばならないと。
地球をまるごとホースで洗っても洗っても・・・・・


だから、現実世界で人を想い、情けに生きて闘う王女クシャナのほうが、実際的だ。
彼女の「大人の暴力」は、自らを律し冷静でありながらも、ナウシカ同様純粋な深い悲しみを源泉に持つ。本当はどうしてもこころを殺すことができないのだ。愛するものと、自分のこころを。
彼女は戦略をもちい、「泣きながら殴る」純な若人のままだ。
永遠に若くいたい?なら、泣くがいい。悲しむがいい。あがくがいい。自他と闘い続けるがいい。ただし、苦しいよ。なんのために闘うかでその闘いの意味は違ってくるし、どの戦だろうとそれはあなたの責任だ。


人間は、地球の恩恵にあぐらをかくことはできても、地球を救うことなど絶対にできない、と私は思っている。人間は、人間の世界で生きるしかない。なるべく地球を傷つけないように気をつけながら。そして人間の世界には、クシャナが必要だ。


宮崎駿には、とても悪い癖がある。
時間をかけて解決すべきその物語をいつも、乱暴な大団円と説明で終わらせることだ。
『もののけ姫』しかり『崖の上のポニョ』しかり。
描写も心情もため息が出るほど美しいのに、それをもたせることができず、あえぎで終わらせてしまう。
それじゃ、駄目なセックスと一緒だ。
『ナウシカ』の物語の最後は、本を引き裂きたくなるほどひどい終わり方だ。
「その後世界のあちらはこうで、こちらはこうなりました、という説明文で終わる」。
馬鹿野郎。描けよ。ちょっと煙草取ってよ、下手な男。ビールも頂戴。ったくもう。


まあ、悲しい気持ちでその説明を読むと、こうだ。
ナウシカの行方は不明。地上に残ったとも、腐海のセルムの所に行ったとも言われる。
自滅した兄達、自滅した父王に国を譲られたクシャナは、その跡を継がず、王のいない国の礎を創った。


さあ、どっちが実際的か。
地球を救うか、人類を救うか。ハリウッドおなじみのテーマだ。
たいがいの人間は阿呆なので、何千年考えてもその答えがいまだに出ないらしい。
そして自然災害と「戦ったり」する。自然の一部と化すことが本来なのに、老いずに永遠に生きたがったり、財貨をやりとりするしかない世界を作って勝手に悲鳴をあげている。
地球のあるじは、地球そのものだ。何十億年もそうだった。これからも変わらない。


私の体は、少しずつ壊れ始めている。それはそうだ。老いてきたのだから。
視力が落ち、原因不明だがめまいで所かまわずひっくり返る。物もあまりたくさん食べられなくなってきた。
こわさもあるし、眼と手だけは神さま取らないで、文章を書かせて、あのひとを見て手を握ってほしいの、と泣きたくなるが、それも分からないし、以前私が掌編『小さなパーティ』で描いたように、どうであろうが私は世界に還っていくだけの話だ。


それまで、クシャナのように誇り高くあたたかく生ききることができればとは思うが、私の懐はとても小さい。自分一人さえもてあます。人を傷つけてもきた。
深く愛するひとはいても、とても少ない。
ただ、クシャナの誇り、その源のせつなさとかなしみは、分かる。
私の誇りと愛するひとびとを穢すものは、私はクシャナと同様、ただではおかない。
その戦意が私の誇りだ。愛と使命とこの誇りは、私の三種の神器だ。
人間として生きていられるあいだは。

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