【解決】私たちにとって、あの頃の椎名林檎とはなんだったのか。



椎名裕美子と聞いてすぐに誰かわかる・百道浜と室見川というだけで空港が頭に浮かぶ・「そば・うどん・スパゲッティ麺」と言われたら「もっとはやいものぐー」・虐待と聞けばグリコゲン・御起立と聞けばジャポン・ともさかりえと聞けば少女ロボット・カラオケで「東京は愛せど」と書いてあるのに意志を持って「アイシャドー」と歌う・筆文字を見ればリンスポ・注射器型のボールペンを大切に保管し・完全に風雲ディストーションに入っていた「あなた」・つまり、「私たち」にこそ読んでほしい、聞いてほしい私個人の出した答えを書きます。






椎名林檎は98年にデビューした。


中学校の教室で友達が口ずさんでいた歌があまりにも気になり、それは何かと聞いた曲が「歌舞伎町の女王」だった。そこから伝説のファーストアルバム「無罪モラトリアム」との出会いまでは一瞬だった。かさぶたがどんどん剥がれていき、こんなに剥がれても骨にたどり着く事はないのか!というくらいに剥がれても剥がれてもなお、何かを剥がしてくるような感覚だった。
いつもあたらしい。そしていつも私たちを新しくしてくれる。
それが椎名林檎だった。




私がはじめてラジオ番組にFAXを送ったのは1999年、14歳の時だった。
名古屋のラジオ番組に椎名林檎がゲスト出演をしているところ、
なんと、私が送ったFAXの内容が、椎名林檎の目の前で読み上げられたのだった。

その内容が


「林檎ちゃん 世界でいちばん大好きです」


なんというひねりも何もない一言。
それを聞いた椎名林檎は少し照れながら引きながら「ありがとうございます」と答え、私は発狂、それを録音したMDは私の生涯の宝だと思った。

「林檎ちゃん 世界でいちばん大好きです」


それは当時、紛れもなく心の底から本心だった。
あの頃の私たちにとって、椎名林檎(敬称略)とは【すべて】だった。
椎名林檎が自分たちの知るいちばん広い【世界】であり
その世界を牽引する頂点だった。


パクチーは他の何にも似ていない。そして「私パクチー好き」というと言った人はある種特殊なサブカルカテゴリーにジャンプできる。そんな「パクチー」より500億倍くらいヒエラルキー威力を持つ、椎名林檎。
それはもちろん矢井田瞳にも、宇多田ヒカルにさえもまったく奪われない不動すぎる完全なる頂点で、私たちは彼女の行動すべてに固唾をのみながら憧れた。さらに椎名林檎を愛する自分たちにも酔いしれた。


一方、椎名林檎ははじめから、本物の「音楽家」だった。
だけど私たちはただ【”椎名林檎”を偏愛する人間】でしかなかった。パクチーの料理人ではない。パクチーが好きなだけ。本場の独特なスパイスはわからない。それと同じ。
今だから思う。私たちは音楽的に完成されすぎた3枚目のアルバム「加爾基 精液 栗ノ花 」にまったく、音楽的に、ついていけなかった。
私たちは、椎名林檎の音楽を理解するには未熟すぎた。それがどんなスパイスやいい材料や調理法をされたものか、語り合う事はできなかった。
だけど彼女は潔く、そのアルバムを発表した。
それは、彼女がただ単に"椎名林檎"に憧れ続けるJポップ好きの私たちから、離れようとした決定的な行為にすら見えた。



そうして椎名林檎は「東京事変」を結成した。
【新宿系】を名乗っていた彼女にとっての「新宿」は、デビュー当時、間違いなく「JR新宿駅の東口を出たらそこがあたしの庭」と詠った【歌舞伎町】だった。だけど、東京事変のデビュー曲で彼女が詠った新宿は、「豪雨」な上に、もはや「新宿三丁目」。
【伊勢丹】の息があわさる衝突地点、「蝉の声をきく夏の歌舞伎町」ではなく、「突き刺す12月の伊勢丹」になっていた。




10代だった私たちも、就職をしたり結婚をしたりして、慌ただしくなった。




そのあいだ、椎名林檎は「東京事変の椎名林檎」として鮮やかに駆け抜けていた。彼女が先に進めば進むほど、私たちにとって"椎名林檎"は、どこか痛く懐かしく歯がゆく恥ずかしい、蓋をした思い出の人になっていった。


2008年になった。
椎名林檎がデビューして、10年が経っていた。
そんななか、私たちにとっても重大なイベント、
【林檎博 '08】が開かれたのだった。

なぜだか私たちはそのイベントを、特別に感じた。
開催告知を私たちは、私たち宛の手紙のように感じた。
私たちは満を持して、もう一度椎名林檎に、呼ばれた気がした。

呼び寄せられるように、久しぶりにチケットを買った。
さいたまスーパーアリーナ。11月の終わりだった。
しばらく椎名林檎から離れていた私たちの不安をよそに、
椎名林檎は完璧だった。実際に開かれた林檎博は、すばらしかった、

すばらしい事はたくさんあったはずだった。
だけど私には、そのコンサートの、
「はじめにおこった出来事」だけが、つよく記憶に残っている。


それは、コンサートがはじまる前のことだった。


注意事項を読み上げるアナウンスが流れた。
その瞬間、
会場にいる誰もが、え?と静かになった。

「え?」





そのアナウンスは、
子供の声だった。



そう、その声の主は、
椎名林檎の実の息子、もうそのとき既に7歳になっていた、
空遥(ソナタ)君のものだったのだ。




私は、泣いた。

なんだか自分が、とてつもなく大きな勘違いをしていて、でもその勘違いはもはやどうでもよくなるくらいに、泣いた。
椎名林檎は私たちの幻想の中で生きていたわけではない。あたり前のことだが、椎名林檎は、椎名裕美子として、ずっと、生きつづけていたのだった。
歌舞伎町の女王をだして、無罪でミリオンをだして、弥吉さんと結婚して妊娠して出産して休業して9.11があって赤ちゃんの世話をしながら9.11の飛行機がビルの間に突っ込んでいくニュース映像を見ながら赤ちゃんとふたりきりで号泣してどうしようもなくて「夢のあと」を書いてそのあともどんどん空遥くんは育っていき社会は変化しそしてこんなにも、どんどん変化するすべての中ではっきりと確実に、赤ちゃんだった彼はこんなにもどうどうと話せるくらいに大きくなって、7年が経っていて、椎名林檎は子育てをしていて、それから椎名林檎自身も育って、育つと同時に変化して、それの、何に、私は戸惑ったり残念がったり、東京事変を見て見ぬ振りしたりしていたのだろうか。椎名林檎は、人間で、椎名裕美子で、変わっていくし、それが悔しかったけど、なんだかものすごくずっと私たちの手の中の椎名林檎で居てほしかったんだけど、絶対的に愛しい声で話す空遥くんは本当に存在していて、命は強くつづいていて、それが、すべてだった。

私は、やっと気づけたのだった。
私が好きだったのはあのときの幻想の"椎名林檎"だけではなくって、
椎名裕美子も含んでいたのかもしれない、すべてを含んだ椎名林檎を、心の底から好きで、憧れて、大好きだった、たったそれだけだったと、私は気づいたのだった。その翌年椎名林檎はたしかに、絶対3枚しか出さないと言っていたのにもかかわらず4枚目のアルバムを出したし、絶対ださないと言っていたベスト版すらだした。でもそんなことはもうどうでもいいことだった。すべては変化してすべては生きていて私はむしろ、いまも、椎名林檎が生きていること自体に感激していた。生きているからこそ変化しているのだ。パクチーを本当に大好きなみなさん、本当にごめんなさい。みなさんもパクチーをただ心の底から好きなだけですよね。無条件に、愛するものは存在して、そしてそれの、なんたる強いことか!





だから一周まわって、言いたい。
あの頃の椎名林檎とは、そして今の椎名林檎とは、なんだったのか、
なんなのか。それは、まさに、まさか、あのときの、
一文が、まさに真実だったのだ。




林檎ちゃん、世界でいちばん大好きです。


理由もないけどあなたの存在が大好き過ぎる。
それだけで、すべてなのだ。


林檎ちゃん、ありがとう。これからもどうか存在しててください。


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