爬虫類の眼とウサギの眼

6時間という長丁場。まんじりともせずにスクリーンに見入っていた。
こんな経験は初めてのことだ。

それでも息抜きがしたいとか、中座して帰ろうと思いもしなかったのは、この映画の不思議な魅力に魂ごと吸引されてしまったからだろう。

スリリングなカーチェイスがあるわけでもなく、こけおどしのアクションもなく、暴力もセックスもない。
それどころか、BGMすらほとんど流れないモノトーンの映像の中では、米国ボストンのベス・イスラエル病院内での「臨死」を迎えた患者の家族と医師との会話、医療倫理についての医師たちの議論…、そんな不毛とも思える時間が延々と流れるばかりなのだった…。

きのう、広島市映像文化ライブラリーで鑑賞した映画、フレデリック・ワイズマンの「臨死」はそんな作品だった。

「10分と着座していられない退屈な映画をつくれ」と請われれば間違いなくこうするだろう思われる“手法”で撮られ編集されたようなドキュメント映画が、なぜこれほどの説得力を持つのか。そして医師が医師の使命を否定するところまで迫れる執念はどこからくるのか、一応は表現者の末席にあるものとして考えさせられるところ少なくなかった。

「鳥の眼」と「虫の眼」と表現者の目線を喩えるが、ワイズマンのそれは「爬虫類の眼」というべきだろう。
とにかく執拗に追い、寄りつづける。そしてフィックスで、延々と同じ場面を撮りつづけるのだ。

しかし、その視線にはなぜか嫌悪感はない。
マスメディア特有の、無遠慮でうざったい執拗さではないのだ。

カメラマンの人間性もあるのだろうが、「撮る側の倫理観」ともいいたい節度が被写体との間の約束事として成立しているからだろう。

ワイズマンが「爬虫類の眼」でテーマに迫り対峙しているとして、さて、こちらは何の眼で対象を観察しているのだろうか…。

そんなことを考えていてひらめいたのが、「ウサギの眼」だった。(笑)

ときどき思い出したようにピョンピョンと対象に近寄っては、遠くから遠慮がちに観察する。
そしてムシャムシャ草を食むように分析し、自分なりの推理をして構成を組み立て書きあげる。そんなところがウサギっぽいと思ったからだ。

新刊の「ズムスタ、本日も満員御礼!」にしても、そんな感じで対象に迫っている。

シーズン前のチケット販売にあたって、5万人のファンがズムスタに殺到した「抽選券問題」。その騒動に駆りたてられるように「ウサギの眼」を見開いて、必要な素材をピョンピョンと拾い集めながらカープという球団を見つめなおして書きあげた作品だ。

この書は「衣笠祥雄はなぜ監督になれないのか?」から「マツダ商店(広島東洋カープ)はなぜ赤字にならないのか?」へと発展した「カープ提言本」の路線を継承した第3弾となる。

今にして思えば、これらみっつの作品はその時どきで「ウサギの眼」のポジションを変えていた。

「衣笠祥雄は〜」は、スタンドからカープのゲームを観戦するような視点から生まれた。
「マツダ商店〜」は、その視線をダッグアウトへとズームすることによって結実した。

そして今回の「ズムスタ〜」では、「ウサギの眼」はピョンピョンとダックアウトに入り込んで、そこから球団の事務所を覗き見るようにして書きあげたものだ。

ワイズマンの「臨死」と比較するのは僭越だが、セックスはさておき、カーチェイスもどきのスリリングな場面はある。危険な現場でアクションするような緊張感も読者は覚えることだろう。

200ページ余りだから、映画でいえば90分の作品といったところか。

「カープという球団に臨むに、こんな視点があったのか?」
読後にそんな驚きを覚えてもらえれば幸いだ。


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