勝守

麻布茗荷谷に住むくず屋の清兵衛、人呼んで正直清兵衛。
曲がったことが大嫌いで、曲がりくねった道を歩くのも嫌で悔し涙にくれたというほど...
そんな始まりの落語・井戸の茶碗の舞台になった場所を毎年のこの時期に巡る。
都営浅草線は泉岳寺駅を降りて、出口から坂道を登って泉岳寺へ。
赤穂藩三代藩主・浅野内匠頭長矩、仇討ちをした大石内蔵助良雄以下四十七人が眠る場所。
素通りするのは失礼だからと墓前に手を合わせて先を急ぐ。
隣の高輪中学・高校の間の細い道をすり抜けて行く。
道幅の広い通りに出たら、そこは細川藩下屋敷跡地。
仇討ち後に大石内蔵助ら16人がお預けになった場所であり、切腹という形で最期を迎えた場所。
当時の藩主・細川綱利は死後はそのままの状態で残して、客人に見せて説明していたという。
そんな所を巡った後に、覚林寺へ。
清兵衛さんが休憩場所に弁当を食べてた場所だ。
今でこそ、この周辺は『シロガネーゼ』たちが住んでる高級住宅街になってるが、江戸城からはそこそこ離れてるし、起伏もある。
ちょっと離れた静かな場所だったんだろうか。
そうはいうものの、大通りから外れると複雑で狭い路地が張り巡らされている。
『よくぞこんなところに家を、しかも駐車場まで...不便だとわかってまで家を建てたいんですか』と感心してしまう。
境内や天神坂は清正公大祭で露店が建ち並んで賑わっていた。
5月4日と5日だけに授けられるとされる、『勝守』(かちまもり)を求めて出かけるのが毎年の自分の中での恒例行事になっている。

はじめは、落語好きが高じて、落語の舞台になってる場所を巡ってみようと思い立ったのがきっかけ。
そして、井戸の茶碗って何ってことで調べてたら、たまたま畠山美術館で所蔵の井戸の茶碗を展示してるって話を知って出かけた。
その所蔵の茶碗の銘が『細川』ときてるのが興味深い。
行った日がちょうど例大祭と重なる。
『へぇ...どんなもんか見てみよう』と寄って勝守を知る。
熊本とは縁がゼロじゃない。
母方ではあるが、先祖を辿れば細川家に仕えていて、清正公の霊廟からもそうは遠くないところに家があったし、城からも歩いて行ける距離にある。
そんな我が家のことなぞ知ったことではない清正公さんも細川家のこともさておいて...
『あらゆる苦難に打ち勝てるように』という勝守を買い求めた。
掌に収まるし、財布などに入れて持ち歩いてもOKってこともあって。

『これを手にしたからといって....』って期待は何もしてなかった。
初めて手にしたときは、人生のどん底にいて、何をしても裏目に出る人生だった。
降ってわいた結婚話が略奪という形でオシャカになり、胃潰瘍やら何やらで入院したり。
行く先々で引くおみくじはことごとく凶か大凶という有様だった。
『もう俺は幸せにはなれないんだ...』とやさぐれていた。
その期間は10年に及んでいたから投げやりにもなっていた。
それがある日、『どうせ凶だろう?』っておみくじ引いたら大吉。
『どうせマグレだろう』って引き続けたら凶が出なくなった。
これだけでも御利益はあったし、自分には大きすぎた。
10年も続いたのがビタッと止まったのだから。
そこから不思議なもので、好転はおみくじだけじゃなくなっていった。
『一年経ったら古くなった勝守を返して新しいのを』って言われたら、そりゃそうするに決まってる。
効き目云々って話は知ったことじゃないが、自分ではどうしようにも出来ずに困っていたことが解決されてる以上は、ありがたい以外の何物でもない。
実際に何かの用事とかが重なって行けなかった年があって、その時はよろしくないことがちょいちょいあったのは確かだった。
そんなこともあって、『万難を排して』出かけるようになった。
今年はうっかり忘れそうになったが、何とか行けて求めることが出来て一安心。
せっかくだからと来た道を戻って上野へと向かった。

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