見出し画像

スキマインタビュー :鶯じろ吉さん(後編)

50代で詞を書き始めた、
鶯じろ吉さんのインタビュー前編はこちらからどうぞ。

さて、鶯じろ吉さんインタビュー後編は、もう少しその詞の世界を覗き込んでいきたいと思います。と、その前に、ちょっと聞いておきたいことが…

ー気になってたんですけど、なぜ「鶯じろ吉」さんになったんですか?

辻征夫さんという詩人の詩集『鶯』が大好きで。ちょうど初めての詞を書いたとき、股旅者っぽいペンネームを考えたんだけど。その詩集の表題作「鶯」という詩に「次郎吉」という名前があったのを思い出して、迷わずいただいたの。そのあと表記を「じろ」ってひらがなにして。最初は1回かぎりの冗談ネームだったんだけど、そのうちみんなにじろ吉さんって呼ばれるようになっちゃった。でも辻さんの詩には今でもとても大きな影響を受けてる。

ー詞は、どういうときに書いてるんですか?

散歩とか、通勤電車とかでふと浮かぶっていうのがほとんどかなぁ。一気にバーッと浮かんで1曲分書いちゃうときもあるけど、だいたい2、3行くらいなにか浮かぶケースが多いかな。あくまで声に出して歌ってもらおうと思って書いているから、日本語のリズムに合うもの、音数が五七五とか、三とか七とか九とか。それを前後に増殖させているイメージ。長さも、物語ありきじゃないからほとんど長すぎることにもならない。言葉だけでの発想だからある程度お話も含まれているけど、聞く人によって違うお話になると一番いいなあ。そういうところは、ノヴァーリスの『断章』や足穂の『一千一秒物語』みたいに、散りばめられたエッセンスから聴く人がその人なりに解釈してもらえたらうれしい。

ーこちらで決めつけないで、聞いてる人や読んでる人に解釈してもらうことにこだわってるんですね。

これは吉上さんとも一致してるんだけど、オリジナリティなんてどうでもいいってよく言うのね。クラシックだってジャズだって昔からあるスタンダードナンバーとか古典の曲を今の人が自分の作品として演奏する。そこにオリジナリティがあるわけだと思うから。

例えば、細野晴臣さんの『Heavenly Music』。カバーアルバムなんだけど、聴けば聴くほどいい。ぼく、これが大好きで。カバーの仕方、手癖にこそ細野さんが現れてるんだよね。

あと高田渡の『日本に来た外国詩...』。これは、外国詩を日本語に翻訳したものにメロディをつけてカバーをしてる。ここに入ってる「すかんぽ」という曲の元の詩は、リンゲルナッツの「哀れな草」をぼくの恩師が翻訳した詩。

オリジナリティっていうのは、独自の詞を書いて独自の曲をつけました、ってのもそうなんだけど、それ以上に、すでにあるものを、あなたならどう歌うの?演奏するの?っていうのがすごく大事だと思う。

ー他にはどんな音楽を聴いてきたんですか?

高校時代の通学途中、よく近くにあった楽器とレコードの店で時間つぶししてたの。そこで初めてアメリカのジャズのレコードをジャケ買いした。そこからビッグバンド・ジャズ、フリースタイル・ジャズ、日本人のジャズに関心をもつようになった。

フリースタイルの日本人では山下洋輔を好きになって、ドイツのエンヤ・レーベルで出たライブ録音の『CLAY』にハマったな。

どしゃめしゃのフリージャズなんだけど、ピタッとしたキメが気持ちよくて。ある程度型があって、あとは自由。一方で丁寧なプレイをトリオで聴かせる盤もあってね。すでにある曲を自分達の深い解釈でプレイしてて、こういうことを同じ人がやるんだと尊敬した。

あと大学時代には、同級生の米屋の息子(笑)加藤くんから、詩人と同名の「ノヴァーリス」っていうドイツのロックバンドがいるよって教えてもらって。そこから「ファウスト」とか「カン」とか、ドイツのプログレとかもよく聴いてたなあ。

ー意外と日本の音楽というか、歌ものはあまり通ってきていないんですね?

そう。時代的に周りのセンスのいい人たちは、はっぴぃえんどとか山下達郎とか、YMOとか聴いていたんだけど。自分で多少聴いたのは、井上陽水とか小椋佳。歌詞がいいなって。あと、ユーミンとか加藤和彦とかも、天才かよ!って聴いて親しんではいたけど、レコード買うほどではなかった。

ここからは、実際の音楽とその詞について伺います。

ーアルバム一曲目の「ぼくが生きるに必要なもの」は、どういう歌ですか?

この言葉は、大学の恩師が翻訳したドイツ現代詩の表現から来ているんだけど。「生きるために」でも「生きるのに」でもない独特な響きが妙にひっかかってね。そこから凛とした、でも他人からみれば「つまらない」だろう自分の「決意」が響いてくる気がしたの。

5分で消えてしまう夕焼け
コバルトブルーの自転車
灼けた道路に降り出した雨
シャツに残った太陽の匂い
ぼくが生きるに必要なもの
それほど価値がなさそうなもの

(「ぼくが生きるに必要なもの」より抜粋)

ただ、だーっと、自分の好きなものを並べてるだけなんだけど、メロディが雄弁だからさ、すごくいい歌になったなと思うんだけど。これも出来上がってみれば、ジュリー・アンドリュースの「My Favorite Things」(サウンドオブミュージック)みたいなことだとも言えるよね。脈絡のないものをだーっと並べることで、その人となりというかその人の輪郭線、暮らしが浮き上がってくると思うんだけど。

ー「ほしどろぼう」という、初期の曲がとても好きなんですが。ほしどろぼうっていう発想はどこから?

真夜中にきれいな星空をひとりで見たときに、これは星を一個や二個盗んでもだれもわかんないなあと思ったんだよね。もったいないことに、いま誰もこのきれいなもの見てないし。それが、友人が終電で寝過ごしてしまって中央線の端っこまで行っちゃった、っていう話と結びついて。うちにかえる手段がなくなって、知らない街の小高い丘にとり残されたから今夜くらいは見逃してくれよ、っていう歌として書いたんだけど。

ーやはり物語性はありますよね。

解説すれば物語は必ず浮かび上がるかな。だけど歌詞である以上、なるべくひとつの解釈でお話を朗読するように、ストーリーが誰が聴いても同じだと思われないようにしたくて、聴いた人がそれぞれ自分のことに当てはめて受け取ってもらえたらいいと思ってる。この曲には特定の人称はないんだけど、「見逃してくれよ」と言っていたり、最初で「乗り過ごすきみを」、2番で「乗り過ごすぼくを」って言ったりする。でも、それがどういう人かまでは限定しないようにしてるんだよね。

—「ごはんの湯気で泣くかもしれない」もすごいタイトルですね。

この言葉は初め、タイトルとしてだけ思いついて、歌詞には入れてなかったの。自分でも気に入ったタイトルだけど、歌詞にするには強すぎるんじゃないかと思ってね。吉上さんは基本的にいつも、詞を変えずにそのまま曲をつけてくれるんだけど、この曲だけは唯一、このタイトルもすごくいいから、歌詞に入れたいって言われて。

ギュンター・アイヒという詩人の詩がふと心に浮かんでね。それは早朝、駅に向かう労働者がパン屋の前で焼きたてのパンの香りをかいだ時に、長年心にたまっていた何かが堰を切ったように溢れてしまうという詩の一節だったんだけど。気を許してすっかり油断していたところに感情が溢れる瞬間ってあるなっていうか。じゃあ、日本人ならパンじゃなくて炊きたてのごはんかなって。

今回お話を伺ってみて、

そうか、50代から詞を書き始めたからこそ、その蓄積から引っ張り出せる世界が無限大にあるのか。

今回そこに驚き、とても納得しました。

いまとても楽しそうに詞を書いているじろ吉さん。

じろ吉さんのつくった部品で、これから先何が生まれていくんでしょう?

吉上恭太さんは、西日暮里にある『古書ほうろう』というお店にて、「吉上恭太のサウダージな夜」というライブを隔月で行っています。

吉上&じろ吉コンビの世界に浸りに、ぜひ一度いらしてみては?

鶯じろ吉。1957年愛知県名古屋市生まれ。
吉上恭太さんに詞を提供し生まれた曲たちを集めた「ある日の続き」が2017年にリリースされた。
聞き手:絵はんこ作家「さくはんじょ」主宰のあまのさくや。誰かの「好き」からその人生を垣間見たい、表現したい。そういうものづくりをしています。

『スキ』をしていただくとあなたにおすすめのチェコをランダムにお知らせします。 サポートいただいたお金は、チェコ共和国ではんこの旅をするための貯金にあてさせていただきます。