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母を亡くす準備はいつだってできていない -『時をかける父と、母と』Vol.16

『時をかける父と、母と』ー 若年性認知症の父親と、がんになった母が逝くまでのエッセイを連載しています。

Vol.16 母を亡くす準備はいつだってできていない

検査結果を聞いてから5日後。外出先から帰ると、家にいた母が痛みを訴えていた。すぐに救急車を呼んだ。
救急隊員に状況説明をするが、経験のないことばかりで私はとにかく焦ってしまっていた。母は痛がりながらも意識ははっきりしていて、「保険証用意して」などと、どこか冷静だった。

母の病院は自宅から少し離れていたため、一度は緊急性を考慮して近所の病院で応急処置と検査を受けた。待ち時間は恐ろしく長く感じて落ち着かず、私は待合室でひとり、涙と震えが止まらなかった。それでも自分が今後予定していた仕事をキャンセルしたり、「母が死ぬかもしれない」現実にどこか淡々と対処していた。

そのときの私にできることは痛がる母のむくんだ足をさすり、冷たくなったつま先を温めることだけだった。結局主治医にかかるためいつもの病院まで移動するうち、聖美さんや兄弟などが続々と病院に駆けつけた。父を病院に連れてくることも困難でありながら、不幸中の幸いで偶然が重なり、結局家族全員が病院に集まることができた。

検査の結果、肝臓からの出血があるので、輸血と止血措置をする必要があると言われた。この措置をすると他の箇所から出血があったときに同じ処置ができないというリスクがあるが、これをしなければもっと大きなリスクにつながると説明され、緊急措置がとられることになる。

処置室に入る前、運ばれる母は私に、消え入るような声で、でもはっきりと言った。

「さいごは白のブラウスで」
葬式の死装束の話だ。

「百合はやめて」ともいった。
百合は匂いと、花が残って汚れる感じが嫌いだと昔から言っていた。

いつも身綺麗にして、かわいらしい母。そして人の目を気にする、こだわりの強い、母らしいメッセージだった。
「わかった。でもまだだからね」と母の頭を撫でた。
涙がなかなか止まらない。

処置室に入る母をみんなで見送って、待ち時間の間に私たちはおにぎりを食べた。こんなときでもお腹はすくし、私たちは食べなくてはならない。
思っていたよりも処置は早く済み、母が病室に戻ってきた。輸血をしたことで、顔色は少し良くなっていた。

病室に戻った母を置いて、家族みんなで先生の話を聞きにいく。
主治医は、「あ、旦那様ですか。はじめまして」といった。
そうか、はじめてだったか。といまさら気づく。

主治医の話は、急変のリスクはあること、悪化していること、年明けにはもっと弱っているかもしれない、という内容だった。衝撃的な事実でもなかったが、ついにこのときが来たか、という実感がぐっと湧き上がった夜だった。

ああ。母がいなくなったら、私は、たった一人になってしまう。もちろん兄弟や父も、親戚も友人も、いてくれることはわかっている。けれど私にとって母を亡くすことは、無条件に応援し、支え、助けてくれ、気にかけてくれる人がいなくなるということだった。

私は一人になるんだ。思いたくないのに、そうとしか思えなかった。

長い1日を経て家に帰ると、台所には、朝作った母の蕪の味噌汁があった。

FNS歌謡祭とホスピスと

それからの10日間は、本当に長いようで、あっという間だった。
私は仕事などできる状況になく、常に落ち着かず、とにかく母のことや、目の前にある日々のこと、父の介護のことしか考えられなかった。

入院するその朝まで、母は家事をしてくれていた。父の日常の世話も、デイサービスへの送り出しも。亡くなる10日前までそれをしてくれていたのだから、母にはまったく感服だ。もっと手伝えよという声がどこからか聞こえてくるけれど、自分の甘えも認めつつ私は言いたい。我が家のギリギリのバランスがあったのだと。それは母の役割を奪うことになりかねなかったし、それでいいよとどこかで言い聞かせなければ、私自身もやっていけない心情があった。

食欲がほとんどなくなっていた母の買い物リクエストは、「アイスの実買って来て」「ファンタグレープ買って来て」など、強い味のものと、冷たいものになっていた。近年母はアイスクリームをよく食べるようになった。後から知ったが、薬の副作用のせいなのかどうやらそういう患者は多いらしい。

母は、好きなアーティストが出演する『FNS歌謡祭』を、入院前からずっと楽しみにしていた。その放映日を、家族中がこんなにも待ちわびたことは後にも先にもないだろう。「FNS歌謡祭もあるんだからまだまだ頑張らなきゃね」という言い訳にもした。

痛みを抑えるために強い薬を服用している母は意識が朦朧とする時間も増えていた。お目当ての出演時に母が起きていられるように、放映日は弟が立ち会うことになった。その後私も慣れない操作で録画をDVDに焼き、翌日病室で見られるようにした。

抗がん剤治療を続けるか、緩和ケアにうつるのか。その判断の直前に急遽入院となった状況下で、私たちはまだホスピスの申し込みをしていなかった。

兄弟でホスピスを探すことに奔走するが、なかなかすぐには空きが出ない。数施設あたった末に、結局現在入院している病院に併設するホスピスが一番早く入れそうだというので、手続きをする。入院から約1週間、ようやくホスピスに移れることが決まった。

FNS歌謡祭も見られたし、さあ今度の月曜日からはホスピスに移れるね、と少し安心していた土曜日に、母は逝ってしまったのだ。

『時をかける父と、母と』バックナンバー
Vol.1 はじめに
Vol.2 私が笑えるために書いた
Vol.3 かつての父はアメリカ人
Vol.4 60歳でアメリカ一人暮らし
Vol.5 認知症ではありません?
Vol.6 やっぱり認知症でした
Vol.7 ここはどこ、私はだれ?
Vol.8 「旦那を介護している」と思えない母
Vol.9 母の入院とがんの発覚
Vol.10 思いを形にできなくなった父
Vol.11 介護認定ってなんだ
Vol.12 デイサービスを利用し始めた
Vol.13 父の「進化」がめまぐるしい
Vol.14 母の病状が進行している
Vol.15 母のアドレナリン

あまのさくや
はんこと言葉で物語をつづる絵はんこ作家。はんこ・版画の制作のほか、エッセイ・インタビューの執筆など、「深掘りする&彫る」ことが好き。チェコ親善アンバサダー2019としても活動中。http://amanosakuya.com/
2019/06/17-23 『小書店- はんこと物語のある書店-』@恵比寿・山小屋


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