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コンビニでいつもお箸の数を聞いてくる店員がいる・上

【初恋】と言う言葉がある。

辞書やネットで検索してみると「その人にとって最初の恋の意」とか「生まれて初めての恋」とか出てくる。

私にとってのそれは、初恋と呼ぶにはあまりにもくすんでいて。遅くて。不確実で。不安定で。あまりにも不自然なものだった。

でも、それでもあれは間違いなく初恋で。私にとって大事な恋で。誰にも言ってないけれど。私とあの人しか知らない、恋と呼んで良いのかすらわからない、それくらい小さなものだったけれど。

それでも確かに、あれは私にとっての初恋だった。

………

あー、うざい。なんなんだあのハゲオヤジ。ハゲオヤジなんていうありふれた生ぬるい言葉じゃ足りないな。なんというか、もっとこう。グチャグチャってなってて、臭くて、人として風上にもおけない。いかにもTwitterでクソ上司だと叩かれそうな。見習いたくない大人ランキング5位くらいの。そんな表現はないのか。

あいつほんとにムカつく。私のミスじゃないのに。じゃあ誰のミスなんだって言われたらそれも微妙だけど。あれはもう誰かのせいとかじゃないじゃん。どうしようもないわけで。それなのにあいつ、まじでなんなんだ。誰かを怒らなきゃっていう使命感でもあるのかクソが。

どうするんだ、とか言われても知るかよ。私のせいじゃないもん。しかもどうしようもないもん。あんたがあれの対処法わかんないから八つ当たりがてら私に聞いてんだろ。知らねぇよそんなの。勝手に困っとけよ。せめて普通に対処頼まれたら私だってなんとかしようとかいう気だってあったよ。だけどあんな風に上から目線で…上司だから当たり前っちゃ当たり前だけど、でも、私に非があるから私がなんとかしろみたいな言い方。

あーー、でも普通に頼まれてたとしてもやりたくはないな。うん。あれだってどう考えても面倒臭いもんな。

うわぁ明日からあれの対処しなきゃいけないのかよ。くそ。

もういいや、お酒飲んで寝よ…

「っしゃいませー」

いつも通り店員の微妙にやる気のない声が私を迎えてくれる。これくらい無関心な方が気が楽でいい。レジを見ると、やはりいつも通り茶髪の若い女の人がこちらを横目で見ていた。私もこれまたいつも通り、その店員さんを横目で見ていつものお酒コーナーへいつも通り歩いていく。

今日は何にしようかな…ググッといきたいからやっぱビールかな。シンプルに。ラベルは何にしようか。銀もいいけど星もいいな。おっさんはあのくそハゲ思い出しちゃうからやめとこ。今日は銀かなぁ。つまみはどうしようか。たこわさは昨日食べたしな。あ、そういえば新商品で出てた豚トロ食べてみたいんだよね。毎回他の誘惑に負けてるけど。今日はいける。あーーーーーでもチキン南蛮もしばらく買ってないなぁ。いやでも今日は豚トロって決めたんだ。また負けるわけにはいかない。いやでもなぁ…

「チキン南蛮のほう、温めになりますか?」

「あ、はい。お願いします」

「お箸はいくつお付けしましょうか」

「一つで」

「有料となりますがレジ袋にお入れしますか?」

「あーーー、は、い。お願いします」

コンビニ店員ってつくづく大変だよな。毎回いくつも質問しなきゃいけないし。レジ袋とか、有料になったんだから客の方から自分で必要だったら言えばいいと思う。でもそれだと今日みたいな時に頼み忘れてあっつあつのチキン南蛮を手で持って帰らなきゃいけなくなるのか。それは困る。ごめん全国の店員さん。やっぱ毎回聞いてくれ。私のような人たちを救ってくれ。

でもお箸の数は聞かなくても良くないか。毎晩ヨレヨレの女が1人で酒とつまみだけ買ってくんだから。どう考えても家帰っても1人だろ。マニュアルとかあるのかな。だとしたら仕方ないことなのかな。だったらお姉さんごめん。でも毎回ちょっと虚しくなるからできればそろそろ何も聞かずにそっと一膳だけ入れてほしい。あ、でもそれはそれでちょっと傷つくな。ある日突然数聞かれなくなったら。ごめんお姉さん、やっぱこれからも聞いてくれ。そっちの方がマシかも。

「お姉さん、大丈夫ですか?」

「………へ?」

IQ3くらいの間抜けな声が出た。顔を上げるとなんでもなさそうな顔をしてこっちを見てくるいつもの店員がいた。

「あぁいや、いつもだいたいこの時間にいらっしゃるので覚えてて。一方的になんですけど。その、なんかお姉さん今日暗いなって思っちゃいまして。」

「え、あ、そうですかね」

「すみません。変なこと聞いちゃって」

バツが悪いのか、さっきまで普通の顔だったのに急によそよそしく、誤魔化すように笑った。

「いえ、全然。」

一瞬、ほんの一瞬。沈黙があった。人との会話の中ではありふれた沈黙。どこにでもあるような。でもコンビニの店員さんとの会話としては明らかに不自然な。そんな沈黙が一瞬だけ流れた。

「仕事で、怒られちゃいまして」

気づくと声が出ていた。

文章的表現で、“気づけば〇〇していた”なんてのはありふれたものだけれども。なるほど、こういう感じなのか、と思った。なんで急に話をしようとしたのかわからない。あくまでも自分とこの人は客と店員で。しかもコンビニなんて関係性が薄いにもほどがある。でも、どうしてかわからないけど、この人に聞いてほしいと思った。コンビニには私たち以外は誰もいなかった。

店員と客というこの距離感だからこそ。コンビニという、いつ誰が入ってきてもおかしくない、今しかない2人だけの空間だからこそ。言いたくなってしまった。

「私のミスじゃないんです。じゃあ誰のって言われたらそれはそれで困るんですけど。なんか、仕方ないことだったのに。私1人悪者にされて怒られて。誰も助けてくれなくて。ただ“はい、すみませんでした”って繰り返すしか出来なくて。」

店員さんは黙って聞いてくれていた。黙って聞いてくれたから、口が少しだけ。いつもよりほんの少しだけ緩くなった。

「こんなの、今に始まったことじゃないんですよ。いつもいつも。聞き流せばいいって。そんなのはわかってるんです。でももう…。私、なんで生きているのか分からなくなっちゃって…」

また沈黙が続いた。やらかしたと思った。こんな話を客にされたところで、なんで答えろというのだ。店員さんが困っているだろうことが容易に想像できた。

「あ、あの。やっぱりなんでも、」

会話を切って帰ろうと思った。羞恥心と、罪悪感と悔悟の情と。いろんなものが入り混じって、この場から早く消えたい。そう思った。そのとき、店員が口を開いた。

「うまく言えませんが」

私はその先を聞くことができなかった。コンビニの扉が開き、他のお客さんが入ってきたことを知らせる音に私たちの世界は穢された。

ちょうどいいと思った。続きは聞けなかったけれど、それよりも早くこの場から消えたいという気持ちが勝った。

「すみませんでした。変なことを言ってしまって。では。」

「わ、私!」

もうすでに壊され始めていた、穢され始めていた私たちの世界に手を伸ばすように。せめての爪痕を残すように、彼女の声が店に響いた。

「私のシフト、あと1時間なんです。その…そしたらそのあと、うちに来ませんか…?」

上・終

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