純丘曜彰の物語学ノート

大阪芸術大学哲学教授。美術博士(東京藝術大学、美学)、文学修士(東京大学、哲学)。東京…

純丘曜彰の物語学ノート

大阪芸術大学哲学教授。美術博士(東京藝術大学、美学)、文学修士(東京大学、哲学)。東京生まれ。専門分野は、哲学、メディア文化論。

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2.3. トーンジャンル

2.3.1. トーンジャンルと観客のオネイラ 観客は、彼らの心が物語世界と共鳴しているときにのみ、ストリオパシーを示す。たしかに観客はトピックジャンルに知的に興味を持っているが、トピックは、結局、他の人の問題であり、彼らの関心は好奇心にすぎない。しかし、物語世界のムードが観客の気持に合うと、観客は好んでそれに没頭するだろう。 その物語世界のムードの種類が、トーンジャンルである。  これは、観客が自分を特定のキャラクターに直接投影することや、観客が実際に置かれている状況を客観

    • 2.2 トピックジャンルとオーサージャンル

      2.2.1. トピックと物語世界 物語世界は、物語がテーマについて話し合うのに十分な大きさの整合的な大エピソードである。ミュトスは、さまざまなキャラクターのミストリアとそのエピソードが複雑な因果関係を織り交ぜている壮大なジャングルである。人類の歴史と想像力の知識の遺産全体として、それは大きな糸の玉のように絡み合っている。それは多くの重複、矛盾、そして曖昧さを含むが、エピソードのない空白の暗海もある。  エピソードが密集している部分がトピックである。ただし、トピックにも矛盾や

      • 2.1. 観客の想定

        2.1.1. 神話から物語世界へ オネイラは、人間の共通動機の領域である。オネイラのさまざまな動きを担う独立した整合的存在として、我々は複数のキャラクターを措定する。しかし、彼ら自身のミストリア9に従って、これらはまた、世界や他のキャラクターに新しい動きをもたらす。彼らの対為10は、双方が意図していなかった第三の動きになる。これらの連続した出来事は、エピソードと呼ばれる。  こうして、我々は内的なオネイラから自律的なミュトスを作る。それはまだオネイラと同じたぐいの精神的な世

        • 2.0. はじめに

           物語世界1は、感性的な物語創造と悟性的なテーマ思考2へ橋渡しする形式である。夢や幻想は、現実を越える想像をもたらすが、テーマを考察する思考実験として物語は合理性を必要とする。そこで、個々の物語のために、特別な公理系、スコラ学の小さなウヌス・ムンドゥス3、ライプニッツ・ヴォルフ学派やバウムガルテンの一時的な疑似理性4が立てられる。それが、物語世界である。  ナラトロジーは、構造主義から発し、書かれた物語の文章、さらには映画の映像を、意味文節単位として考察する。それは、ソシュ

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        • 映画ストリオティクス
          8本
        • 映画解説
          5本

        記事

          物語世界:映画ストリオティクス(3)

          概 要  語り要手と観客の間での物語テーマの議論には、ミュトスの一部、つまりトピックしか必要ではない。しかし、トピックではメストリアやエピソードが複雑に絡み合っており、矛盾や脱落(暗海)を含むため、線形の語りにそのまま用いることができない。それゆえ、語り手は、事前に、彼らの語りのターゲットとなる観客の興味と好みを予測し、その観客に適した有限で整合的な物語世界を確立しなければならない。  物語世界は、必要充分な最小のものに絞り込まれる。このために

          物語世界:映画ストリオティクス(3)

          ​闇の奥での暮らし方

          コンラッドの『闇の奥』 『闇の奥』(1902)、その名前くらいは聞いたことがあるだろう。コッポラの『地獄の黙示録』、最近ではSFの『アド・アストラ』の元ネタとして有名だ。しかし、その元の小説そのものとなると、まさに闇の中。たとえ読んでも筋すらわからず、途中で放り出したという人もすくなくないだろう。  そもそもタイトルが問題だ。日本では『闇の奥』で定着しているが、原題は、『Heart of Darkness』、闇の心臓だ。アフリカの中央部、コンゴの密林の奥地、そこに闇の心臓が

          ​闇の奥での暮らし方

          バウムガルテン『美学』とは何か:イメージの論理学

          /〈理性〉は、万人万物に共通であり、理神論として、マクロコスモスである世界をも統一支配している。しかし、その大半は深い闇の向こうにあって、人間の知性の及ぶところではない。だが、人が、徳として、どんなイメージをも取り込む偉大な精神、感識的地平をみずから持とうとするならば、その総体、イメージ世界は、神の壮大な摂理をも予感する、理性の似姿、〈疑似理性(analogon rationis)〉となる。/ はじめに バウムガルテン。《美学》の嚆矢として、どの教科書にもかならずその名が載

          バウムガルテン『美学』とは何か:イメージの論理学

          本格ミステリの定義と作家秘密結社

          /ミステリは、もともと神話っぽい怪異譚。ところが、20世紀になるころ、スマートな「知恵落とし」の本格的な「デテクション(探偵小説)」が登場してきた。しかし、それは、ほんとうにきちんと解けるか、出版前にプロの同業者の査読を必要とし、そのために、著名な作家たちによって秘密結社が作られた。/  ドキュメンタリーがドキュメントっぽい話であるように、ミステリは、もともとmythっぽい、つまり、神話っぽい話。かなり広範なジャンルで、なにが「本格」なのか、など、決まるわけがない。最後まで

          本格ミステリの定義と作家秘密結社

          ファンタジーと地平融合

           『果てしない物語』とは、この現実のことだ。あのアウリンのごとく、始まりは終わりであり、終わりは始まりであり、幻想は現実であり、現実は幻想である。  それにしても、ファンタジー好きでもないファンタジー関係者には困ったものだ。剣があって、ドラゴンが出てきて、姫を救えばファンタジーだと思っていやがる。形式主義のプロップとか、ハリウッドのエグゼックとかなんて、その最たるものだ。そして、多くの物語が、ハッピーエンドなどというダークサイドに落ちて行く。  重要なのは、ファンタジーは

          ファンタジーと地平融合

          ハードボイルドとオフビート

           オフビートという言い方は、オンビートがあってこそのものだ。2拍目4拍目などと書いてある説明があるが、それは誤り。拍に乗っているならオンビートに決まっている。だいいち、1拍3拍の強と2拍4拍の強の違いだったら、全体がずれるだけ、ないし、メロディーがアウフタクトになるだけで、違いは生じない。  ところが、実際のオンビートとオフビートは、メロディなしでも、耳で容易に区別できる。というのも、ロックやタンゴがオンビートよりさらに前にのめるアップビート(ヒッカケ)系であるのに対し、ジ

          ハードボイルドとオフビート

          オストラニェーニエとヴォルター・ザラーテ

           日本で高尚な文学として評価が高いのは、じつのところ、それらしいものだ。まあ、芸大の油彩を受けるなら、芸大っぽいパレットナイフのタッチがいいだろうし、師範大なら、師範大っぽい汚泥色の方がウケがいい。同様に、文学者として認められるには、いかにも文学者っぽい作品を書ける、ということが重要なようだ。  しかし、この、日本の文学っぽい、というのは、世界の中では、かなりズレている。にもかかわらず、それが、日本の文学っぽい、と思われて、ウケている。しかし、その日本の文学っぽさは、日本ら

          オストラニェーニエとヴォルター・ザラーテ

          アンリライアブル・ナレーター(当てにならない語り手)

           探偵が犯人ではない、というのは、デテクション(謎解き)とは関係のないスタイル(話体)的なドグマだ。そして、実際、探偵がじつは犯人であるデテクションは存在し、デテクションとして成立している。  第一は、ナレーターが探偵本人ではない場合(たとえばワトソンのような探偵の相棒である場合)、探偵が犯人でありうる。相棒ですら知らない秘密を抱えながら捜査している、というわけだ。  第二は、第一ともかぶるが、探偵自身が、自分が犯人であったことを自覚していない場合。『エンゼルハート』がそ

          アンリライアブル・ナレーター(当てにならない語り手)

          カントの美的判断力

           我々の通常の判断力というのは、それが何であるか、ないし、何がそれであるか、を判断する。ああ、あれは犬だ、とか、6ミリのネジはこれだ、とか。あれは反則だ、とか、正しい対応はこれだ、なんていう実践的なものも、ここに含まれている。こういうのを、規定的判断力と言う。  ところが、犬なのは重々わかっているところで、どれくらい犬らしいか、が、問題になることがある。たとえば、犬のコンテストのような場合。しかし、ここでは、まず、犬らしさとはなにか、を、よく思い出してみながらでなければ、ど

          カントの美的判断力

          クリスチャン・メッツとマクルーハン

           メッツというと、バルトらとともに、映画における構造主義者の典型のひとりであるかのように思われている。しかし、メッツ自身は、その当初から、ソシュール的な一般言語学から生まれた構造主義というものと映画の不適合と感じ取っていた。  それは、すなわち、一般言語学の線形要請だ。実際に映画を言語として処理しようとすると、いきなり大きな問題に直面する。同時性だ。つまり、一つの画面、一つのシーンに、複数のものが同時に出てきてしまう。  エイゼンシュテインなどは、言語文法の方に映像文法を

          クリスチャン・メッツとマクルーハン

          アリストテレスの幸福論

           幸福論と言えば、まずアリストテレスだろう。彼の世界観は、手段目的論ないし原因結果論の連鎖体系であり、彼は、我々の日常の意志と行動のほとんどが手段的、すなわちそれを原因として結果するところが別に目的的になっている、と言う。そして、その目的的な意志や行動もまた、さらなる上位の目的的な意志や行動の手段的なものにすぎない。  ここで、例の彼独特の論理的飛躍だ。こうして、手段的なものがあるなら、その手段的な意志や行動の究極のところに、究極の目的、目的とはなるが、もはや手段とはならな

          アリストテレスの幸福論

          コスモファージ

           宇宙喰い、のことだ。だが、SFの話ではない。ソンタグ(ゾンターク)のサルトル批評として出てくる。  サルトルは、ジュネという最低の俗物に執着した。サルトルに言わせれば、彼がまさに実存的だから、だそうだ。あれと思えば、これになり、これと思えば、それになる。次から次へとメタモルフォーゼを繰り広げ、とらえどころがない。そのとらえどころのなさをとらえようとしたのが、何の役にも立たない長大なサルトルの評論。  ソンタグは、これをコスモファージと呼んでいる。人肉喰い(アントロファー