フィルム写真と父

出来上がるまで1時間。私は近所の喫茶店で時間を潰していた。
フィルム写真を現像するまでの待ち時間は、私にとってこの上ない贅沢な時間でもある。


思い返してみれば、私の父はよく写真を撮る人だった。プロジェクターで撮った写真を家の白い壁に映し出し”家族の思い出鑑賞会”を開いたり、自宅の洗面所を占拠して自分で現像したりしていた。

「途中でぜったいあけちゃダメだからね。」

という鶴の恩返しでしか聞いたことのないであろうセリフみたいな約束付きで、何度も自作の暗室に入れてもらった。真っ暗な中にボウっと光る赤い電球も、あの薬液の独特なにおいも嫌いじゃなくて、蒸し暑い自宅の洗面所で、アイスを食べながら暗闇でゆらゆら動く父をなんとなく眺めていた。

父がフィルム写真を好んでいたからか、はたまた金銭的余裕がなかったのかは明らかではないが、我が家に”デジカメ”が導入されたのは世間からだいぶ遅れをとった後だった。

撮った写真がその場で確認できるなんて子供ながらに感動して、いろんなものを適当にボタンを押して取った。巻き上げる必要もないし、勝手に写真を撮ったって怒られない。画期的な代物だ。

でもデジカメが我が家に来てからは、”家族の思い出鑑賞会”をすることも、父が暗室に籠ることもなくなっていった。撮った写真はパソコンのハードディスクに埋もれたまま。いま思い返してみてもフィルムで撮った写真は思い出せるけれど、デジカメで撮った写真はあまり記憶にない。

この差はなんなのだろう。

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世の中って便利だ。

写真なんて撮ったらすぐに共有できる。いちいち現像した写真をアルバムに収めなくたって携帯がおしゃれにアレンジしてくれる。
かさばって保管する場所に困ることもない。
けれど私たちは便利さと引き換えにして、一枚の写真を誰かと一緒に眺める時間を日々失いつつあるのかもしれない。

今は自分のためにシャッターを切るけれど
いつか残しておきたいその一瞬のために
私は今日も喫茶店で時を待っている。

written by: すみれ

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