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京介と春乃 #2

腕の中で束になっていた何枚もの白い紙は、強風にのせられるとあっという間にふわっとほどけ、がらんとしたバスロータリーを騒やかに横切っていく。それを追う黒いダウンジャケットを着た男。すっかり当惑した表情を浮かべながら、すばやく腰を引いたり伸ばしたりしている。その所作に戯けたようすなど欠片も見当たらなかったが、走りながら拾おうと必死になるあまり、傍目から見ると訳のわからないことになっていた。きっと彼も訳がわからなかっただろう。そういった、いまその瞬間の混沌以外何も感じられなくなった状況において、ほとんど唯一助けになり得るのは外部からの無条件の愛であるわけだが、通りを行く誰ひとりとして、吹き飛ばされたチラシの回収を手伝おうとするものはいなかった。大半はそちらを見向きもしなかった。お急ぎ便で注文された宛名付きの郵便物みたいに、彼らはそれぞれの目的地を目指して、歩みを緩めることなく駅の改札をくぐっていった。

再び氷のような強風が吹きつけ、ぼくはジャケットの首元を右手でぎゅっと押さえる。もうそろそろ鼻が赤くなっているかもしれない。駅の時計を仰ぎ見ると、九時まであと一、二分といったところだった。雲に隠れていた太陽がふっと顔をのぞかせ、斜向かいの西友の赤い看板をすうっと照らしだした。道路脇の冷たい湧き水のような、どこまでも透明な朝日だった。

「京介さん」

声のした左側を振り返ると、ぼくと同じくらいの背丈の女の子が立っていた。前髪がはらはらと風に揺れている。見るからに暖かそうな胡桃色の分厚いコートを着ていたが、寒くてどうしようもないとでも言うように肩を小さくすくめていた。

「京介さんですよね」

「そうです、初めまして」

「お電話した春乃です。部屋まで私が案内しますので、行きましょう。ほんとうに住むかどうかはそれからということで」

くるりと向きを変えて駅の反対側へ歩き始めた彼女を、ぼくは慌てて引き止めた。思わず腕を引くと、春乃は弾かれたようにこちらを振り向き、ぼくの目を真正面から捉えた。ぼくは、すみません、と咄嗟に口にしたものの、彼女はその先を待っているようだった。ぼくは風にかき消されないよう、彼女のほうに顔を近づけて、声を張った。

「いきなり知らない人間を連れていって、大丈夫ですか。何か事前に確認しておかなければならないこととかないんでしょうか」

春乃は真剣に考えているようだった。そして、

「あなたが危険な人かどうかは、たぶん私のおばあちゃんとかが心配することだと思います。もしかすると私も気にしたほうがいいのかもしれないけれど、少なくともあなたが心配することではないと思う」

ぼくはそれについて真剣に考えた。そして、それも言えてる、と頷いた。


ーーー


「あと少しです。たぶん四、五分くらい」

春乃は歩くのがはやかった。ぼくは距離が開かないよう、彼女の背中を二歩後ろから足早に追いかけた。マフラーに巻き込まれた黒髪が、首の後ろでもったりとふくらんでいて、一歩進むごとに水風船みたいに揺れていた。水を飲んでいいかと尋ねると、春乃はもちろんです、と言って道路脇に立ち止まった。駅で初めて顔を合わせた十数分前よりも、いくらか緊張がほぐれているような印象を受けた。ぼくはリュックから未開封のペットボトルを取り出し、一息に半分くらい飲み干した。ふうっと息をつくと、目に薄く涙が滲んだ。

「春乃さんは、これから伺う部屋に長い間住んでいらっしゃるんですか」

「そんなに長い間生きているように見えますか」

春乃が間髪入れずに応えたので、ぼくは若干たじろいだ。

「いや、そういう意味ではなくて。すみません」

「いいんです。実際、七十六歳ですから」

春乃の表情は穏やかだった。そこには確かに、七十六年という歳月がもたらす比類ない柔らかさがあるように思えた。人間はこういうふうに老いを内在化することもできるのだ、と出処のよく分からない感慨にふけっていると、春乃が口を開いた。

「二十四歳ですよ。笑わないから、ほんとうに信じたのかと思っちゃった」

そして可笑しそうに笑った。ぼくも一緒になって笑ったが、実際のところかなり動揺していた。どうやら肝に命じておく必要があるらしい。人間は決して見た目では判断できないし、その口から語られる言葉によっても判断できない。しかし、彼女が七十六歳ではないことを知ったあとでも、先ほど感じとった独特の柔らかさは消えていなかった。心の奥のほうにそっとしまってある、小さくて温かい何か。人によっては、当人も気づかないうちにその在処を忘れてしまう何かが、彼女の中には確かに存在していた。陽光とともに瞳をかすめたそれは、少しするとぼくの見えないところに沈んでいった。その手ざわりを確かめるには、まだ早すぎるようだった。

「私もひと月くらい前から住み始めたばかりです」

横並びに再び歩き始めると、春乃が言った。彼女はぼくにペースを合わせることにしたみたいだった。

「おばあちゃんの兄弟が持っている部屋なんです。私はおばあちゃんと仲が良いから、お願いしてちょっと口を利いてもらって。だけどひとりで住むには広すぎるから、一緒に住む人を探すことにしました」

「連絡してきた人は、ぼく以外にいたんですか」

「京介さんだけです。チラシを一枚、化石標本みたいな掲示板に貼っただけですから」

「フェイスブックとか使わなかったんですか」と、ぼくはやや面食らって訊き返した。

「使っていません。私、ああいうのよく分からないので。そういうやり方よりも、もっと純粋な巡り合わせみたいなのを信じてみたかったんです。やるべきことをすべてやり尽くして、望んでいたものを手にいれるのが良しとはされているけれど、変わりゆくものをあるがまま受けとめるというのも、私は同じように尊重されるべきものだと思うんです。それがどこまでも受け身で、先の見えないものだったとしても、確かに生きているという点では同じなのですから。いかなる選択の良し悪しも、ある一地点からでは絶対に判断できない」

言葉選びに慎重になると、彼女の歩みは遅くなった。考えてきた人なんだろう、とぼくは思った。

「でも、巡り合わせを待っていたわりには、電話の応対は冷たかったですね」

冗談交じりにそう言うと、春乃は伏し目がちに、ごめんなさい、と呟いた。

「あのとき、ちょっと調子悪くて。気をつけます」

新築のアパートの二階奥に、その部屋はあった。実際に住むことになれば、それぞれが個室をひとつずつ持ち、それ以外のスペースを共同で使うようになるということだった。ふたりの部屋は物理的に離れていて、一方が何かしていてもそれがもう一方の睡眠を阻害したりするようなことはない。笹岡と住んでいたときは夜中に何度となく起こされたことがあっただけに、ぼくはほっと胸をなで下ろした。

「どうしますか」

ひと通り部屋の中を見回ったあと、春乃がぼくに尋ねた。あくまでそっけない調子だった。

「ここにします。もちろん、春乃さんがよければですけど」

すると彼女は言った。

「わかりました。それじゃ、まずおばあちゃんに連絡しますね」

春乃はポケットからケータイを取り出すと、こちらに背を向け、彼女の部屋のほうへ少しずつ遠ざかりながら電話をかけた。彼女の祖母は、もしかすると七十六歳なのかもしれない、とぼくは思った。


(続)


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