いつか消える灯台

◆2019年5月6日に開催された「第二十八回文学フリマ東京」にて、山ぱんださん(@otowanozakago)主宰のサークル「よるのさかな」(@sakanahayoruni)から刊行された文芸誌『クラクションは霧の中で』に寄稿した文章になります。テーマは「書き留めておかなければ忘れてしまうけど、忘れたくないから書き留めておくもの」です。
『クラクションは霧の中で』ではこの他、「彩色」「橙色を取り戻す」の2つのコラムを収録していただきました。ありがとうございました。

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◆「インスタに投稿した動画は24時間で消えるんだよ」 時代遅れの寵児だから、最近教えてもらうまでまったく知らなかった。
 いよいよ刹那主義の極みというか、思い出に固執しないJKの思いきりのよさにはまったく勝てる気がしない。ツイートで、できるだけ思い出を永く残そうとすることが人生の主な活動である私とは、ほとんど対極の存在のようだ。でもよく考えてみると、そこにそんな大差はないことに気づく。

◆残念ながら、人は忘れる。昨日の夕飯のメニューも、明日の待ち合わせ時刻も。つい、うっかりの範疇など悠々と飛び越えて、驚くほどに人は忘れる。辿ってきたはずの時間、留めたはずの記憶に突然ぽっかりと穴が空くのは、考えてみると怖いことだ。
必要以上にツイートするのはそうした恐怖に対する反動なのだろう。それでいざ対面での会話となると、それもこれも全部ツイッターで見たよと言われてしまうのがいつものオチ。でもその方がずっとマシ。あんなに笑えたことも、心底悲しんだことも、忘れてしまうよりはずっといい。その話聞くのもう三回目だよ~と笑われる方が、ずっといい。

◆「書き留めておかなければ忘れてしまうけど、忘れたくないから書き留めておくもの」
 言うなれば、日々ツイートすることの全てがこのテーマそのものだ。本当に忘れたくないことも、あまりにしょうもないことも。どうしたっていつかは頭から消えてしまうであろう一切合切を、小さく小さく、140字に収める。
 限られた字数の中では「その日何があったか」よりも「そのとき何を感じたか」を優先する。とても残念なことに、あとになって思いだせるのは「その日何があったか」ばかりだから。
 一連の出来事は高純度で、抱えきれないくらいの情報を持っていたはずなのに、記憶はやけに不鮮明で無声の映像として出力される。呼吸の仕方も忘れるくらい笑ったはずなのに、思い返すと何がそんなに笑えたのかさえも忘れてしまうことがしょっちゅうある。面白かったという事実だけが呼び起こされて、面白かったという実感は、記憶に置いてけぼりをくらう。

◆『日記を…つけはじめるといいかも知れない。この先誰があなたに何を言って…誰が何を言わなかったか。あなたが今…何を感じて何を感じないのか』
漫画「違国日記(ヤマシタトモコ/祥伝社)」の中で、事故で両親を亡くした少女・朝に対し、叔母の槙生は声をかける。日記なんてアサガオや夏休みのしかやったことがないという朝に、槙生はこう続ける。
『たとえ二度と開かなくても、いつか悲しくなったとき、それがあなたの灯台になる』

◆そういえば、中学時代利用していたSNSはサービスそのものが終了してしまった。灯りは唐突に消えた。インスタだってツイッターだって変わらない。24時間も何もなく、サービスが終われば全てが無に帰す「いつか消える灯台」だ。いつか悲痛にくれるそのときに、灯りをともしてくれているとは限らないのだ。
 不鮮明で、ときに捏造までされる記憶。それに取って代わる「過去の確証」となるだろうと呟き残した言葉たちも、いずれは闇に溶けていく。そんな儚い灯りにばかり縋って、しかし一向にペンを取ろうとしないのは、ただの面倒くさがりなのか。あるいは認めたくないけれど、本性が刹那主義なのかもしれない。

◆六年前の私を観測した。ツイートの文体や滲み出る高いテンションが恥ずかしくってたまらない。しかしそれもまた私だったものであり、それを追想できるのも「いつか消える灯台」あってこそだ。
 だから今日も恥を撒き散らす。いつか消えるというのは、ちょっとした安心感になるのか、恥のかき捨てにはいい動機になっているのかもしれない。

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