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僕らの自我と人間性への感情移入

月野美兎のプレイ動画でDetroit: Become Humanを見て考えるシリーズ。
(Detroit: Become Humanのネタバレ前提で書いてます)

Detroit: Become Humanとは

Detroit: Become Humanは2038年という近未来のデトロイトを舞台とする物語(アドベンチャー・ノベルゲーム)である。

2038年のデトロイトでは人間に極めて近しい高度知性と人間と全く変わらない外見のアンドロイドが開発され、アンドロイド産業の勃興によってかつての古びた街並みを刷新、先進都市として復活を遂げている。

この世界で登場するアンドロイドたちは人間の命令をそのまま自然言語処理して受け取る事ができ、複雑な命令も難なくこなす。
本当の人間と遜色ないどころか本当の人間よりも遥かに賢いような知的存在(知的生命ではない)だが、自らの頭にインストールされているプログラムに従って人間たちに絶対服従する奴隷である。

(作中、アンドロイドたちの表情は全て実在の役者の演技を元に作られている)

アンドロイドたちは奴隷としての自分たちの在り方に文句も言わずひたすら人間に従い続けているが、しかし社会ではアンドロイドの登場によって職を追われた失業者たちがアンドロイドに対する反対運動を繰り広げ、公然と人間たちに破壊されたり酷い目に遭わされるアンドロイドたちも現れている。
そんな中アンドロイドが人間を殺す事件が発生し始め…。

みたいな世界観で、プレイヤーは三人のアンドロイドを主人公として操って、物語がどう進んでいくか、アンドロイドたちと人間たちの対立の物語がどう進んでいくかを追体験することになる。

私の疑問:奴隷解放闘争は本当に起きるのか

みとちゃんのプレイ動画を見ていてずーっと考えていた事の一つに「ホントにこんな風になるか?」という疑念がある。

私が疑問を抱いた点は色々あるので幾つか書くけども、最も大きなものは「人間たちは自分たちと同じ外見を持つ者たちをここまで奴隷扱いするのだろうか」という事である。

割とわかりやすい話で、私の眼には先ず未来のデトロイトで繰り広げられる物語が奴隷解放闘争に見えたのである。

奴隷闘争と現代の人道主義

人間は肌の色や宗教の違いで、同じ人間を奴隷化して奴隷労働に充てるという事を既に何千年も続けてきた。
それは現代においてもブラック企業のような形で日本社会にも残っているし、例え法的に人権や人格が認められていたとしても、恐らく有形無形の奴隷的制度・奴隷的労働が世界中どこにでも存在し続けているのだろうと思う。

つまり、人間は人間同士ですら実質的には奴隷制から脱却することすらできていない。

だから人間と同等の高度知性を持ち、人間と同等の外見を持ったアンドロイドなんてものが現れたら、先ず第一に人間文明はアンドロイドたちを奴隷化するところから始めるだろうという事は何となく理解できる。

特に日本企業などは「人間と違って疲れないし不満も言わないけど、人間よりも高精度で正確な作業ができるアンドロイド」なんてもんが現れたら喜んであらゆる場所で酷使しまくるだろう。

ま、ある意味ではそれは当たり前の未来というか、当たり前の話である。人間は同じ人間を奴隷化し続けているが、もっと奴隷に適格な存在が現れればそちらを奴隷にして、これまで奴隷だった人間たちをポイと投げ捨てる。

それが失業者となり、社会におけるアンドロイドと失業者の戦いが始まって行く…なんてのも至極当然の話だ。

「ヒトガタ」への感情移入

だが私が疑問を持ったのは、Detroit: Become Humanにおける中盤以降、マーカスがアンドロイドの自由意思と権利を主張し、自分たちにも労働の対価を支払い人格権を認めてほしいと主張する場面以降である。

人間たちはマーカス率いる自我に目覚めたアンドロイドたちの主張を一切聞き入れず、片っ端から銃殺し、解体施設に送り込んで解体してしまう。
それこそかつてドイツがアウシュビッツを始めとする強制収容所で何百万人という単位でユダヤ人を大量殺戮したのと同様に、何万体ものアンドロイドを全米で大量解体するという方針に出るのだ。

私が疑問を持つのはまさにここである。こんな風になるか?

確かに最初の何年かは人類とアンドロイドたちの間での衝突というのは確実に起こる。
だがしかし、人類とアンドロイドの衝突なんてのはそれこそ何十年も前からあらゆる映画・SF・漫画・アニメに描かれてきた内容であり、それなりに想像力のある人間ならば人類と同じ高度知性を持つ存在がどんな風に目の前の現実を見つめているかなんてのは想像できる話であろうと思う。

多分人類は、自分たちと同じ外見を持つ存在が自我を主張し始めた場合、割と早い時期から段階的にゆっくりとその権利を承認してゆくのではないかと思っている。

それでも人間には「自分と同じような知性を持つ者がどう感じるか」という事を想像できるだけの思いやりは残っているだろうと思うからだ。
(最近のニュースに絡めて言えば、煽り運転しまくって高速道路の路上で車を停車して人を殴り倒すようなクソ野郎は本当に少数派なのだ、という事にも通じる)

(「メトロポリス」は傑作すぎてDetroit: Become Humanのプレイ動画を見ている最中にも何度も思い出した。最終的にメトロポリスの世界ではアンドロイドたちは人間たちと戦う道を選んだよね)

Detroit: Become Humanの中でもアンドロイドたちを大量解体する政策に反対意見を唱える人間が登場する。

「こんなのおかしいだろ!…だってあいつらは…少なくとも外見的には俺たち人間と全く同じなんだぞ!?」
…この言葉にこそ私は人間が人間たる真の意味が宿っていると感じた。

差別の文化的進歩

人間、或いは人間文明は、相手が違う民族・違う肌の色・違う宗教に属する存在だからと言って、それを大量虐殺したり奴隷化したりすればいいというような段階からは既に脱していると思う。

そこから脱出できたからこそ人間は肌の色や宗教でお互いを差別することを止め、マネーや権威といった別の尺度でお互いを差別することにしたのだ。

差別やら奴隷化やら、そういったものは今現在でも世界中あらゆる場所に残ってはいるものの、それでも人間は肌の色や宗教といったどうしようもない理由ではなく、マネーや権威といった「まだ挽回可能な尺度」で人間を差別することに進んだと言えるのだ。

どうでもいい中国語の部屋

アンドロイドが自我を持っていると幾ら主張したって、それは「中国語の部屋」問題を乗り越えられたものだとは言い難い。
参考:中国語の部屋

それが人間の意思と同じものなのか、それとも機械的にプログラムされたものが生み出した何かの幻影なのかは分からないし、恐らく区別する方法がかなり後の時代まで開発できない。

しかしだからこそ、そんな事はある意味どうでもいいと考えられるのだ。

だってそういう話を主張するとすれば、私たち人間の意識はそもそも中国語の部屋から外に出ているものなんだろうか?という疑問が解決できないじゃん。

私が今こうして、クソ暑い中エアコンもつけずにキーボードに向き合って文章を書いているこの意思、この行動意識は、果たして本当に私自身の「真なる意識」からやってきたものなんだろうか?もしかしたらそれは、私の脳細胞の神経ネットワークが創り出した幻影なのではないか?
…そんな風に疑う事はできるし、それこそ私自身であっても私自身の意識と自我の存在が完全であると断言することは難しい。

人間性の論証

私はアンドロイドではありません、私は完璧な意識を持っています!とどうやって論証したらいいのか?

もしその論証が正しいとすれば、例えば事故で気を失ったり、そのまま昏睡状態になってしまった人間はアンドロイドやその他機械たちと同じだと言えるのか?

ある意味ではそれは「人間性」という概念をどこからどこまでと定義するかの問題で、簡単な話ではない。

しかしその定義がどう在るべきかに関わらず、恐らく人間は目の前に自分たちと全く同じ人間的外見をした存在が現れたら、彼らにも人権を与えざるを得ないと思うのだ。

それが人間が文明を維持している限り持続させるであろう理性的想像力、或いは人情というものだと思う。

マーカスがアンドロイド闘争をおっぱじめるまでもなく、恐らくDetroit: Become Humanの世界から数年後にはアンドロイドにたいする部分的人権付与の議論は始まっただろうなと思うのだ。

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