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ハングリー精神と過酷競争環境

吉本が恵まれた環境になりすぎると「野望をもって行動するハングリーな奴が出てこなくなる」という松本人志発言について考えること。果たして本当にそうだろうか?と疑義を呈したい。

環境とハングリー精神

結論から言えば、恵まれた環境でもハングリー精神を持つ奴は出るというのが私の観察である。
更に言うと、貧困で厳しい環境だからハングリー精神が高まるかと言うとそれは微妙であるとも言いたい。

東大という最高学府の環境で人々を観察し続けた身として思う事は、貧困状態でハングリー精神を持つ者は恵まれた環境に行ってもハングリー精神を維持し続けるし、また逆に高い志やハングリー精神を持っていたとしても貧困圧力に打ち勝てず挫折してしまう人間も居るという厳然たる事実だ。

環境とハングリー精神の関係が松本人志の言う通り反比例の関係にあるとすれば、理屈の上では東大生は皆自分の得た知識に満足して何の努力もしなくなるし、何も考えずに生きて行こうとするようになるはずだ。
そしてその代わりにFラン大学のように下層の大学に行けば行くほど学生たちは野心に燃えていて、金持ちになりたい・起業したいとか言ってる奴が山ほど存在しているはずである。

でも実際にはどうか。
私は学歴としてより低い大学から東大大学院に移った人間なので、二つの大学のカルチャーを比較して考える事は沢山あるが、現実には結局東大の方が学生は野心に燃えていた。

前の大学では大体全員が「良い会社に就職して定年退職まで勤め上げて…」で終わっていたのに対して、東大では全体の1/3ぐらいの学生が「金持ちになりたい」とか「偉くなって社会に影響を与えたい」とか、それぞれ自分なりの形で何かしらのハングリー精神を持っていたように思われる。
結局のところ実際の観察結果として「より上位環境で学んでる連中の方が野心に燃えていた」のである。

才能と過酷環境

また、過酷環境に置かれる事が全ての才能にとってプラスであるとは限らない。
天才的な芸術の才能を持っていたにも関わらず貧困で芸術に触れる機会がなく一生を工場労働者として過ごした人も居るかもしれない。
(特に音楽系・芸術系大学は高所得層で占められている事が問題にもなっているじゃんか)

そういう例が恐らくこの世の中にはごまんと存在していて、才能らしい才能を開花させることも無く死んでいく人が大半である事を考えれば、新しい物事に触れる機会・触れる環境に恵まれている方が絶対に良い。

ハングリー精神不要な日本社会

そもそもそういう苛烈なハングリー精神そのものが現代の日本で望まれていないのではないかという仮説も成立すると思う。
「自分の実力で他の全員ぶっ倒してトップに登り詰めてやるぜ!」という意識を持てる場所が全然ないのだ。

学校教育の場でそんな事を意識できる場所があるだろうか?かけっこしても何しても全員優勝、全員一位だ!みたいな環境では、そもそも競争意識なんてものが育とう筈も無い。

競争者の精神

私の場合初めてその意識を持ったのは塾の実力テストでの成績ランキングだった。バリバリ真正面から

第一位 鈴木太郎
第二位 田中次郎
第三位 佐藤三郎

とか書かれて廊下に貼り出されているランキング表を見て、「いつか俺が一位取ったるわ」と思ったことは事実だし、またそこで初めて「自分よりも上に立つ人が居る」という意識を持った。

その後中学時代に入って一人一人独特の哲学と個性を持った天才たちに出会い、「私も彼らのような自分の個性で勝負する天才たちの仲間に入りたい」と思った事が私のハングリー精神の最初の端緒となっている。
(参考記事:「憧れ」)
天才集団の末席(第五席)にいた私はより上の四人に打ち勝つためどうすればいいかを日々考えていたし、また四人の上位天才たちも追い抜かされないためそれぞれの方法で努力を続けていた。

諦めと日本社会の閉塞感

私は恵まれていたのだ。
そういった機会に恵まれなければ私は最終的に「もっと上を目指したい」なんて事は思わなかった可能性が高いし、となれば東大に行く事も無く、転職活動を始める事も無く、閉塞感の漂う会社で閉塞感の漂う仕事を続けて閉塞感の漂う人生にため息をつきながら全てを諦めて生きて行ったのではないかとも思う。

日本社会全体としてこの「全てを諦めて生きる事」が正義と化している事に最大の危機感を覚える。
充実したプライベートを送る事は不可能だし、充実した仕事をする事も不可能だし、充実した家族生活を送る事も、充実した趣味を楽しむ事も、何もかもが不可能であると諦めて行く事が正義になれば、やがて生きる事そのものが悪となる。
そんな社会では死ぬ事の方がよっぽどか善になってしまうだろう。

過度なお客様至上主義と労働者の幸福

恐らく、吉本が単独で恵まれた環境になるかどうかとか、そういう話ではないのだ。
テレビ業界が徐々に活力を失っているのは吉本がダメだから・お笑いがダメだからというより、テレビ局にも他の番組制作会社にもハングリー精神をもって仕事しようとする奴が居なくなってしまったからであると思うし、それが何故かといえば業界の過酷な労働体制や低い賃金などむしろ「過酷な環境が人のハングリー精神を粉砕して奴隷化する」という現象が発生しているからではないかと思う。

火を見るより明らかに、過酷環境がハングリー精神を育むという発想が常に正しいわけではない。
業界全体・社会全体として「より幸福になりたい」という人間の意識を肯定するようなシステムが必要なのだと思うけど、残念ながら未だ多くの業界・企業では社員が仕事を通じて幸福になる事を肯定してはいない。

「お客様が幸福になるならば社員は死んでも良い」という極度のお客様至上主義が蔓延っている限りは、ハングリー精神なんてものはそもそも育たないのである。
だって「お客様のために全てが存在する」と規定づけられている以上、仕事で幸福になる事など元から許されないからだ。

お笑い芸人はお茶の間でテレビを見つめる視聴者のためなら死んでも良いのか?それでは先ず間違いなく優秀でセンスのある芸人から順に殺されて行く事になるだろう。何故なら、面白いからである。

お客様のために社員を殺す世界観

全く同様の事が多くの業界に成立すると思う。
優秀な人から順に使い潰して殺す事は現行の日本社会においては一定の正義である。何故ならそれがお客様のために最善のソリューションとなる場合が非常に多いから。
仕事のできない奴に仕事をさせて成長させるよりも、仕事ができる人間に全ての仕事を集中させる方がお客様満足度が高まるのである。

これは資本主義というシステムの一定の真理であると同時に、ハマったら厄介な落とし穴でもある。ハングリー精神とかいう美辞麗句の下に人材搾取を行う事が正当化されてしまうのだ。

今や完全にブラック企業の代名詞みたいになってしまったワタミの渡邉美樹氏は、「やりがい」や「お客様の笑顔」のためなら死んでも良いという覚悟で仕事する事が重要…みたいな事をかつて説いていたが、それでこれからの時代、本当に生きて行けるのか?と問いたい。

クリエイティブな仕事の価値がどんどん上がってゆく一方で、誰にでもできる仕事の価値はどんどん低下してゆく。やりがいやらハングリー精神やら、そんなものだけでクリエイティブな才能を育成する事ができるだろうか?

無理じゃないか?

お笑いってその意味では、自分なりの方法でお客さんを笑わせれば正義なわけで、クリエイティブの権化みたいな仕事だと思う。そういう才能たちを過酷環境で本当に育成できるのだろうか?

普段私は割と松本人志は好きだけど、この言葉は日本全体に蔓延る病巣の根深さを示すものであると思うのだ。

ハングリー精神やら「やりがい」のような美辞麗句の下に人材を搾取する体制が続けば、やがては日本の産業全体、社会全体が完全に活力を失ってしまうだろう。

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