「どちらさまですか?」

「老人ホーム」に知り合いを訪れたのは初めての経験だった。

受付で訪問相手の名前を告げ、訪問者名簿に自分の名前を書くと、施設職員が、「越岡さん(仮名)なら、今、レクリエーション室でみんなでカラオケをやってますよ。あ、今ちょうど歌ってるんじゃないかな。」と教えてくれた。元気のいい楽しそうな歌声が聴こえてくる。受付のすぐそばにあるその部屋に入ると、越岡さんがマイクを握っていた。

「具合いはどうなんだろう?」と不安でいっぱいだった僕は、元気な様子にとりあえずほっとした。彼の入所を知らせるハガキがお姉さんから届いたのは半年ほど前。どういう様子か気になりながらも、訪れる勇気がわかなくて、なかなか足を運べなかった。最後にお会いしたのは、1年半ほど前だったが、見た目も雰囲気もそのときと全く変わらなかった。身につけているものも変わらずおしゃれだった。

ほかに5−6人、カラオケを囲んでいたが、歌っているのは越岡さんだけ。職員の方が、時折、他の入所者に声をかけたりしているが、反応のある人は一人だけ。皆、カラオケ映像が流れるテレビを一緒に囲んでただぼんやりと彼の歌を聞いていた。

一方、越岡さんは、70年代から80年代の歌謡曲を次々と歌われて、ほんとうにお上手だった。ゲイバーに行かれていた頃、よく歌われていたんだろうな、と思った。

僕は、いつどのタイミングで、なんと声をかけたらいいんだろうとずっと迷っていた。少し離れた後ろに座って、その様子を眺めながら。いろいろ思い出していた。


彼は、僕にとって文字通りの恩人だ。この人がいなければ博士論文を完成させられなかったという恩人が何人もいるけれど、彼はまさしくその一人だ。彼とは、「東京レズビアン&ゲイ・パレード2001」を沿道から応援する「沿道応援隊」で知り合った。当時、彼は、60代前半だった。

知り合ってしばらくして、私がやっていたゲイのライフヒストリーの聞き取りに答えてもらったりもした。その中でうかがった、昔付き合っていた恋人が脳梗塞で倒れたあと、彼が経験した話は、とても切ないもので、同性カップルが置かれている社会状況の厳しさを痛感した(この話はまたあらためて書きたい)。


私が出会った頃、彼はお母さんと長らく二人暮らしを続けており、認知症になった彼女の介護を20年近く、ほとんどひとりで続けていた。

「自分は結婚もしていないし、これが自分の役目と思っているから」

「大変ですね」という僕の言葉に、彼はそう言い、そのことに愚痴や不満を一言もこぼさなかった。

介護のため、外出も容易ではなかったが、彼と何度か新宿でお会いした。彼は、お茶をしたり食事をしたりしたときに、絶対に僕に代金を払わせようとしなかった。インタビューのときに持参した菓子折りや、お土産で買ってきたお菓子でさえ「ご自身で召し上がってください」と決して受け取らなかった。それは、僕が大学院生で、大学の非常勤講師として勤めてはいても、経済的に厳しいことを知っていたからだ。

彼と出会ってから、数年が過ぎた頃、僕の経済事情はますます逼迫し、また、いくつか精神的に参ることもあり、研究をやめようと思ったことがあった。そのようなことをブログで書いたとき、それを読んだ彼が、僕を支えたいと支援を申し出てくださった。それは驚くほど大きな支援だった。

「僕たちの代わりに表に出て活動もやってきてくださったのですから。僕からのお礼なんですよ」

彼のその支援のおかげもあり、私はそのときの危機を乗り越えることができた。

それから7、8年後、お母さんを見送られたとうかがった。そして、一人暮らしになった越岡さんは、「また絵を描き始めたんですよ」と語ってくれた。そういえば、介護を始めるまでは、よく絵を描いていらしたとうかがっていたっけ。彼がようやく自分の時間を取り戻しているようで、僕も嬉しかった。

けれど、お母さんを見送って2年後、今度は彼自身が認知症の診断を受けた。

彼がその診断を受けたとき、僕は自分の故郷の沖縄に戻り住んでいて、年賀状でその報告を受けた。その文面を読んだとき、僕は、ショックのあまり、その年賀状を手にしたまま、しばらく椅子から立ち上がれなかった。『ようやく自由に時間を過ごせるようになっていたのに…』。なんと言葉をかけたらいいのかわからないまま、僕は電話をかけた。彼は、「しょうがないですね」と淡々と何度も繰り返した。

それから半年ほどして、僕は、東京に用事で来たついでにと声をかけ、彼に会って久しぶりにともに食事した。彼のおすすめの店で、彼がメニューを見ながら注文をしたが、しばらくすると、何を注文したか、うろ覚えになり、「いやですねぇ、こんななんですよ」と言いながらも、しかし、それでも明るく笑いながら雑談した。

まだ一人暮らしをしていて、ゲイバーにも飲み出ているという話だった。それまでも、お会いすると、いつも僕のことをなんらか褒めてくださっていたが、そのときは、初めてスーツ姿でお会いしたこともあって、「ほんとうに良い男ですね」と、いつにも増して、こちらが恥ずかしくなるくらいに褒め言葉を繰り返し口にした。そのときも、「今回は私が払いたい」「せめて自分の分は」...と言う私を制して、私の分も払ってくださった。

彼が「老人ホーム」に入所したという知らせが届いたのは、それから一年も経たない頃だった。

正直、入所した彼に会いに行くことがこわかった。どういう健康状態かわからないし、彼が僕を覚えていない可能性も高い。しかし、行かないと後悔すると思い、自分で自分の背中を押して彼のもとを訪れた。


レクリエーションルームへは、彼から見えるところにある入り口から入ったが、彼が僕に気づくことはなかった。やはり僕のことは覚えていないということなのだろう。では、なんと声をかければいいのだろう? そう思い、ずっと迷っていた。

彼が3ー4曲歌うのを聴いたあと、次の曲が始まる前に、思い切ってそばに近づき、名前を呼んだ。それに反応し、私を見た彼は、不思議そうな顔をした。

「どちらさまですか?」

そう言う彼に、僕は、自分の名前を告げ、持ってきた手土産を手渡した。すると、とまどった様子で

「なんですか?どうしてですか?」と尋ねた。

僕はただ、「昔とてもお世話になったんですよ。だからお礼に来ました」とだけ伝えた。それでも、不思議そうな表情を見せていたが、「そうですか…?では、ありがとうございます」と言って受け取ってくれた。越岡さんが、僕から初めて受け取ってくれた手土産だった。

もし、僕と彼が知り合ったのが会社での出会いなど、ゲイであることが関係ないものだったら、本人が覚えていなくても、「こういう出会いがあって、こんなこと、あんなことがあって」と語ったに違いない。そうやって語ることで、その記憶が蘇らなくても、新しい関係が築いていけたかもしれない。

しかし、他の入所者やスタッフがいる前ではそんな話ができるはずもなかった。早々に僕は施設を後にした。覚悟はしていたけれど、駅に向かう中、涙をこらえきれなかった。『お元気でよかったじゃないか』と自分に言い聞かせながらも。

そして、僕がいる間に彼が二度歌った曲「LOVE IS OVER」の「私はあんたを忘れはしない」という歌詞が頭の中を流れた。そして、「泣くな男だろ」という歌詞を、自分への言葉のようにかみしめた。


そのままその複雑な思いを自分の部屋へ持ち帰れない気がして、久しぶりに新橋にあるゲイバーに飲みに行き、帰宅したのは、0時過ぎとなった。

部屋に入り、その日届いていた郵便物を見てみると、少し遅れて届いていた年賀状の中に、その日訪問した越岡さんからのものが入っていた。年末に、施設宛の住所で年賀状を送っていたのだった。印刷された市販の年賀状に、名前だけが手書きで書かれていた。施設か家族の手伝いで、相手が誰かわからずとも、届いた年賀状に返事を出されたのだろう。

彼が自分で書いた名前は、ぎこちなさがありながらも、確かに彼の字だった。自分勝手な思いと知りながらも、「来てくれてありがとう」と言ってもらえた気がして、また涙がこぼれた。

(追記)今年(2020年)、彼が亡くなり、葬儀も四十九日も身内で済ませたことを告げるハガキが彼のごきょうだいから届いた。

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