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氷なしのオレンジジュースで。

自動ドアに認識されないことが多い。私の時だけ、コントのようにそれはそれは開かない。ドアとの距離感がちょっと人様と違うからか、自動ドアに”人”として見てもらえない時にはちょっぴりさみしい。特に、自分の前にいた人は自動ドアが開いていたのに、自分の番になった途端開かない時なんて、あぁ、私って!私の存在って.....!と思わず頭を抱えたくなる。けれど、一応周りの目もあるし、自分の激情型な振る舞いを社会の標準に合わすべく、落ち着いて暮らすふりをする。先日もお役所でそんなふうだった。

いま、上司の書籍が入稿間際を迎えている。私はある会社で広報をしているのだけれど、上司の書籍は本当に念願で、しかも書籍を出す機会に自分が広報として関われることがとても嬉しく、とはいえ集中作業なので、開放的な我が社内でなく、近隣の川沿いのカフェでここ最近集中作業をすることが多い。

カフェインが得意でなく、でも気持ちさっぱりしたいので、私はいつも柑橘類のジュースを頼む。それも、氷なしで。自分の身体は、27歳をすぎてとても厄介な性分を見せ始め、気圧の上げ下げ、月の満ち欠け、気持ちの浮き沈み、とにかくちょっとしたことでも万全でいられなくなる。ただ仕事柄自分の表現することや感覚が、人様の目に触れるところを触らせてもらっていることもあり、自分のコンディションを整えるということをこの半年ぐらいで特に気をつけるようにしている。自分が荒れている時には、仲間にも荒々しい空気を醸してしまうし、書く言葉・話す言葉にそれらは確実に映されていく。だから自分を出来るだけ満たしてあげて、出来るだけ幸せにしてあげるようにする。そうすると、柔らかい毛布みたいな言葉や誰かをいたわる言葉が出てくるような、そんな余裕が生まれると気づいたからだ。

あくまで私の場合だけれど、身体を冷やすと心身ともにあまりいいことがないと気づいてからは、氷を出来るだけ抜いてもらっている。話を戻すとそのカフェではただひたすらに

「すみません、氷なしのオレンジジュースで。」

と言っている。あまりにもよく通っていることもあり、最近は店員さんが誰であっても氷なしのオレンジジュースを出してくださる。それも、いいな〜と思うのが、

「氷なしのオレンジジュースです?」

とやな感じせずに聞いてくれるところだ。私の意思を尊重しつつも、心配りを感じるこの一言に、「あー私、”人”として認識されてる....」と気持ちがカサついてしまった日も救われている。

週末は、お酒がめっぽう好きな恋人と居酒屋さんに行くことが多いのだけれど、恋人も恋人で心配りがとてもできる徳のある人なので、

「生と、烏龍茶の氷なしで」

と目配せしながら注文をしてくれる。そのたびに「あぁ、こんなに面倒な注文を自分の都合でさせてもらっているのに、やな顔せず頼んでくれてありがたいな」と素直に心で手を合わす。店員さんも「氷なしですね!」とやな顔せずに、持ってきてくださると、すみませんと思いつつも、私という「個」に接してもらっている感じがする。

私も飲食事業のある会社で働いているので、飲み食いにはそれぞれの事情というのが少なからずあるし、身体に接続しているため、その事情には出来るだけ寄り添いたいと思ってきたけれど、こうして実際に自分がそうした「たった一人へのまなざし」とでも言うべきか、目線をもらうたび、あぁ、私は私で存在しているんだなと思ったりする。

私も誰かにとっての「氷なしのオレンジジュースで」みたいなことを、大切にしたいし、それを大切にできるように、自分のことも大切にしようと思い直している。誰かのためは、本来自己犠牲の上には成り立たないのでは、そんな予感を感じながら、夜を追い越していく。