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「令和」にこめられた来たる時代の願い -大伴旅人のこころの旅路 パート②

「楽し」にいたるまでに知覚した「空し」からの「悲し」

漢文学から影響を受けた「梅花の歌三十二首の序」からの引用となる「令和」だが、その影響は他の語にもある。

「楽し たのし」(娯し)だ。

しかし、「楽し」にいたるまでには、旅人のこころの在り様の変化なしには語れないというのだ。そのこころの変遷とは、どういったものだったのだろうか-。

大伴旅人の歌がはじめて世にでたのは、神亀元年(724)三月。即位したばかりの聖武天皇の吉野離宮の行幸に加わった際につくった「吉野賛歌」だが、その歌は陽の目をみることなく、ボツになっている。

旅人の次の歌は、それから5年後の報凶問歌
前に漢文の序文があり、それに和歌がつづく「漢文の序+倭歌(やまとうた)」の構造になっている。それは、これまでにない新しい様式の作品だという。

序訓 「禍故(くわこち)重疊(ちょうでう)し、 凶問(きょうもん)累集(るいじう)す。  永く崩心の悲しびを懐(むだ)き、 独り断腸の涙を流す。  ただし、両君の大き助に依りて、 傾ける命をわづかに継ぐのみ。  筆(ふみて)の言(こと)を尽くさぬは、 古(いにし)へに今に嘆く所なり。」

平均寿命が30歳程度の当時、60歳を過ぎて、都から太宰府に赴任となった旅人のもとには、その年の初夏に妻の訃報が入り、さらに弟の訃報が入った。その悲哀を詠んだのが報凶問歌。
いつの時代も、手紙では伝えきれない想いがあるもので、それがもどかしいと嘆き、短歌が続く。

世間(よのなか)は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり (5.七九三)

たび重なる訃報に嘆き悲しみ、つづく短歌では、世にいう「空しさ」をじっさいに旅人自身が知覚することで増した「悲しさ」を表している。

この漢文の序+短歌は、5年前の吉野賛歌+反歌と「声調が同じ」だと指摘される(伊藤博『万葉集の歌人と作品 下』参照)。

天皇のためにつくった賛歌は、旅人唯一の長歌で、それに五七五七七の反歌が続くが、その反歌には報凶問歌と同じ、その後に続く語句を強調する「いよよ」がつかわれ、どちらも同じ第四句に位置する。

また、吉野賛歌の長歌は、五七-五七で区切ると「六句」にわかれ、報凶問歌も息つぎをすると「六句」に分けられる。

代々、天皇を守る近衛軍としての誇りを持つ大伴氏にとって、天武朝時代の吉野の地はまさしく「聖の地」であった。その吉野の聖武天皇の行幸を、あらたな時代の繁栄と讃える長歌。
それに連なる反歌は、一転して、旅人のこころの深層を描く。

天武朝時代の聖地であった吉野への「哀愁」をきっかけとして、旅人自身の「過去」=「哀愁」への没入感が現れているのだ。

「長歌」 
み吉野の 吉野の宮は山からし 貴くあらし 川からし さやけくあらし 天地と 長く久しく 万代(よろづよ)に 変はらずあらむ 行幸の宮 
(3・三一五)

 「反歌」 
昔見し 象(きさ)の小河(をがわ)を今見れば いよよ清(さや)けくなりにけるかも (3・三一六)

吉野賛歌と報凶問歌のもう一つの類似

それは「受動的」な態度から、一転して自己世界へ没入する、旅人のこころの様が表現されていること。

吉野賛歌は天皇の命によってつくられたので、創作された原因は「受動的」だ。報凶問歌も、旅人の「太宰府赴任」という「受動的」な状況で詠まれている。

旅人は、受動的な原因をきっかけとして、自身のこころ模様を歌うスタイルをつくったといえるのだ。

また、報凶問歌の「世間は空しきものと知る」からは、「一切の存在は因縁によって生滅変転する(仮有 けう)ものであって、それ自体に常住不変の実体(実有 じつう)はないという考え方」(井村哲夫『全注』)、すなわち仏教思想をもとにした「世間無常・世間空虚」「知覚」を得た旅人が浮かびあがるという。

政争にからむ(高齢での)好まざる離京、そして愛する人たちの死により、悲哀と寂しさを知って得たのは、当時、知識人のあいだで広まってきた「仏教思想」でいうところの「空し」という実感だった。

「空し」を悟ったときに、より一層、悲哀が深くなったと歌う旅人は、いまでいう「後期高齢者」になったとき、その悲しみと空しさを背負って、またあらたな境地に達する。

それは、「悲し」の対義語である「楽し」だ。

讃酒歌にあらわれる「楽し」

万葉集で、人間の生き方に関わって最初に「楽し」を歌に読み込んだのは、旅人の「讃酒歌」である。

生ける人 つひにも死ぬる ものにあれば 今在る間は 楽しくをあらな(3・三四九) 

旅人は意識的に「楽し」の語をふくむ歌を詠い、万葉語として定着させた。
それは、もろもろの悲しみを歌に託し、その苦しみから解放されようとした、余生へ向けた彼の決意の現れであったのだろう。

梅花の宴で詠まれた三十二首の冒頭を飾るのは、大弐紀卿の歌である。主客の紀卿は、主人である旅人の催す宴の趣旨を、十分に理解していたはずである。

「梅花の歌三十二首」の序文が典拠とする「蘭亭集序」には、

「仰ぎては宇宙の大なるを観、俯しては品類の盛んなるを察す。目を遊ばしめ懐ひをはする所以、以て視聴の娯しみを極むるに足れり。信に楽しむべきなり」

とある。


梅花の宴も、太宰府の諸人とともに文雅の遊びを楽しむことが目的だと承知していた紀卿はこう詠んだ。

正月立ち 春の来たらば かくしこそ 梅を招きつつ 楽しき終へめ  (5・八一五)


このようにして、「梅花の歌三十二首」は、大伴旅人の楽しく生きる新たな生への出発の歌群であると受けとめることができる。
その序文に用いられた表現をもとに、新たな元号の「令和」が生まれたことは、わたしたちの誰もが、新たな人生への幕開けの前にいることを意味するのではないか。

「令和」が生まれた万葉集の「梅花の歌三十二首の序」からは、万葉時代を生きた旅人からの、人生を真から楽しもうという賛歌のようにも聞こえてくる。


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