娯楽作品に対してメッセージ性を求めること

受け手として

小説や映画、音楽などの娯楽作品(芸術作品も含む)を見る時、意味を私は探してしまう。
意味、それはメッセージ性とも言える。
作品全体を通してまたは一場面で、作り手は受け手に何を伝えたかったのか?
背景や人物の細部にまで、そこにメッセージ性を感じ取ろうとする。
受け手として作品に向き合うならばそれは楽しみ方として健全だと思う。

作り手として

が、作り手として向き合った場合はどうだろう。
メッセージ起点で作品を作って、面白くすることは難しい。
受け手に対して、作中でそのメッセージを説明する必要があるからだ。
読者が100人いたとして、その全員に同じメッセージを感覚的に伝えることはとても難しいことだと思う。
どうしても理論的に説明することになり、説教くさいものになる。
それに、メッセージ性を持たせたいならば論文や記事のような媒体の方が適している。

そもそもメッセージ性なんていらない

私は娯楽作品にメッセージ性なんていらないと思う。
それらの作品は、ただただ感覚的なものであれば良いのだと思う。

雄大な自然は美しいが、メッセージ性も何もない。
ただただ景色であり、それ以上でも以下でもない。
が、私はその景色を見て生きる活力に溢れたり、それ以上の何かを感じたりする。
娯楽作品もそれでいいじゃないか、と思う。

作り手はただ書きたいものを書き、受け手は感じたいものを感じる。
作り手と受け手は独立しており、それぞれが楽しめればいいのだと、私は思う。

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