アニメ「どろろ」感想②手塚治虫の宿題に対して平成版アニメはどういうアンサーを出したのかを読み解いてみるよ、その①

・あくまで個人の主観入りまくりの「私はこう思う」という記事です。
・ラストまで思いくそネタバレしてます。

古橋一浩監督作品は「ガンダムUC」を履修済み(すごくはまりました)、小林靖子作品は「映画刀剣乱舞」を履修済み(「こんなん!!!初見で全部分かるかよ!!!!靖子!!!!」とぶちきれました)です。手塚治虫原作はアニメ視聴後にkindleでセールやってたのを購入して一通り読みました。

原作の「どろろ」は途中で打ち切りになったために手塚治虫が着地点を示していないままのテーマがいくつかあります。

大きなものは


・百鬼丸が探している「しあわせな国」とはどこにあるのか
・百鬼丸は全てのパーツを取り戻して人間になれたのか(原作どろろの最終回では百鬼丸は母親に「おれがまともな体になってからわが子よばわりしてくれ」という旨のことを言っています。この時点で彼の中では「自分が人間になる」=「奪われたパーツを取り戻してまともな体になること」と定義されています)

この二つ。
あとは、普通の体になった後に百鬼丸が何を生きがいとしたのか、とかかな。

最終話で彼はどろろに「農民の国を作りな」と言い、「完全な体になったらまた会おう」と言い残し、彼女とは別の道を行きます。原作最終ページを見るに、この後、百鬼丸とどろろは再会せずに一生を終えたようですが…。


原作を読んでみるとわかりますが、原作どろろは今の放送規制ではそのままの形でのアニメ化は絶対に無理です(身体障害者への様々な差別表現もアウトですし、百鬼丸が「体を全部取り戻さないと人間になれない」と考えている描写もアウト)。よくこれを地上波でリブートしようと思ったな…というのが原作を読んだ正直な感想でした。

平成版「どろろ」はこの手塚治虫が「閉じないまま後の世に残した」テーマに対して「物語の骨子、絶対に外せない部分を残してキャラクターの性格その他を大きくアレンジし」「それぞれのキャラクターの結末は原則そのままにして」「手塚治虫が提示した問題に対して、平成〜令和の価値観・価値観で答えを提示し」「結末は原作と同じだが、どろろと百鬼丸、二人の物語をきちんと完結させる(きちんと完結しているので結末は同じでも視聴者が受け取る印象は180度逆になる)」という形でアンサーを提示しました。手塚治虫が途中で閉じてしまった世界のその先を書いて、百鬼丸とどろろの物語を完結させる、という形ではないが故に正統派の続編であり答えであるかと言われればかならずしもそうとは言えないと思います(そもそもそれを漫画・アニメ媒体で現在の世に出すのは無理だと思う)。


ただ、私はこういう「未完の名作のアニメ化」っていうのは、原作者が出した問いに後世の人間がどれだけ真剣勝負で自分なりの答えの形を見せるかだと思っています。そういう意味では、平成「どろろ」には「凄まじい真剣勝負に立ち会ってしまった…」とただただ圧倒されました。

や、もうすごい名勝負だったと思う。
UCの時も刀剣乱舞の時も思いましたけど、古橋監督と小林靖子の頭は一体どうなってるんだ。

私の貧相な読解力ではとても立ち向かえる気はしませんが、読み解けた範囲を記事にしていこうと思います。
見落とし、抜けは色々あると思います。全部拾えてる気はまるでしない。これ書いてる時点で私が拾えた部分さえどこから手をつけていいかわからなくて途方にくれるくらい情報量が多すぎる。あっぷあっぷしすぎて一番無難にまとめられそうなところ(鬼神システム周り)から試しにまとめてみて導入もクソもなくなってしまった。

平成「どろろ」のスタッフは、百鬼丸をどうやって原作と同じ状況に追い込んだのか


原作どろろの百鬼丸って「化け物みたいななり(本人が言うところの「か●●」ですね)をして、化け物みたいな力を振るうが故に村社会や人間社会から存在を認めてもらえないんです。
化け物であるが故に彼はどこにも居場所がない、だから体を取り戻して、同時に自分が幸せになれる国を探す。
…っていうのが物語の中での百鬼丸の大きな目標なんですけど、これそのまんまだと、今の時代の放送規制に絶対引っかかるんですよ。
古橋氏を監督に起用してって時代劇作るってことは海外展開も視野に入れてるはずで(るろ剣星霜編は海外の評価の方が高い)、差別への放送規制は海外なんかもっと厳しいはずなんですよね。

百鬼丸が人の社会の一員になれない理由に「彼の四肢の欠損」という理由は使えないんですよ。

でも、これって「どろろ」では絶対に外せない作品の根本のテーマのひとつなわけで。

それをどうにかして今の時代の放送規制をすり抜けられる形にしなくてはいけない。
では、このテーマをどういう形で物語に落とし込むのか。

今回の製作陣は「百鬼丸は迫害される存在だ、何故なら国の繁栄は醍醐が息子を鬼神に食わせた対価として得たものだからだ」っていう理屈をつけて、「百鬼丸が人の社会から疎まれても仕方がないと現代人が思えて、なおかつ放送規制をすり抜けられて」「百鬼丸が原作と同じ状況に追い込まれる」環境を作りました。


同じ理由で、「一般の名もなき大衆が異形だからという理由で百鬼丸を迫害する」描写も使えないんですよおそらく。
ではそれをどうやって表現するのか。

そこで小林靖子(のような気がする)(なんとなくそんな気がする)(根拠は特にないけどこういうことするのは靖子な気がする)が目をつけたのが多宝丸です。

「真っ当な良識を持ち」「幸せに育ち」「地道な努力は報われると信じている」「けれども権力(父権)を持つものには逆らえず、それが正しいのだと言われれば従うしかなく」「自分たちの生存と一人の命が引き換えになると言われれば一人を差し出すしかない」一般大衆の総意の具現のような存在。

多宝丸に民衆の相違を代弁させて、そのエゴで百鬼丸を排除し、命を奪おうとさせることで、彼は民意によってもまた疎外され、迫害される存在なのだ、という原作と同じ状況を再現しようとした、訳です。

国のために鬼になる覚悟をして、良心を16年前に殺し、ばんもんの時点で『善良な一般人』ではなくなっている醍醐景光ではだめです。

あくまでも、「平時には普通の良心を持ち、努力は報われると信じている、おおむね誠実な人間が、止むを得ない事情(自分たちの安寧・生死と引き換え)によって、百鬼丸を排除するのだという状況を作らなくてはいけない。

「悪意なき善良な大衆の総意」「醍醐景光が治める醍醐の民の総意」を表しているのが多宝丸です。
だから(原作ではあっさりやられるキャラなのですが)平成版「どろろ」では、彼にあれだけの尺が割かれるのです。

伝え聞いた噂では小林氏は多宝丸がお気に入りらしいのですが、それ絶対「(手塚治虫先生の原作では一般大衆っていう大人数に分散されてた善良な領民の悪意を百鬼丸にぶつける役目なんていう因果で業の深い役割を背負わされた)百鬼丸が好きですね(ハート)」って意味だよな…靖子にゃんはそういう人だよ(映画刀剣乱舞だけなのに深く刻み込まれている靖子のトラウマ)…。

陸奥と兵庫も忠誠心も多宝丸を慕う気持ちも本物だけど、「民のために一人を犠牲にするという考えのおかげで我々はここにいるので醍醐景光は間違ってない」って、「本当にそうなのだろうか、それは正しいのだろうか」って疑問を持った多宝丸の考えの芽を潰してますし!!!本人たちに悪気はないんだけど!!
しかも陸奥に至っては、忠誠心が暴走した結果、多宝丸が本当に戻れなくなるところに行く背中を押してしまった挙げ句の果てに自分と兵庫が死んでしまって多宝丸に取り返しのつかないダメージを与えてるし!!

こういう!!!!忠誠心は本物なのに努力の方向を間違えて地獄を呼んじゃうキャラ!!!まあ靖子にゃんは気に入りますよね!!

…そういうわけで、百鬼丸には多宝丸は24話の決戦の時に斬ることを思いとどまるまで、鬼に見えていたんだろうなあというのは前回の感想に書きました。

平成版「どろろ」の百鬼丸が完全に無垢な状態(テレパシーも使えず、腹話術も使えない)になった理由の一端はこの辺にあると思ってます。原作の達観した物分かりのいい百鬼丸のままだと、ばんもんの後はひたすら塞ぎ込んで葛藤するか、もしくは自ら命を絶ってしまうような気がするんですよね…。

平成版のスタッフがどうやって百鬼丸が追い込まれる状況を作ったか、についてはこの辺で終わり。次は、百鬼丸とどろろの関係についてまとめていきます。

まとめながら思うんですけど、感想をまとめるのすら難しい…。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?