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2019.8.24(土) ウラダイコク reading-park 「魚雷モグラ'19」

7月の初めから2ヶ月ほど日記を休んでいました。
まぁ、単純に7月、8月といろいろ忙しくてテンパっていて、毎日1時間かけて何かを書くという余裕がなかったというのが正直なところです。

それに、ちょっと飽きたというのも実はあったりして。
飽きっぽいんですよ、もともと。
半年以上続いただけでも大したものなのです。

それで、最近少し余裕が出てきたのと、表題の舞台に友人が出演していたので観劇に行ったら、「その内容を解説せよ」と言われたので、じゃあ書きましょうかねということでこの文章を書いています。
あなた、出演者でしょうが……というツッコミはさておき、彼女が読み込んだ台本の解釈とは別の視点が提供できればと思う次第です。

以下、物語のストーリーにも言及するので、ネタバレ、もしくは前知識無しで観たいという方は、ここでそっとページを閉じてくださいね。

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物語の舞台は太平洋戦争末期の長崎。
学徒動員された女学生たちは、地下のトンネルに作られた魚雷製造工場で過酷な環境に耐えながら、毎日魚雷を作り続けていました。
食べ物も少なく、ひもじい思いをしながら、暑い日も寒い日も機械の巻き込みを防ぐために素手で鉄を削り、油や鉄くずにまみれ、理不尽な上官に怒鳴られ、殴られる日々。
それでも彼女たちは友達とのお喋りに夢中になったり、素敵な将校に憧れてキャアキャア騒いだり、ライバルといがみ合ったり、無邪気さと明るさを失わず、その日常を過ごしているのです。
そして、運命の日がやってきます。
1945年8月9日、長崎に原爆投下。
そして、彼女たちは……

戦時下での女学生たちの日常とそれを襲った悲劇。
ストーリーとしてはわりと単純です。
ただ、そういう戦争の日常と悲劇の物語として見てもいいと思います。
でも、あえて深読みしてみます。

最初、「魚雷モグラ」というタイトルから、「モグラ」というのは単に地下で魚雷を作る女学生を指したメタファーなのかなと思いました。
公演のチラシにも「まるでモグラんごたる乙女の戦いばい!」「モグラ乙女の見上げた空」と書いてありますしね。

でも、ストーリーの最初の方で出てくるんです。
本物の「モグラ」が。
「モグラ」って、単に地下でモグラのように働く女学生のことを言っているだけじゃないのか? と思ったのが最初引っかかったところでした。

主人公の少女は畑を荒らすモグラを踏みつけて殺してしまいます。
そしてその殺されたモグラの娘は、その主人公を恨んで、恨んで、その報いがあるようにと祈って、祈って、祈るのです。

そして、原爆が投下されます。
その惨状を見てモグラの娘はこう言うのです。

「この惨状は私が祈った結果なの……?」と。

自分の父親を踏み殺した一人の人間に復讐したいと願った結果起こった惨状。
こんなことまでは望んでいなかった、こんな恐ろしいことが起こるとは思っていなかったのに。

自分が行った些細な行為、それがどんな重大な結果に繋がっているのかがわかっていなかった。
それは実はモグラも女学生たちも同じでした。

自分たちが作った魚雷が発射されることで何が起こっているのか、日本軍の戦果に無邪気にはしゃぐ、その撃沈した船にはどれだけの人が乗っていて、どうやって死んだのか。
そんなことには想像も及ばず、ただただ彼女たちは純粋で、無邪気です。

そして彼女たちは理不尽に上空から降ってきた暴力によって、友を失います。
上空から振り下ろされた足という理不尽な暴力によって父親を失ったモグラの娘と同じように。

そういう意味で彼女たちはモグラだったのだ、というのが僕の解釈であり、ただ彼女たちがモグラのように地下で働いているという比喩表現だけでなく、本物のモグラを登場させた意味だろうと思います。

そういえば、女学生のあだ名に「オロチ(だったかな?うろ覚え)」や「ネズミ」といった動物の名前が出てくるのは、ちょっとモグラとのつながりを連想させるな、というのは深読みが過ぎるかもしれませんが。

女学生の場面とは別の時間軸で原爆を投下したアメリカ軍人が登場します。
彼もまた、軍人としての任務や正義感から原爆を投下したわけですが、その投下ボタンを押すという些細な行為と、その結果引き起こされた惨状という意味では彼もまた、「モグラ」なのかもしれません。

そのアメリカ軍人は言います。
「カップからこぼれたコーヒーはもう元には戻せない。ナプキンで拭き取ったものをカップに絞って戻したとしても、それはもう元のコーヒーではない。これを飲みますか?」と。

そう。
そんなつもりはなかった、こんなことが起こるとは思わなかったとしても、もう起こってしまったことは取り返しがつかないのです。

ラストシーンで、自分が引き起こした惨状なのかと主人公にモグラの娘が問いかけたのに対して、主人公はこう答えます。

「私が悪かった。その恨みは自分が引き受ける。あなたの望むようにしてほしい」と。
それに対してモグラの娘はこう言うのです。
「そんなことを言われたら、どうしていいかわからない」と。

原爆によって理不尽に友を殺された主人公が、また恨みで返せば、さらなる惨状が引き起こされ、その連鎖を止める術はありません。
その連鎖を止めるには、誰かがどこかでその恨みを受け止め、その惨状を引き起こした責任を引き受けなければなりません。
あまりにも当たり前で、誰もがわかっているはずの結論ですが、それしかないのだと思います。

それが、最後に主人公が手にした美しいビー玉という形をした、希望なのだと思うのです。

それを引き受けるのは誰なのかというのは難しい問題ですが、それは今を生きる一人一人、全員がというほかはない気がします。
人類を代表して誰か一人が、というわけにもいかないでしょうから。

最近、ネットやニュースを眺めていると、高齢者の交通事故やあおり運転の加害者を寄ってたかって非難したり、嫌韓や嫌中やヘイトスピーチ、あいちトリエンナーレへの非難殺到での展示中止など、そんな話題ばかりが目立ちます。
毎日毎日飽きもせずそんな番組しか流れないので、テレビなんかはもう数年前から見なくなりましたが。

非難しやすい対象を見つけて、ネットに書き込んだり、電凸したり、悪ふざけのつもりでテロ予告をしたり。
一人一人は純粋な正義感だったり、無邪気なナショナリズムだったり、あるいは承認欲求や自己のアイデンティティを保つための行為だったりするのかもしれませんし、自分がやった行為など些細で大したことないと思っているのでしょう。
でも、一人の行為は些細でも、それが集まったらどんなことが起こっているか、どんなことが起こり得るか、わからないんですかねと常々思います。

最近、その光景を眺めていて、ものすごく気持ち悪いとも感じています。

あなたも、僕もまた、「モグラ」になる可能性があるということは肝に銘じておく必要があると改めて思った舞台でした。

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