どこまで許せる「不思議扱い」!?~『空想科学読本』の役割

「不思議を不思議扱いされることの許容範囲」には、どうやら非常に大きな個人差があるらしい。
あるだけならまだしも、それがときに、ある程度には顕著な断絶を、社会へ生み落とす。

非現実的なこと。
不思議なこと。
空想上と思しきこと。
ファンタスティックなことが話題にのぼったとき、あなたならそれを何と表現するだろうか。
たとえば、
「昨日UFOを見たんだよ。
スーパーの駐車場で車に乗ろうとしていたとき、頭のすぐ上を、東京ぐらいでっかい円盤が通り過ぎて行ったんだ。
なぜか、他のみんなは気づかなかったけどね」
と友達から言われ、なおかつそれを頭ごなしに否定する気があなたにない場合、あなたなら何と返事するだろう。

「それはすごい!」
あなたがそう言える人なら、何の問題もない。
いや、何の問題もないというのは、この稿で問題となる要素は何もないという意味だが。

「夢みたい!」
もしあなたがこのように言う人なら、すでにこの稿で考えたい要素がわずかに生じている。
すなわち、その場合友達は、
「だろ!? 夢みたいだろ!?」
と大喜びであなたの合いの手に乗ってくる人かもしれないが、あるいはもしかすると、
「夢じゃないよ! 夢だなんて言わないでよ!」
と、気分を害してしまう人かもしれないからだ。

その友達が仮に前者であっても、もしあなたが、
「夢みたい!」
ではなく、
「不思議だね!」
このように言う人ならどうだろう。
その場合、彼または彼女は、
「だろ!? 不思議だろ!?」
と大喜びであなたの合いの手に乗ってくる人かもしれないが、あるいはもしかすると、
「不思議って何だよ! 不思議なんて言わないでよ! 夢のない人だね」
と、気分を害してしまう人かもしれない。

さらにまた、仮にその前者であった場合も、ではあなたが、
「夢みたい!」
でも、
「不思議だね!」
でもなく、
「そりゃおかしいな」
と言う場合はどうだろうか。
これまた友達のタイプは大きく言って2種類に分かれるだろう。
「だろ!? おかしいだろ!? そうなんだよ、おかしな話なんだこれが!」
と言って乗ってくるタイプかもしれないし、はたまた、
「おかしいって何だよ! おかしいなんて言わないでよ! 不思議が分からない人だね」
と言って気分を害してしまうタイプかもしれない。

仮にその友達が、
「だろ!? おかしいだろ!?」
のタイプだったとしよう。
即ち、「夢みたい」「不思議だね」「おかしいね」のどれを言われてもまったく不機嫌にならない、言い換えると「夢みたい」「不思議だね」「おかしいね」は彼または彼女にとって何ら自分の主張に対する懐疑の表現ともならないような場合である。
その場合も、もしあなたが、
「そんなバカな」
と言ってしまったら、これはどうか。
もう、何を言いたいかお分かりだろう。
「だろ!? バカだろ!? いや~マジであれはバカげた光景だった!」
と喜ぶタイプもいれば、
「バカとは何だ! 俺がバカなことを言ってるってのか!?」
と食ってかかるタイプもいると思われる。

以下、このようなシミュレーションはいくらでも続けていくことができるだろう。
「バカな」
と言われて腹を立てない人であっても、
「そんなことはあり得ない」
とか、
「それは非現実的だ」
とか言われれば、
「俺を信じないのか!」
と腹を立てるかもしれないし、あるいはそれでもなお、
「だろ!? いや~マジで非現実的なできごとだった! あり得ねえ!」
と喜ぶタイプかもしれない。

「お前、頭、大丈夫か?」
ここまで来ると、さすがにムッとしない人は少数派かもしれない。
いくらなんでもこれは、頭ごなしに否定する言い方と言っていいだろう。
が、それも言うときの感情の込め方によっては、頭ごなしの否定にはならないこともあり得るだろう。
「幻想だな」
と一蹴してみたところで、
「そうなんだよ! マジで幻想的な光景だった!」
と本人はかえって共感を得たものと受けとる可能性だって、なくはない。

すんどめには、忘れられないできごとがある。
中学1年のある日、国語の授業で若い女性教諭がこう言った。
「ハイ。ではこの『竹取物語』で、おかしなところを挙げてみましょう」
おかしなところ、という表現をその教師は使ったのだ。
「かぐや姫がすごいスピードで大人になったのが、おかしいと思います」
「最初に姫が竹の中にいたのがおかしいと思います」
などなど、予想通り、そのような発言が次々と出た。
みんな、だんだん盛り上がってきた。
「おかしなところ」をあげつらうのが面白くて、どんどん発言をした。
そのうち、これも予想通り、次のような意見が出た。
「姫は月へ帰るというけれど、どうやって帰ったのか」
それに対し、歯医者の息子で髪がボサボサであるためにボサミと呼ばれていたマサミが、これまた予想通りであることに、
「大気圏出るとき燃えてボアーッ!」
両手を大きく広げ、こう言っておどけてみせた。
子どもとして至極まっとうな、当然の反応である。
ところが、そのとき。
「やー、どうして男子ってこういう夢のないこと言うのー!」
と言って、その若い女性教師は満面の笑顔で「ツッコミ」を入れたではないか。
すんどめは耳を疑った。
(……えっ! 夢のないことを言ってみようと言ったのは、先生じゃないか!!)
と、怒りと懐疑の言葉が喉もとまで出かかった。
が、その一瞬前。
あろうことか教室は大爆笑に包まれたのである。
当のボサミ自身がゲラゲラ笑って、何の疑問も抱いていない様子であった。
なぜだ。
なぜみんな平気なんだ。
「おかしなところ」を挙げてみよと指示され、その指示に忠実に従った発言者に対し、まさにその「おかしなところ」がいかに「おかしなところ」であるかを再確認するために入れた合いの手が、なんで「夢がない」と非難され、あまつさえ笑いのネタにされなければならないのか。
なぜみんな笑えるんだ。
このできごとは、すんどめの心に後々まで濃く深い影を落とすこととなった。

幾年月。
すんどめはこのときのことを、何度も思い返してみた。
恐らくこの女性教師にとって「おかしい」は、「夢」を壊す形容表現でなく、むしろ大変「夢」のある、ロマンティックで胸躍る言葉なのだろう。
ところがそこに「大気圏」などと理科チックなことを持ち出されると、
「やー、どうして男子ってこういう夢のないこと言うのー!」
となるのである。
要するに彼女にとって、「おかしい」には夢があるが、「大気圏」には夢がないのだ。
「おかしい」と「大気圏」との間に、この教師の「夢見る言葉」の許容の限界がある。
だが人によっては、「おかしい」にこそ夢がまるでなく、「おかしい」は夢をぶち壊しにする無粋きわまる表現であって、「不思議」と「おかしい」との間に例の境界がある、というケースもあるだろう。
ということはその反対に、「不思議」「おかしい」はおろか、「大気圏」でさえ夢あふれるロマンティックで素敵な概念だ、という人もいるはずではないか。

すんどめの友人は、小学校の卒業文集の「好きなもの」欄に、
「酸素、栄養、大地、重力、マサツ」
と書いて担任から、
「ひねくれた考えはやめなさい」
と叱られた。
思えば科学の用語というものは、往々にして「物事をクールに割り切り過ぎた」「夢のない」「無味乾燥な」「血も涙もない」「想像力の入り込む余地がまったくない」ものとして排除される傾向にないか。
本来、科学の言葉ほど夢あふれるものはないのに、だ。
例の友人も、ただひと言、
「大自然」
とだけ書けば、担任に叱られることもなかったばかりか、むしろ誉められた恐れすらある。
言っていることは同じであるのに、だ。
換言すれば、担任はじめ周囲の誰もが、
「お前、なんでこんなもん好きなのよ。バカじゃねえのか?」
などと笑おうものなら、かえってこの男から、
「じゃ、お前、酸素嫌いか? 酸素がなきゃ生きてけねえぞ? 何よお前、マサツ嫌いなのか? マサツがなきゃ歩けねえぞ? え?」
と、「ヘリクツ」の猛攻を浴びせかけられるに決まっていると恐れているわけなのだ。

だが、本当にそうだろうか。
なるほどこの友人に限っては、稀代の「ヘリクツ野郎」であったことを、すんどめも自信をもって証言はする。
が、一般論として、酸素だの重力だの摩擦だのといった概念を「好きだ」という感覚は、必ずしも夢のない「ひねくれた」感覚であると言い切れるのだろうか。
むしろ本人は、文字通り酸素に、重力に、大地に、栄養に、そしてマサツに限りない夢を抱き、ロマンを感じ、果てしもない憧れを持って愛し愛し愛しつくしているのかもしれないとは考えられないか。
同じように、
「かぐや姫って、どうやって大気圏を突破したんだろう!? 
燃えなかったのかな! 
すげえ!」
と思うことが彼または彼女にとってすばらしい夢であり、ロマンであるという人も、実は世の中には、多数派とは言えないまでも、ある一定の割合をもって確実に存在する、「よくいる少数派」なのではないだろうか。

自然科学の言葉によってフィクション(夢)を再評価することでむしろ夢を感じ直したい、という、「よくいる少数派」のニーズに応えたのが、恐らく『空想科学読本』(柳田理科雄著)なのだと、すんどめは考える。
すんどめはかつて、この本にそれほど縁がなかったのだが、比較的最近になって、ジュニア版の2015年発行分の第5巻までを読んだ。

『空想科学読本』は、ひと言でいえば、『ウルトラマン研究序説』の系譜を受け継ぐ一連の、〈あえて野暮なこと言ってみようぜ〉モノの典型である。
ウルトラマンが破壊した都市インフラの保険処理はどうなるのか。
同じように、サザエさん一家が飛び込む家屋の超弾力的な変形から、この家の素材が何であると分かるか。
ひと晩で世界中の子どもを回るサンタさんの移動は秒速にして何メートルか。
……
いわゆる「野暮」である。
「夢を壊す」企画である。
が、こうした素朴な疑問こそが、その素朴さゆえにかえって「夢」であり、逆に「粋」なのであって、しばしば人々に大笑いで受け入れられる。
幼いころ絵本を読みながら、マンガを読みながら、アニメを観ながら、ゲラゲラ笑って「夢を壊し」ながらツッコんだあの思い出をもう一度みんなで共有できる「夢」である。

何を隠そう、すんどめの父親がそのタイプであった。
すんどめは幼いころ、親父に尋ねた。
「サンタって、たったひと晩で世界中の子どものところを回るんでしょう?
すごい早業じゃない?」
すると酔っぱらっていた親父はニヤリと笑い、
「そうだな。
どのくらい速いか計算してみようか」
おもむろに電卓を取り出し、
「えーと、現在の世界の人口がコレコレだから、そのうちのウン%が子どもだとすると、世界の子どもの人数は約ウン人。
で、1日は24時間だが、時差も考慮に入れると世界の『ひと晩』は約ウン時間だな。
だいたいでいいんだ、こんなもんは。
したがってそれを分に直すと約ウン分だ。
てことはそれを秒に直すと約ウン秒!
この秒数を世界の子どもの人数で割る!
だからほら、これが子ども1人あたりにサンタが割ける時間だ!」
すんどめの記憶が正しければ、それは3秒余りであった。
こうした、「仮定」を明確にした「数値計算」による「仮説」こそが、まさしくのちの『空想科学読本』である。
親父は自分の計算結果に大満足し、
「ということはうちの場合、子どもは3人だから、かけられる時間は約10秒!
最初の3秒で屋根の上から煙突に飛び込み、次の3秒でお前たちの枕元にタッ、タッ、タッとプレゼントを置いて、その3秒後にはもう、となりの本間さんちの屋根の上に飛び移ってる!
カッカッカ!」
ひとりで大喜びしていた。
幼いすんどめには、親父の計算過程や論理展開が、まったく理解できなかった。
煙に巻くとはこういうことを言うのであろう。

『空想科学読本』を大好きなひとりの若者によると、
「こんなに間違ってる 空想科学読本!」
というような本があるという。
(調べるのもバカバカしいのですんどめは調べていない。)
すなわち、『空想科学読本』の中で述べられる仮説や検証を、ことごとく論破せんという企てである。
やれこの計算は間違っているとか、この論証では何力の影響を考慮に入れていないとかいった類の、批判本だそうである。
若者は、
「なんでそういう野暮なこと言うんでしょうね。
『空想科学読本』はシャレじゃないすか。
シャレの分からん奴もいるもんですねまったく」
烈火のごとく憤慨している。
彼の憤慨を聞いて、すんどめはついに、あることに気づいた。
『空想科学読本』にしてからが、そもそもそういう「野暮」な企画であったはずだ。
しかし人々はそれを野暮ととらず、「シャレ」として「粋」として、楽しく受けとったからこそ、多くの人に愛される著作となった。
が、きっと中には『空想科学読本』を粋と思えず、どうしても「野暮」としかとらえられない人だっているはずだ。
そういう人は、きっと『空想科学読本』そのものに対しても、
「なんでそういう野暮なこと言うんでしょうね。
だってマンガやSF小説やおとぎ話やアニメやゲームじゃないすか。
シャレの分からん奴もいるもんですねまったく」
などと、烈火のごとく憤慨しているのではないだろうか。
しかしそういう人も、月へ帰るかぐや姫を見て、ホウレン草でマッチョになるポパイを見て、地平線が見えるキャプテン翼のサッカー・コートを見て、オオカミに食われても胃袋の中で生きている赤ずきんちゃんの祖母を見て、
「不思議だね」
さも楽しそうに、そんなことを言ってみせたりするのではないか。
そんなとき、
「不思議って何だよ! 不思議なんて言わないでよ! 夢のない人だね」
と思う人々から、自分こそが「野暮」のそしりを免れないとも知らずに……
こう考えていくと、フィクションのフィクション性・超現実性に対する自らの感受性を、どういう言葉で表現するかによって、またその言葉を誰に聞かれるかによって、その人は「野暮」にもなり「粋」にもなるということになる。
そして、このことにずっと苦しめられてきた、「不思議ちゃん」でなおかつ科学の言葉が大好きな、すんどめの親父のような人々が、この弾圧に対して反旗を翻したのが『空想科学読本』であったのかもしれない。

それを裏づけるような、興味深いあるものを、すんどめはこのジュニア版に見た。
少し前置きの説明をさせてほしい。
かつての中高生向け『空想科学読本』は、挿絵も売りであった。
著作権の問題をクリアーすべく、ギリギリその作品ではないと言い訳できるような改変を加えた挿絵であった。
たとえば『キン肉マン』を扱った章であれば、額に「肉」ではなく、ローマ字で「NIKU」と書かれた人物のカット、といった具合である。
これが読者にはかえってウケていたらしいが、ジュニア版ではそうした権利問題をうまいこと解決したのか、すべて「モロ」描いている。
これがまたそれなりに楽しい。
『おおきなかぶ』を引き抜く一家がいかに怪力ファミリーであるかを扱った章の挿絵では、マッチョに力こぶを誇るネズミや孫らが、夕日に向かって凛然と歩みゆく勇ましい後姿が描かれる。
すなわち、本文における「科学的」検証を受け、その検証内容と物語のキャラデザとを素直に同居させたらいかなる世界が現出するか? を挿絵で実験してみせた壮大な冗談がこのジュニア版の挿絵群であり、いわば、「もうひとつの空想科学読本」である。
その「モロ」な絵柄を見ていて、気づいたことがある。
『こちら葛飾区亀有公園前派出所』を扱った章が2つほどあり、そこにも当然「モロ」『こち亀』な絵柄で、本文の「科学的」検証内容が描かれている。
たとえばオリンピック・イヤーにだけ目覚めるものぐさ太郎のような刑事について扱った章では、4年間も寝続けるためにはどれほどの水分や栄養を事前に与えておかなくてはならないかを「科学的」に検証する。
その結果、水は何トン、と数値が出る。
これが『空想科学読本』である。
さてその挿絵であるが、これは、主人公・両津がその刑事に、
「4年寝るにはこれだけ必要なんだよ!」
のようなことを言いながら莫大な量の水をせっせと飲ませている絵柄なのである。
また、後輩・中川刑事の裕福な実家がどれほどの面積の敷地なのかを、作中のセリフ等から「科学的」に推測する章では、あまりの広大さに敷地内で遭難する心配が述べられる。
果たしてその挿絵は、両津と中川がジャングルのような「中川邸」の中で、
「家の中なのに遭難してしまった!」
のようなことを言い、ヘトヘトに倒れこむ図柄なのであった。
そう。
すでにお気づきのことと思う。
これらの光景は、『こち亀』の作中に、もともとあってもおかしくないような光景ばかりだとは思わないか。
本文の検証と作品の世界観とを合わせることでシュールな笑いを狙った同挿絵。
しかし、こと『こち亀』の場合は、そのシュールな笑いを作品そのものがすでに持っている。
実は『こち亀』は、もともと『空想科学読本』的な作品だったのかもしれない。
さらに換言すれば、『こち亀』こそは自然科学などの言葉を使って「夢を壊し」ながら「夢を追う」という、「よくいる少数派」の極めてニッチなニーズに、実は昔から応えていた画期的な古典だったのでは、ないだろうか。

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