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「強気」と「弱気」な判断

私に大学生活で初めて時間という縛りにより、二兎は追えず、一兎だけしか仕留めることができない機会がやってきた。私は悩みに悩み、先輩に相談を持ちかけた。そんな時に彼は私にこうアドバイスをくれた。
「決断をするときは、弱気で受け身な選択ではなくて強気に選んでほしい」
選択をする際に「強気」、「弱気」があるということなんて今まで一切考えたこともなかった私にとって、彼のアドバイスは強烈であった。

「強気」の選択とは一体何であるのだろう?彼の本当のメッセージとは異なってしまっているのかもしれないが、私なりに解釈してみた。「強気」の選択とは、自分が将来輝いている姿がより想像できる方ではないかと考える。人生はレールの上を走る電車のように、安全に走行するわけではなく、脱線を何回も繰り返し、時には電車に轢かれる思いをしながら進んでいくということは、痛いほど理解している。そのため、妄想と期待から生まれる未来が、うまくいくという保証は一切ない。それでも、自分の近い将来、遠い将来を交互に見た際に、より煌めいた自分が見えた際にするポジティブな判断こそが「強気」の選択であるのだ。「強気」の選択には保守的な考えを捨てないといけない。そのため「リスク」も付き纏うし、もう一方を選ばなかった「後悔」も残るであろう。けれども、それは将来の結果でしかなく、判断の際に考慮する必要はないのだ。これが自分の思う「強気」の選択なのだ。

では、反対に「弱気」の判断とはなんだろうか?それは、自分のWANTと将来見えるビジョンは輝かしいのにも関わらず、保守的な環境に身を置いてしまい、新たな成長から逃げる言い訳を作ってしまう状態であると思う。この「弱気」の選択はほとんどの人が無意識的に行なってしまう。なぜなら、「弱気」の選択をしても、その場所や状況はその人にとって絶対に安全地帯であるため、わざわざリスクを冒さなくても一定のクオリティが保証されているからである。例えば、スタバが好きな人がいつもスタバしか選択せずに、新たなカフェや喫茶店には行かないという状況と一緒である。もしかしたら他のカフェにはその人が求めるさらに上のコーヒーがあるのかもしれないのに。人は最低的な保証さえあれば、そこに依存してしまうのである。
上記のカフェの例はプライベートの問題であるため、わざわざ殻を破りチャレンジする舞台にする必要はない。なぜなら、人は弱いため、心の拠り所も必要であると考えるからだ。ただ単にわかりやすい例だと思って使用した。
しかし、海外留学や、人生の中で大きな選択をする際にはこの保守的で「弱気」な選択をしてしまうと、新たな価値にも出会えないし、将来的な選択肢を狭めてしまうので、もったいない。

では、私自身はどうだろうか?自己分析をすると大学入学後、「強気」の判断をする機会が格段に増えたように思う。「WANT TO DO」のことがあったら、絶対に足を突っ込むし、会いたいと思った人は積極的に誘い、多い時には週7日毎日違う人と会ったりもしている。その分生活を追い込むため、体調を何度も崩した。でもこれがきっかけで休むことの重要性にも気が付き、自分のキャパ管理もできるようになってきた。これは「強気」の生活が産んだ副産物の一例であるが、全体的に見ても自分のQOLは爆上がりしている。しかし、自分ができない、やれないって思った時に「弱気」な思考で考えて、言い訳ばかり考えたこともある。さらに、「強気」な選択ばかりをすることは、普通の生活から乖離していく自分の生活に焦りも同時に感じさせる。地元の友達が、いわゆる普通の大学生活(一般的な大学生活の像)を送る横で、挑戦的な判断を下すことは、正直とても怖い。したくない時に「弱気」な言い訳だってしたくなる。けれども、社会に出る前の最後の大学生という時間、選択肢が豊富にある今のうちに「強気」な選択をしないと、これからどんどん時間がなくなり、責任感が求められる社会人になって選択をする時に、常に安全性を求めるようになり、保守的な考えに陥ると思う。それは自分の視野を狭めてしまい、どんどん社会が求める普通に近づいてしまう。そのため、これからももっと「強気」な選択をしたい。

この文章を読んでくれた人にはもう1度自分の生活を振り返ってもらいたい。あなたの大きな目標は自らのパッション、「強気」な選択から来ているのか?それとも社会が創り出した当たり前のフレームの中から選ばないといけない「弱気」な選択なのか?大学生という社会に出る前の最後の時間、もう1度自分を見つめ直し、是非「強気」な選択をしてもらいたい。


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