無題

Short story_亡姿実在

ミルラ_調香原料

「お父様はね、姿は無くなってしまったけれど、魂は雄太の近くにいつもついていてくださっているのだからね。」


その日初めて会った、チリチリパーマ頭のおばさんは、僕の手をぎゅっと握ってそう言った。お母さんは今まで見たことがないほど泣いていた。僕はずっと泣いているままのお母さんの腕を掴んで揺すって、なんとか顔を上げさせようとしてみたが、知らないおばさんにそれを止められた。その黒いワンピースの背中は中のムチムチで今にもはち切れそうだった。
担任の山形先生も僕の家に訪ねてきた。先生はいつものTシャツとジャージではなく、真っ黒で堅そうな背広を着て同じ色のネクタイをしていた。その見慣れないふざけた格好はともかく、僕はようやく馴染みある先生の顔を見つけて、なんだかほっとした。だって今日は、この家に知らない大人がたくさん詰めかけて、皆僕の顔を見ると、何も言わずに苦しそうな表情を浮かべて、それから目を反らすばかり。

山形先生にはいつも教室でする通りにふざけなければならない気がして、先生の目の前で変なポーズを決めてみたのだけど、そんな僕を見ても今日の先生は叱りも笑いもしないので、止めてしまった。

こんな非日常の1日を、13歳の僕は受け止めることができなかった。お母さんや大人たちをそんな風にしてしまったこの状況が怖くて仕方がなかった。父さんの死そのものよりも。

人が集まっていた広間を離れて、誰もいない2階に上がる。僕は父さんの書斎の前に来て、ドアノブに手を掛けた。決して勝手には入ってはいけないと言われていたけれど、もうそれを咎める父さんはいない。ドアを少し開けると、部屋の中から強い匂いがする。それは父さんの匂いだ。煙のような、線香のような、ツンとする整髪油のような、何とも言えない、ただただ強い匂い。時々、車を運転する父さんの横に座ると、この匂いがしてきて、そして僕はよく車酔いをした。
この父さんの匂いは、父さんが死んだ後も、書斎から消えはしなかった。むしろ強く匂うように感じられた。本人はもういないのに、その存在は決して消えない。
「お父様はね、姿は無くなってしまったけれど、」
おばさんが言った通りだ。父さんの魂、彼の存在は消えることなく、ずっとここに在り続けている。

大学の先生をしていた父さんは、突然学校で倒れた。病院に運ばれたが、そのまま意識が戻らず息を引き取ったと聞いた。青い顔をしたお母さんが、まだ掃除の時間中で友達とふざけ合っていた僕を中学校に迎えに来て、一緒にタクシーに乗って病院に向かった。タクシーの中で、お母さんは何も言わなかった。僕も何も話しかけてはいけない気がして、夕日が落ちて紺色が広がっていく空をただ眺めていた。惑星が一つ二つ、強く輝いていた。

それから母がどんな苦労をして、どうやって一人息子の僕を高校へと進学させられたのか、詳しく聞くことは無かった。母は仕事をしていなかった。金銭的には、おそらくは父の死亡保険金だとか、地方の資産家だった母の実家からの援助というものもあったのかもしれない。僕自身は、父の死によって何かを諦める、例えば大学進学の希望を捨てるといったようなことは幸いなかった。進学校の平凡な一生徒として、ただ目の前にある部活や勉強にだけ集中していった。
それは、意味の無い言葉を喋りつづけるようになっていた母から距離を保つためでもあった。父の死後、一時的に口数が少なくなった母は、暫くすると、頭に浮かぶことをそのまま口から垂れ流すように延々としゃべるようになった。僕は話しかけられているものかと思って、初めの頃は僕も返事を返したり、相槌を打ったりしていた。しかし、それらが全く意味をなしていないことに気が付いた。彼女は人が聞いていようといまいと、一日中、眠っている時以外は、常に喋りつづけた。それは彼女の視覚や聴覚などの感覚から入った情報の単なる実況解説のような時もあれば、誰かに対する恨みや批判を延々繰り返しているようなこともあった。僕は、それを気に留めないよう、聞き流そうと試みた。しかしそれはとても難しい、不可能に近いことだった。
ある日、僕の左の耳は聞こえなくなった。耳の奥に水が入って、栓をしているような感じがした。病院では、機能的な問題は見つからず、原因は不明だがおそらくストレスからくる突発性の難聴と診断された。その難聴は一月もすると快方に向かったのだが、それがあって以来、僕は勉強や部活を言い訳に、次第に家からは遠ざかるようになっていた。
それなのに。

駅前のドトールのカウンター席を陣取って問題集を広げている時、教室でイヤホンから流す音楽を選んでいる時、売店で弁当の代金を払う時、ふとした瞬間に感じるあの匂い。父の書斎の匂い。まさか、自分の服の袖や髪の毛にあの父の書斎の匂いが染み付いているのではないか、と本気で不安になり、友人たちに嗅いでもらった。その答えは意外にも頭皮が汗臭いと言われるのみで、あとは何の匂いもしない、強い匂いは無い、と言われた。しかし、自分では確かに感じる。常時ではなく、瞬間的に、時々匂ってくる。

「お父様はね、姿は無くなってしまったけれど、魂は雄太の近くにいつもついていてくださっているのだからね。」
あのおばさんの言葉を忘れることができない。父はこうやって僕の傍で存在を主張している。生前、父は朝早く出勤し、夜遅く帰宅、週末も大学の研究室に籠り、出張も多かった。物心がついてからも、それほど父に親しさを感じることはなかった。もともと口数も少なく、子供の相手になるような陽気さは無い人だったと思う。
それなのに、今、これほどにまで父をそばに感じている。今僕に纏わりつくその匂いは彼そのものだ。
逃れられない。
姿なき存在。これほどまでに個人を感じさせる。
消し去れない。

褐色瓶の堅い蓋を開けると、甘く重い匂いが漂う。ラベルには“サンプルNo16”とある。その黒色の粘稠な物質を精密天秤を使ってミリグラム単位で秤取る。小さなバイアルに取り、溶媒で希釈する。ムエットの先を浸し、静かに鼻に近づける。
「いかがでしょうか。」
「まあ、悪くないですね。」
「ありがとうございます。」
香料会社が新たなに開拓した生産ルートで製品化した、ある天然樹脂香料。代理店がそれを紹介に私のオフィスに来た。
化粧品、洗剤、整髪料、シャンプー、時に食品。
全てが香りを欲している。賦香を求めている。その存在、イメージを主張するために。
香りを付けなければ、洗い立ての女性の髪からは界面活性剤の基剤のプラスチック様の匂いが漂うことになる。
香りの力を、僕は今もどこかで恐れている。
その力を敵に回したくは無かった。それは特定の人に特定のイメージを与える力がある。
もし、その力を技術として身に付けられるのであれば、と調香師の道を選んだ。
未だに白衣を脱いだ瞬間、その日の作業で使った香料原料よりも強く、父の書斎の匂いを感じた。
香りは時として人の記憶の深部に消えない跡を残す。私は誰かにどんな匂いを刻むのだろうか。


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