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Short story_ある夏の蒼茫

香りの持つイメージを、小さな物語に表す試み
この物語から、あなたはどんな香りがしましたか?

UNWINDER  ESSENTIAL OIL_ JANESCE
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庭のレモンの木の前に立ち、目を凝らす。
葉脈だけを残した梢の先。
その先で、緑色の葉を縁から延々と齧り続けるのは、アゲハ蝶の幼虫だ。
ひとつに気が付くと、緑の葉の茂みの、そこにも、ここにも、たくさんいる。

昨日までは、数えられない程、もっとたくさんいた。
けれど今朝になって、母さんは割りばしで幼虫たちを摘まんで木から取っては、コンクリートブロック塀の向こうの藪の方に捨ててしまった。
あっちに捨てておくと、鳥がそのうち見つけて食べてくれるから、いいのよ、とか言って。

ある春の日、僕が見つけた、レモンの木の葉の芽。その裏に小さな球形の黄色い卵が付いていた。
それは、暫く見ぬ間にいつの間にか孵化していて、卵は破れ、殻だけを残し、葉の其処此処に小さな幼虫が這っている。

それから、夏が来るまでの短い間に、黄緑色のレモンの葉と同じ色をした丸々と太った幼虫が育っていた。

「ねえ、一匹だけはさ、木にいてもいいでしょう。残しておこうよ。もうすぐ蛹になるかもしれないし、蛹からキイロアゲハの蝶になるところを見てみたいんだ。」

母さんが丹精して、毎年幾つもの実を付けるまでに育ったレモンの木。
幼虫は、今年芽生えた若い葉ばかりを選んで食べ、枝は無残に丸裸になっていた。
それでも、まだその奥の幹には再び若い葉の芽が付いている。

夏休みの宿題の絵日記に書くのだと、僕は言い張って、
一匹だけは幼虫を木に残しておくことを許してもらった。

「一匹だけよ。それ以外に他に見つけたなら、ちゃんと取っておいてよ。本当に、あっという間に葉っぱが無くなっちゃうんだから。」

母さんにはアゲハ蝶の幼虫よりもレモンの木の方が大事。
蝉しぐれに包まれて、汗が首筋を伝って、顎から地面に落ちた。

藪にでもなりそうな勢いで茂りに茂って壁を覆っているのは、まだ肌寒かった春の日、僕が花屋さんで見つけて、買ってもらったマーガレットの株。
そっちにはなんの幼虫もいないようだ。
百日紅の花が、緑の芝生の上に鮮やかな花を散らしていた。

何もかもが目を開けていられないほど、眩しく輝いていたその夏。
きっと、来年も、その次の年も、僕に毎年変わらず訪れることが決まっているのだと信じていた。

「ん、じゃあね~。明後日、プールでね。」
手を振り大通りの方へ曲がっていったのは栗原チカコだ。
その後ろ姿は、ランドセルと三つ編みを揺らしながら青信号が点滅する横断歩道を走って行ってしまった。
夏休み中の久しぶりの出校日は、ビデオで戦争の話を聞いて、昼には下校になった。

横断歩道を渡り切って、こっちに手を振るチカコに、僕と、それから日菜子は手を振り返した。
そこから、こっちの道に残された僕ら二人は坂道を上って家へと向かう。
1学期の間、度々そうしていたように。
僕らの家は、丘の上にある団地の中にある。
チカコと3人で校門を出て、交差点でチカコと別れると、そこからの道は、しばらくふたりきりになる。

いつも声が大きく活発なチカコとは違って、日菜子は、あまり自分からはしゃべらない。
だから、日菜子と歩く帰り道、だいたいは、僕の方からいろんな話をしなくてはならない。

夏休みのプールの開放日は、今度は何年生と一緒になるんだっけ。
知ってる?山瀬は3週間も家族みんなでハワイに行くらしいよ。
どうでもいいことばかり。
ひとりごとのように、喋りつづける。

黙ったままで、ふたりで並んで帰るなんて、なんだか変だと思ったから。

日菜子は、僕の話に、細い声で返事をしたり、少し笑ったり、驚いたりしていた。
帰り道が一緒、それだけだった。
それだけの時間が、春の始業式から今まで、なんだかいつのまにか、毎日待ち遠しい時間になっていた。

1学期の間、下校になると、放課後の掃除を猛スピードで終わらせてみたり、校庭の鉄棒で、無駄に懸垂をして時間を潰したりして、校門を通るチカコと日菜子と一緒になるように工夫した。

そして、まるで偶然であるかのようなタイミングで、通りかかったチカコと日菜子と一緒に、僕も校門を跨いだ。
教室の中で滅多に喋ったりしない日菜子とは、普段言葉を交わすこともない。
席が隣だったチカコはいつも変なことを言って周りを笑わせている。一番大声で笑っているのはいつもチカコ自身だけれど。

ある日、学校からの帰り道でチカコが僕を見つけてちょっかいをかけてきた。それからだ。
「篤史、影踏んでやろうか」
「なんだよ、やめろよ。こっちだって踏んでやる。」
「日菜ちゃん、そっちから篤史を挟み撃ちしてよ。」
「なんだよ、女ふたりで、卑怯だぞ。」
その日から、何となく、3人でふざけ合いながら帰るようになった。
その間は、僕はチカコと一緒にいる日菜子に向き合える。


チカコと別れて、日菜子はいつもと相変わらず、自分から何かを言いだすことも無く、僕は日菜子の水色のジャンパースカートが揺れるのを見ながら、一方的に話す。
「うちにさあ、アゲハ蝶の幼虫がいるんだよね。もうすぐ蛹になりそうなんだけど、なんかさ、鳥に見つかったら食べられないかって、心配なんだよね。」
「幼虫なの?なんで幼虫なのに、アゲハ蝶になるって分かるの?」
「そりゃ分るよ。図鑑で見たもん。母さんもそう言ってるし。レモンの木に付くのはアゲハ蝶の幼虫だって。」
「へえ、そうなんだ。私はアゲハ蝶の幼虫は見たこと無いよ。あの黒と黄色の羽のアゲハ蝶なの?」
「そうだよ。キイロアゲハ。幼虫はだいぶ大きくなったから、もうすぐ蛹になって、羽化したら、アゲハ蝶だってはっきり分かるよ。」
「うか?」
「そう。羽化。蛹の中から蝶になって出てくるんだ。」
「面白いけど、ちょっと怖いね。幼虫って芋虫みたいなんでしょ?」
「芋虫、まあ、というかさ、、。」

思いの外、日菜子がアゲハ蝶の幼虫の話に関心を持ってくれたことに、ちょっと慌ててしまった。けれど、僕は少し得意気になった。

「ねえ、うちに見に来ない?ちょっと前までは沢山いたんだよ。でも、母さんが殆ど捨てちゃったんだけどさ、一匹だけ、残してあるから。」
「見たい。」
「よし。じゃあ行こう。こっち。」

いつもは、そこで別れる十字路から、今日は日菜子が僕の家の方に真っ直ぐ向かう。
僕の家はまだ造成中の原っぱが残る丘の上の方で、坂道はきつい。
日菜子が少し遅れて、頑張って坂道を歩いているようだ。
張り切って早足になっていた僕は、足を緩めた。
道のカーブに来ると、緑の葛の蔓に覆われた崖より下の方には、街が小さく広がっているのが見える。
「うわ~、こっちは高いところにあるね。学校があそこに小さく見えるよ。」
指さす崖の下に、いつも広い校庭が、指の先程の小ささだ。

「そうだね。」
日菜子が嬉しそうにしているのを見るのは、僕も嬉しかった。

「ただいま~。ちょっと、ちょっとさ、庭のレモンの木のさ、幼虫見てくるよ。」
ランドセルを玄関に投げ出し、門のところに待たせていた日菜子を庭のレモンの木に案内する。
帰って来たからといって、普段は「ただいま」も言わないで、母さんに叱られている僕が、玄関から急に大声を出したから、キッチンにいた母さんはびっくりした顔をしていた。

日菜子を案内して、自慢気にレモンの木の幹を指さし説明する。
一緒に葉の茂みの中を覗き込むと、いた。丸々と太った幼虫が、やっぱり葉を齧っている。
「もうすぐだ、もうすぐ蛹になると思う。一昨日とは少し色が変わって来た。」
「そうなの?なんか怖いね。小さい怪獣みたいだね。」
「これがアゲハ蝶になるんだからすごいよね。絶対その瞬間を見てやる。」
「へえ、」
目を丸くする日菜子を見て僕は、これまで図鑑で読んだ、蝶々の羽化について、得意になって説明した。

様子を見に庭に出てきた来た母さんは、僕らを見ると「篤史、あらら、そういう事か。」と聞こえるような独り言を言って、にやにやした顔をして、また家の中に戻っていった。

「ねえ、いつ蛹になる?」
「これはもう、明日か明後日かには蛹になるかな。」
「じゃあいつ、蝶になるの?」
「羽化するのは、そうだなあ。たぶん夜明けだよ。きっと。」
たしか蝉も朝方に羽化するんだったっけ。
「見てみたいな。」
「おお、来なよ、見においでよ。そうだ。僕はさ、今日からここにテントを張ってキャンプする。そして、羽化しそうになったら、呼びに行くよ。日菜子の家、ここからすぐだし。」
「でも、夜明けごろって、何時? 6時?」
「いや、6時は遅いよ。もう明るいもの。ラジオ体操に行く頃にはもう羽化して、アゲハ蝶が飛んでってしまうかもしれない。5時だな。」
「5時って、まだ暗い時間、夜じゃない?」
「大丈夫だよ。僕はここでテントを張って一晩中起きて、見張っているから。」
「朝5時に、私、家を出られるかしら。」
「僕がさ、迎えに行くよ。朝5時に。蛹が出来たら、君の家に朝5時に迎えに行く。だから、明日か明後日かだけど、いつでも朝に起きられるようにしておいて。」
「分かった。約束よ。私、明日も明後日も、朝の5時には家で起きて待ってるから。」
「ああ。約束だ。」

その日、夕方にレモンの木を覗きに行くと、濃い緑の葉の裏に蛹が出来ている。
「ただいま。」
玄関でその声がするのを待っていた。
夜になり仕事から帰ってきた父さんを、迎えて捕まえる。
「ねえ、ねね、父さん、今日から、庭でキャンプしていい?」
「なんだ、急に。今日からって、今晩からって事?」
「そう。」
靴を脱いでいる父さんが、そのまま靴も脱がずにガレージのからテントを出して、僕の希望通りにレモンの木の前にテントを張ってくれないかな、と奇跡を願った。
「ねえ、去年も庭でキャンプしたよね。僕一人でさ、外でテントで寝るの。今晩したいんだ。もしかすると明後日も。」
「ああ、そういえば、去年、ペルセウス座流星群をみるとかで、庭にテント張ってキャンプしたな。」
「今日から、夜明けに蛹が羽化するのを見逃さないように見張るんだ。」
「そうか。でも、今からテントってのはな。」
父さんから弁当箱と水筒を受け取った母さんが言った。
「今晩って、篤史、これから台風が来るのよ。今晩から明日朝にかけて暴風警報が出るんじゃないかって、天気予報が言っているわ。」
「篤史、台風が通り過ぎたらやろう。週末になんかどうだ。」
「いやだ、それじゃあ蛹が羽化しちゃうよ。」
「そうは言っても、台風じゃ、テントも出せないし、蛹だって台風じゃ飛ばされるかもしれない。」
そんなひどいことを言う父さんに、急に腹が立った。
「嫌だ。」
僕はそう言って、玄関から外に出て、庭のレモンの木に向かった。

暗い庭では、木々が揺れている。
生暖かい風が強く顔に当たり一瞬息ができない。
夜の闇に、ごーっという風の音を聞いた。確かに、台風は近い。
夕方はあんなに夕焼けがきれいだったのに。
風の音が急に怖くなって玄関の中に戻った。
「風で何か飛んでくると、危ないから、もう外に出ちゃダメ。」
母さんが怖い顔をして僕を家の中から呼んでいる。
「嫌だ。蛹が飛ばされる。」
「篤史、今夜は仕方ないよ。そうだ、今度長野のじいちゃんの家に泊まって、カブトムシを掴まえよう。」
父さんが言ったが、そんなのはダメなんだ。
「嫌だ。」
母さんと父さんは、顔を見合わせて同時に溜息を吐いた。

約束をしたんだ、日菜子と。
迎えに行くって、羽化を見せてやるって。

その晩は窓を激しく打つ雨粒や風の音で、眠れなかった。
レモンの木に付いた蛹が心配で、これじゃ明日の朝、5時に日菜子を迎えに行けなくて、ベッドの中で、悔し涙が出そうになる。
日菜子は、もしかすると僕が呼びに行くのを今も待っているんじゃないだろうか。

結局、台風は丸一日大雨と暴風でこの静かな街を散々荒らして、去って行った。
あんな強い風と雨に打たれたのでは、蛹も、レモンの葉だって千切れてしまっただろう。
なにか、大きなものを奪われた気がした。
怖ろしい轟音の風は止み、まだ湿度を含んだ風は吹くが、向こうの空の雲の切れ目に少し夕日が見えた時、思い切って庭に出てレモンの木を見に行った。
「あっ。」
思わず声が出た。
多くの葉が散り散りに飛ばされてしまった中、その梢に一枚、濃緑の葉が残され、その裏には太い蛹がそのままの姿でくっついている。
まだ羽化はしていない。中にいる!
きっと明日の夜明けに羽化が始まる。
もう庭でテントを張ってキャンプはしなくていい。

けれど、朝5時に、日菜子を迎えに行こう。
隣のブロックにある日菜子の家までは10分とかからないだろう。
興奮とともに目覚まし時計のベルを4時半に合わせた。

目覚まし時計のベルに起こされると、まだ世界は夜の中にあった。
「んだよ、まだ夜じゃないか。いやっ、違う。行かなきゃ。」
ベッドから飛び起きて慌てて着替えた。

音をたてないようにそっと玄関を出て、街灯の灯りを頼りに、日菜子の家がある隣のブロックに向かう。闇夜の空の下、親に内緒でひとりきりで出歩くのは初めてだった。
日菜子の家ならばよく知っている。

全力で走ったから、という間に日菜子の家に着いたけれど、とてつもなく遠くまで来た気がする。
夜闇の中を走った緊張のあまり汗をかいた。
日菜子は、起きているだろうか。
こんな時間にチャイムを鳴らして、いいものだろうか。眠っている家の人まで起こしてしまうかもしれない。
いや、もしかすると、日菜子だって、まだ今朝は起きていないかもしれない。

僕は自分のひとりよがりで、ここまで来てしまってはいないか、と急に不安になった。
いや、日菜子は羽化を見たいと確かに言っていた。約束したんだ。
だから、今この一瞬を、逃すわけにはいかないんだ。
暴風雨の中を耐え生き延びた蛹を、羽化を見せたい。
「ひ~な~こ~」
道の街灯の下で、日菜子の家に向かって小さな声で叫んだ。
変な感じだ。もう一度、思いっきり、声を殺して叫んだ。
「ひ~な~こ~、おーい。」

あれ、家の中に明かりが点いているようだ。何人か動いている影も見える。なんだ、日菜子の家の人達は、もうみんな起きてるのか?早起きだな。
起きているってことは、チャイムを鳴らしてみても、いいのかな。
日菜子はもう準備して待っているかもしれない。

暫く迷って門の前を行ったり来たりしていたけれど、東の空の端がほんのり闇を照らし出したころ、たまりかねてチャイムを押すとピンポーンピンポーンと眠っている街中に届く様な大きな音がしたので、飛び上がってしまった。

少し待っていると、突然ガチャリとドアが開いた。
日菜子が出てくるとばかり思っていたから、男の人、制服姿の、日菜子の兄が出たので思わず後ずさってしまった。
「ああ、あの日菜子、いますか。6年3組の内田篤史です。いや、蛹が羽化するのを朝見るって約束していて。」
制服姿の兄の後ろから、日菜子のお母さん、だろうか。出てきてくれた女の人は何も言わず僕を見ている。その後ろに何人もの人がこちらを覗いていた。
どうしたのだろう。

「日菜子のクラスメイトかな。もう、訪ねてきてくれたの?」
日菜子の母が小さな声で言った。
「え、もう、って。僕たち、約束を。」
「どうぞ入って。」
肩を抱かれるようにして、家の中に招き入れられた。

日菜子の家は、中に入ると、いつも日菜子から香っているのと同じ匂いがしていた。
清潔で、なにか頼れるものに護られているような、僕の家では嗅いだことがない、香りだった。

けれど、なんだか、怖かった。
そこには何人もの人がいたけれど、皆、俯いて黙っていたから。
奥の部屋に、たくさんの花が飾ってあった。明かりがついていて、そこには布団が敷かれていた。

玄関でチャイムが鳴って、人の話声がした。それから、バタバタと足音がした。
「内田君。」
「溝口先生?え、なんで。」
担任の溝口先生だ。何で先生が日菜子の家に来るのだろう。
「そっか、お家がご近所だから、駆け付けて来てくれたのね、内田君。」
僕はなんだか身体が凍ったようになった。どうしていいか分からない。
大人たちは先生を囲み、ぼそぼそと言葉を交わしている。

「救急車が着いた時にはもう。」
「台風の最中で、今回は、薬が効かなくて、どうしても発作が収まらなくて。」
「苦しかったでしょうけれど、もう苦しむこともないでしょう。安らかに眠っています。」
溝口先生が顔を覆い泣きだす後ろ姿を見て、僕の膝は震えだした。

「一昨日の晩、また日菜子の喘息の発作が。」
僕の後ろにいた日菜子の兄が、僕に話しかけていたけれど、僕はそれを最まで聞くことが出来ず、ひとり玄関に向かい、大声で叫び出しそうな口を両手で押さえて、走っていた。

此処の家にいる人の誰にも、「日菜子はいますか」と、尋ねることはもう出来ない。
もう、「日菜子はいますか」って、言えないんだ。

外は、さっきまでの夜闇が払われ、何もかもが青い色に包まれている。

青い世界。

住宅街を全力で走り抜けた。
何処に向かうためなのか、自分でも分からない。
丘の道のカーブにあるガードレールを飛び越え、造成予定地の広い原っぱに入った。

台風の後の夜露に濡れた草でズボンが濡れていく。
丘から見下ろした街も青い光に包まれている。
街路灯が点り、夜と朝の境目を越えられない。

暴風雨に荒らされた草原を、転んで倒れるまで、全力で駆けた。
草の中から顔を上げると、辺り一面に黄色い花が咲いている。
月見草の黄色が覆う丘、そこだけが青い世界の中で金色に輝いていた。

この世には、まだ知らなかったこれほどに美しい光景がある。
それを君に知らせることが、もうできない。
「あーっ、あーっ。」
何処から出てくるのか分からない声で叫んだ。遠くでどこかの家の犬が鳴く。僕はいつまでも、叫んでいた。

濡れそぼった服で、これから小学校の校庭でラジオ体操へと向かう低学年のグループとすれ違い、家へ辿りつく。
庭に回って、レモンの木の前に立つと、崩れるように膝をついた。
「はっ、」
目の前で、今、まさに蝶が羽化しようとしている。
熱をもった夏の朝陽が、レモンの木の先端を照らしている。
その一枚の葉の上で、まだ弱々しい曲がった羽を風に晒す、アゲハ蝶。
陽が徐々に昇っていく中で、次第に羽を広げ、動きだし、陽射しが羽に当たったと同時に、ゆらゆらと空に向かっていく。空の色の中にアゲハ蝶が消えて見えなくなるまで、ずっと見つめていた。

そのとき、僕の夏の時間はぷつりと切れた。

時間の濁流は、容赦なく僕だけを呑み込んで、押し流していく。

いつも、そのことを想っているわけではない。
それでも、夏が来るたびに、沸点を越えて沸き上がる、恐怖や悔しさ、悲しみ。
生きなければならない、僕の痛み。

月見草の花が覆うあの丘で、水色のジャンパースカートをはいた少女の姿は、まだあの頃のままで、僕に手を振っている。

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