見出し画像

玉手箱

Pleasures ESTEE LAUDER by Annie Buzantian and Alberto Morllias, in Firmenich

この香りを纏うようになって、四半世紀が経った。

そんな事実が、まるで他人事のように思える。だって私はまだあの頃と変わらず同じ電車に乗り、ファッションやメイクに興味を持ち、次の冬の旅行の計画や、美容院の予約、週末には友達と新しいビストロに行く約束がある。変わったのはこの街の様子と、手にするものが雑誌から端末になったことだけ。


20代の初め。
その頃、好きだった人から「里香からは、いい香りがするね。」と褒められた。それをきっかけに初めて意識して纏うようになった香りがPleasures。

それからは、ずっと変わらず、その香りを呼吸しながら今に至る。
出会いは、口紅を買いに行ったデパートで、たまたま試供品でもらった1mlのお試しサンプルチューブに入っていたもの。外国コスメブランドの香りはいつも強すぎて嫌遠していたけれど、それだけは気に入った。私自身にも心地良い香り_Pleasures_ESTEE LAUDER

コロリとしたシルバーのキャップの瓶はドレッサーのレギュラーメンバーの位置を他に譲らない。メイクアップの仕上げには、そのフェミニンな香りを纏うのがマスト。 
Pleasuresの香り無しでは、服を着ていないのも同じこと。
紙パッケージの色がモデルチェンジした時には、売り場からいつものPleasuresが無くなってしまったのかと勘違いし、冷や汗をかいた。
幸い、フレグランスラインのpleasuresは継続して販売されている。香水に限らず、気に入っている日常愛用品の生産終了は、私を恐れさせる。
あれからずっと、変わらない気でいる、私を恐れさせる。

突然の歯痛で虫歯を疑い、歯科に行った。
「知覚過敏ですね。年齢とともに歯茎が下がってきているので、歯ぎしりなんかして根元の摩耗が激しくなると、どうしても起きてきますね。知覚過敏用の歯磨きを使うようにして下さい。」
その2週間ほど前、眼科では、
「近視が進んだということではありません。見えにくくなっているのは老眼のせいですね。老眼鏡を作って下さい。」
と言われたばかりだった。
美容院では、
「グレーヘア用のカラーリングもありますよ。」
と薦められた。

分かっている。
私の瞼の皮膚は徐々に張りを失っている。つり革につかまった腕の皮膚は、隣の若い子の白く艶やかな皮膚とは明らかに違っている。けれども、色がくすんでいて皮溝や弛みが目立つそれが、自分の腕という認識になかなか繋がらない。

「里香は、独身だし、子供もいないから、いつまでも変わらず若いままね。羨ましいわ。私なんか見てよ、こんなに太っちゃったし、もう海外で水着とか絶対無理。その上、この顔のひどいシミ。もう諦めているけれどね。」
久しぶりに会う同級生からの、挨拶代わりのカウンターパンチ。
私は大学を出てすぐに、日本を代表する企業の一つに総合職で入社した。それはつまり、女性の半分が結婚退職していた4半世紀前の社会システムの中で生きてきた、ということ。私の世代で会社に勤めている女性は独身者が少なくない。仕事はまあまあ楽しい。海外出張にも連れて行ってもらえる。食事くらい誘ってくれる男性も数人いる。両親は、私が婚期を逃した、と言うけれど、婚期など一体何時あったのだろうか。
独身でいることに何の不自由も、違和感も感じていない。同世代の独身女性は皆、いわゆる実年齢から想像する姿よりも10から15歳程若く見える。スタイルもセンスもよく、艶やかな髪を豊かに巻いて細い足首のアンクレットが似合う。私たちの生きてきた道に、結婚する必要性など何一つ見当たらなかった。
他方、同世代の男性社員は全員既婚者だ。働きながらも、家庭では子供の面倒を見始めた男性が現れる世代。けれど、お仕着せに用意された育児休暇に手を出す男性社員は誰一人いなかった。
家庭に入った女性、家庭に入っていない女性、全く別の物語の中の主人公。だから、それを比較したり、まして優劣を感じるのは本当に無意味で、羨ましがられても、見下されても、どちらであってもため息が出る。
ただ、私の生活には子供という時間経過と成長を否応なく感じさせる存在がないので、年月が流れ過ぎるものだということを忘れがちだ。自分の年齢さえも正確に思い出せないことがある。エイジングを意識することも、逆らうことにも、無関心で、それは自分が老いるなんて事への想像力の完全なる欠如った。

伊勢丹新宿店に寄るのは平日の夕方、仕事帰りがいい。
休日は、店の混雑、というよりも密度高く集まってくる人たちの中に居て息ができない。それは底無しの物欲の祭り。
平日の夕方は、休日とは違い、私と同じように都心で日中働き戦ってきた人たちの狩場となる。足早にフロアを歩き過ぎる。セリーヌでは仕立ての良いシャツを仕事用に買った。フェンディでひとめぼれしたブーツは少し早いが自分への誕生日プレゼントだ。少なくない支出に痛みがないわけではない。けれど、明日も機嫌よく働くためには欠かせない栄養剤であり、ファッションは自分を守り助けてくれる武器にもなる。もちろん、ブランド信仰などとっくに捨てている。品質重視。ユニクロではTシャツもスパッツも買う。
そして、ドレッサーの上のPleasuresの瓶の残りが心許なかったことを思い出した。丁度いい。化粧品売り場にも寄って行こう。
化粧品売り場のカウンターの傍では若い女性がふたり口紅を選んでいる。豊かな黒い髪を背中に流し、パンツスーツ姿の似合うスリムな長身。プラダのバッグはしっかり働いてしっかり支出している証。
ふと、その後ろを通った時にPleasuresが香った。
ぞっとするほど、彼女たちの生気に相応しい。透明感のある肌。しなやかな長い腕。小鳥のさえずるような声。その若さや華やぎが、目にも見えるように、熱を感じられるほどの雰囲気があった。Pleasuresが包む空気。

化粧品売り場にある幾つもの鏡が自分を映している。
鏡の一つが映す、鋭さが消えた私のフェイスライン。別の鏡が、余裕と貫禄を湛えた目元を拡大して見せる。若さとは引き換えに、いろんなものが身に付いた分、よく使われた鞣革のような艶が浮き出ている。それは決して醜悪な老いなどではない。何かもっと、別のもの。けれども、私はそこに映るのが25年前の私とは全く異なる人間であることを、突然理解した。
そして、Pleasuresがもはや自分の香りではなくなっていることを、理屈ではなく、嗅覚ではっきりと感じ取り、化粧品売り場を後にした。

新宿の雑踏からは別世界の、住宅街にある自宅最寄駅を降り、ようやく涼しくなった夜路の空気を深く吸い込む。どこからか香る気がする木犀の気配。それはとても静かな、そして豊かな、時を経た花木の香りだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?