中国歴史旅「雲崗石窟と龍門石窟」⑱「曇曜五窟に感動した雲崗石窟」

画像1 中国歴史旅「雲崗石窟と龍門石窟」⑱「曇曜五窟に感動した雲崗石窟」記録者形山裕幸隊員 十月二五日晴、中国最古の八角木塔である応県木塔の見学を午後二時過ぎに終え、高速道路の応県インターチャンジに向かいました。  高速道路を約一時間ほど走り大同インターチャンジで降り、中国五大石窟の一つである雲崗石窟に向かいました。  中国の高速道路の使用料は三八人乗りのバスで四五元(日本円で七百円程)と日本に比較して大変安価であることに驚きました。
画像2 高速道路を降りてから給油のためにガソリンスタンド(加油站)で給油。中国では軽油のことを柴油と表記されています。ガソリンは汽油と表示され、オクタン価の違いで九三、九五等があります。給油後は、スマホで給油量等を撮影、処理され、キャッシュレスが進んでいることに驚きました。山西省の高速道路でのバスの最高速度は九十㎞で日本よりも低く設定。ガソリン給油後、一般道路に出てすぐに大渋滞。隙間を少しでも空けると割り込みされることを恐れ、どんどん車が突っ込んできて動きがとれない状態が約二十分ほど続きました。
画像3 山西省には三五箇所の火力発電所があります。自省の電力需要を満たしており、北京や天津に電力供給を行うなどしています。また、山東省に送電することにより、山東省の電力不足の解消を図っています。  予定の時刻を大幅に過ぎて雲崗石窟の駐車場に到着したのが午後四時半頃で、日も落ち初め影も長く伸び、肌寒く感じる様になってきていました。
画像4 急いで入口に向かう。建物の入口を抜けると正面に、石窟の開鑿を皇帝であった文成帝に上奏した曇曜の巨大な像がシンボリックに立っていました。日も陰りはじめ、早速石窟の見学に向かいました。 【曇曜:生没年不詳、中国の南北朝時代北魏第三代太武帝の廃仏より復興した仏教教団の中心人物となった僧。『魏書』中の「釈老志」の記述によれば、元は涼州(甘粛省)の僧であったとされます。】
画像5 雲崗石窟は、山西省大同市内(緯度としては日本の青森県とほぼ同じ)から約六㎞西方の武州(周)山の南の麓の武州川北岸にあります。東西約一㎞に約四十の石窟が開鑿されています。この遺跡は、遊牧民族の一つである鮮卑が興した王朝、「北魏」の巨大な美術遺跡です。現在の大同市は南北朝時代には平城県と言われていました。
画像6 北魏時代の旧称を武州山石窟寺或は代京灵石窟(霊厳寺)等と言われました。明代に雲崗石窟と改称されました。近隣には、雲崗石窟の一群とされる小規模な石窟が一箇所、他には三箇所の小規模な石窟があります。  石窟は明治三五年東京大学助教授伊東忠太(築地本願寺、明治神宮、平安神宮等を建築設計)により北清建築調査のため山西省大同を訪れたとき偶然発見され、その後、建築雑誌に発表されました。
画像7 石窟は、北魏興安二年(西暦四五三)に造営が始まり、大部分は北魏が洛陽に遷都する以前の西暦四九四年に完成しましたが、正光年間(西暦五二〇年から五二五年)まで続きました。主要な洞窟は四五、附属洞窟二百九、彫刻の面積は一万八千㎡程です。石仏の最大の高さは十七㍍、最小は数㌢ほどの大きさです。仏龕は合計約千百以上。大小合わせて五万九千程の造像があります。 この石窟は「紀元五世紀の中国と西洋文化の融合の歴史的に高い石碑」といわれています。
画像8 雲岡石窟の仏教芸術は石窟の形と構造、造像の内容とスタイルの発展によって、早期、中期、晩期の三段階に分けられています。  早期の石窟は、第十六窟から第二十窟で曇曜五窟ともいわれています。曇曜が文成帝に山の石壁を彫って石窟を五ケ所開き、各窟に仏像を一体ずつ彫り出すことを奏上したとのことです。(「魏書」にこのことが記載されています。)
画像9 曇曜五窟はいずれも楕円形の平面にドーム天井を持つ構造を持ち、それら一つ一つに十五㍍前後の巨大な仏像が彫られています。これらは全て北魏の歴代皇帝を模したものであるとされ、第十六窟から初代皇帝道武帝、第十七窟は二代皇帝明元帝、第十八窟は三代皇帝太武帝、第十九窟は四代皇帝南安王、第二十窟は五代皇帝文成帝であると言われています。
画像10 これらは「皇帝は仏の生まれ変わりの如来である」という独特の思想【皇帝即如来】(皇帝即当今如来)を形にしたものです。皇帝を模した大仏を作ることによって、皇帝の威厳を高めようとしたと考えられています。  また、遊牧民族の一つである鮮卑が興した王朝、「北魏」の君主たちは、華北の漢民族や遊牧民族を支配するために、仏教を利用しました。このため、仏教が民衆に広く浸透していきます。
画像11 曇曜五窟(早期)の次に作られたのは、孝文期(西暦四六五年~四九三年)の第一石窟から第三窟、第五窟から第十三石窟が中期です。雲岡石窟が開鑿真っ盛りな段階で、北魏の最も安定的で、最も栄えている時期でした。雲岡石窟は全国の優秀な人材を集中して国力を背景に、素晴らしい雲岡石窟の大きな洞窟、大きな像を彫り出しました。洞窟の形と構造から彫刻の内容と風格まで漢民族化の特徴が現れています。
画像12 この石窟の最後に芸術的にも雲崗石窟の代表作である第二十窟を見学しました。白仏洞と言われ西暦四六〇年~四七〇年に造営されました。窟の前の壁と天井は早くから倒壊して、遼の時代に木造の庇が掛けられましたが、後の戦争で壊され、露天の像となりました。このため別の名称で【露天大仏】や【露坐の大仏】としても大変有名です。 仏像は、結跏跌座をしており、高さ十三㍍七十㌢。胸から上部の石質が硬く、風化が少なかったため、ほぼ完璧な形で保存されました。この大仏は岩肌が白く特に美しいので「白仏爺」とも呼ばれいた。
画像13 仏像の顔は彫りが深く、鼻筋が通っており、また、眼は大きく、唇が薄く如何にもインド系の様な感じもしました。いままでにみた石仏とは違う感じがしました。  この石窟で一番印象深いとのことがよく分ります。雲崗石窟の写真ではこの第二十窟の仏像がよく使われます。中国に於ける初期の仏教の彫刻芸術の前例のない傑作です。

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