中国歴史旅「雲崗石窟と龍門石窟」㉔「中国最初の世界遺産ー平遙古城」

画像1 中国歴史旅「雲崗石窟と龍門石窟」㉔「中国最初の世界遺産ー平遙古城」記録者野呂紘一隊員二〇一九年一〇月二七日(日)午後二時 見学開始。  以下は馬さんの案内によるものです。  「平遥古城は広いので、百人乗りの電気自動車に乗って南へ行きます、入場の時パスポートが必要になる箇所が四つあるので、パスポートを無くさないようにしてください。南側から左回りに見学します。見学時間は二時間です。もしはぐれたら北を目指してください。
画像2 城は山西と世界の文化遺産です。中国語で瓦城、英語でUrn Townと表記されています。中にある建物の三分の二は個人の家です。城が敵に攻められた時は、瓦を落として攻撃します。瓦は城の中で造っています。城壁の上に並べてある五本の大砲は清の時代のものです。清王朝は明治時代になって日清戦争で日本が勝利するまで続きます。  南大通りは明の時代からの繁華街です。建物のほとんどは清の時代のものです。
画像3 人口は四万八千人です。現在、ガイド(鄧晄燕)さんの両親が平遥古城の中に住んでいます。  大成殿(孔子廟)を見学しました。  大成殿は漢の時代八四〇年に作られましたが、壊れたため一一六三年に建立されました。大成殿の旗の「魁(さきがけ)」の字の鬼の頭に点「、」が無いのは、ここの人達は頭が悪く勉強の成績が悪く、一番の人はいませんと云う意味です。つまり、お役人にはなれませんと云う意味です。普通の人の給料が百両に対して、県庁に勤めている人の給料は四百両です。
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画像5 黄色のお守りは試験の成績、赤は無事です。  平遥古城内には学校、工場、病院なども備わっており現代においても旧市街だけで都市機能を有しています。これらの古城内の職場には、古城内の学校を卒業した者だけが就職し、外からは取りません。就職後三年間給料はもらえません。
画像6 平遥県署の建物を見学しました、ここは役所でした。一九九七年平遥古城が世界遺産に指定されたために、ほかの場所に移されました。正門は客が有る時に使い、右門は普通の人が使い、左門は囚人が使いました。  刑務所、裁判所を見学しました。牢獄は二人部屋でオンドル付きでした。刑罰で使用される様々な道具が展示されていました。削る場合は上の方から行います。  次に平遥県衙(けんか)を見学しました。此処も裁判所です。告発者の立つ足型の場所、そして被告発者の膝まずく膝の位置が示されていました。
画像7 次に平遥県衙(けんか)を見学しました。此処も裁判所です。告発者の立つ足型の場所、そして被告発者の膝まずく膝の位置が示されていました。  建物に大き親民堂と言う明の時代からの額が掛かっていました。「親民堂」の民に点「、」が打ってあるのは「民を平等に扱う」という意味です。  裁判の様子が説明され、木の札があり、赤札は死、黒札は不通刑でした。
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画像12 清の時代の一番大きな銀行が此処に在り、切手(小切手) が使用され、又、電報でお金を全国に送っていました(送金為替業務)。  票号博物館は当時の手形・小切手の博物館です。一九世紀初め,山西省平遥県に本店をもつ日昇昌が最初です。  金銀延べ棒の地下室、観光客も上から覗けるようになっています。
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画像15 以上、見学終了。 「平遥古城の歴史」  平遥(へいよう・ピンヤオ)古城は中国・山西省の中部、太源盆地の一〇〇キロ南西端に位置する城郭都市。一九九七年、中国最初の世界遺産に登録されました。古城内に学校、工場、病院なども備わっており現代においても旧市街だけで都市機能を有している珍しい都市となっています。  最初から王一族の家だったわけではなく、清(一七世紀~)の前の明(一四世紀~)の時代は一般の人々が住んでいた城郭都市でした。

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