岐阜のルーツ「曲阜」と水の都「杭州」を巡る旅④ 平成二九年二月十七日「宋都に香る悠久の歴史ー杭州市と西湖」

画像1 岐阜のルーツ「曲阜」と水の都「杭州」を巡る旅④ 平成二九年二月十七日「宋都に香る悠久の歴史ー杭州市と西湖」記録者白木一利隊員 杭州市は中華人民共和国の華南地方に位置する浙江省の省都、その中心には二〇一一年に世界遺産に登録された西湖がある。 秦の始皇帝がここに銭塘郡を設置したのが始まりとされている。北京と杭州を結ぶ京杭大運河の工事が進められ唐代には南北を結ぶ運河として整備された。このころ遣隋使や遣唐使が船で運河や河川を利用して洛陽や長安に向かい映画にもなった井上靖の天平の甍を思い出す。
画像2 五代十国時代に呉越の国都となり九六〇年には北宋が興り開封で中央集権化、科挙官僚が主役の時代となり、それは小説水滸伝の世界。北方の女真族金が契丹を滅ぼし、黄河を渡河して南進、宋の都は陥落のなかで逃げ延びた皇太子が南京応天府で即位し(南宋初代皇帝高宗一一二九年)、杭州を臨安と改称し、一一三八年には遷都した。金の南進は華北社会の混乱をもたらし、時の政府と共に皇室、官僚、軍隊や多くの流民が新天地を求めて南下した。
画像3 江南では豊かな水資源に恵まれ造船、水運組織の進化もあって大動脈としての長江、銭塘江、多くの河川や運河で結ばれた内陸沿海部諸都市を結ぶ水運が発展。その結果各地で塩、茶、果物、砂糖その他農産物、木材、絹織物、陶磁器、紙等の特産物の生産が盛んに成り、全国規模での商業活動の隆盛を背景に杭州(臨安)は南宋経済の中心地となり一二七四年には人口一二四万人の大都市へと成長し繁栄を極めた。
画像4 南宋時代から元代にかけて繁栄した杭州も明、清代には一地方都市となったが風光明媚な杭州は相変わらず皇帝を始め政府高官、文人が訪れる古都であった。  二月十七日早朝、杭州友好飯店二〇階の回転展望レストランで西湖を眺めた朝食後ホールに集合し、バスに乗車してプラタナス並木の湖畔道を走行した。しばらくして西湖遊覧船乗船場に着いた。
画像5 記録者の白木一利隊員
画像6 「三潭印月」 湖底の泥で造られた西湖に浮かぶ小島。小瀛洲は遊覧船に乗れば必ずここを巡る。上陸すれば西湖の水中盆栽と言われる水上庭園を鑑賞することもできる。島の南面に三座の石塔がある。宋代に創建され明代に補修された。塔の高さは約二メートル。明月が湖上に出ると「天井月一輪湖中影三」を成すと言われる月を愛でる名所。 最近は庭園部分が拡張され水上野外ステージが設けらている。
画像7 今年は、岐阜市と杭州市碑文交換から五五周年、日中両国関係改善のため、岐阜県日中友好協会では杭州市で開催される西湖マラソンの応援などを計画されている。 「雷峰夕照」 雷峰山の頂上に立つ雷峰塔が創建されたのは九七七年、呉越王銭弘俶が妻の黄妃の男児出産を祝って建立した塔である。しかしこの塔は磚と木で造られ落雷で倒壊したり、明の時代に倭寇の襲来により焼かれ塔身のみなる。
画像8 「柳浪聞鶯」 西湖東南岸、南宋時代の御花園で園中に柳浪橋があって湖畔の柳の小枝が浪のように揺れ、春には鶯がさえずり道行く人が足を止めて聞き惚れたという。  現在は一七ヘクタール余りの公園に拡張され全園くまなく木立と草花で覆われ、亭や楼閣が相接し、中心部は桜の木が植樹されて日中不再戦記念碑の建立された場所である。
画像9 今年は、岐阜市と杭州市碑文交換から五五周年、日中両国関係改善のため、岐阜県日中友好協会では杭州市で開催される西湖マラソンの応援などを計画されている。
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画像12 二〇一一年六月二四日、フランスのパリで第三五回世界遺産委員会が開かれ「杭州西湖文化遺産」が登録されて以降、杭州政府のみならず杭州市民も西湖文化景観の世界遺産保護に参加している。 柳緑桃紅 色彩鮮明 再来再見

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