中国歴史旅「雲崗石窟と龍門石窟」㉓日誌令和元年10月27日その2

画像1 中国歴史旅「雲崗石窟と龍門石窟」㉓日誌令和元年10月27日その2記録者山本甚吉隊員 一三時一〇分 次の目的地に向かってバス出発。車内は蒸し暑く、車窓より眺める広大なトウモロコシ畑は薄茶色になってえんえんと続いています。  形山、堤、熊田隊員は喬家大院で撮影された「紅夢」のお話や日中戦争終結後の山西省日本軍残留問題を話されていました。
画像2 一四時 喬家大院から南西三五キロの「平遥古城」北門拱極門に到着しました。記録担当者は野呂紘一隊員です。楽しみにしてください。
画像3 私のメモ帳には ①入場券一二五元と電気自動車一〇元。 ②北門拱極門が亀の尾にあたります。 ③入場してすぐに電気自動車に分乗して整然と積まれたレンガの城壁沿いに東に向かって走ります。約五〇〇㍍で北東の角を曲がって南に向かいます。 ④約五〇〇㍍で下東門「親翰門」で「亀の後ろ足」前を通過、さらに五〇〇㍍で新東門、亀の前足あたりで右折しメイン道路に、一本目の路地を左折し南に走り、南城壁約一〇〇㍍手前で右折、西に向かいました。
画像4 ⑤さらに四〇〇㍍で南門「迎熏門」亀の頭の手前で電気自動車から下車。いよいよ平遥古城の散策が南門から始まります。 ⑥南門は二つの門が連接しています。南門の前で記念撮影。 ⑦南門から城壁に登りました。城壁は、明代の建造物でほぼ完全な形で保存されています。明・清の時代に引き込まれる感じを受け、繁華街の賑やかさを想像させてくれます。
画像5 一五時七分 南西方面で花火があがりました。何故?。城壁上を東へ二〇〇㍍歩いてから狭く急な階段を降りて路地にでました。 ⑧孔子廟の「平遥文廟」では、「魅」という文字を染めた旗があり、鄧さんが説明していましたが、聞き取れませんでした。  境内に「太鼓」がありました。一打一元で六打まで打つことができるということ。五元で五打打ちました。でも、五打もうつということは、願い事がなかなか叶えられないときに打ち鳴らす意味になるのだそうです。
画像6 ⑨南門から繁華街を北に向かいます。約二〇〇㍍の四つ角を左折して「聴雨楼」に向かいます。  一五時三七分 聴雨楼をくぐり元代から清代の官庁であった「古衙署(県衙)」に入場しました。一三七〇年に建てられた建築群です。最初に目についた扁額は日本の年賀状に使われている「恭賀新春」です。儀門では、庶民は門の右側をとおり、左側は罪人が通ります。その後、正面の裁判署前に出ます。正堂の扁額には「親民堂」、背後の壁画の上には「明鏡高懸」が書かれていました。※モデルは南城良子さん。
画像7 裁判署から牢獄へ移動中に約二㍍はあろう大きな円盤状の占い器がありました。早速料金一〇元を支払い円盤を回転させました。おみくじの表面には亀城の「亀」の絵と、「神亀八卦時来運轉」の文字が。裏面には運勢が書かれています。「益卦・損上益下・巽上宸下」、馬さんに観てもらいましたが凶ではないそうでした。「外出:有利可荻。大胆外出行動」ということですから、中国歴史旅は順調に進みます。
画像8 一六時三〇分 「協同慶票号」に到着しました。平遥古城の見学を始めてから二時間半が経過しています。票号とは銀行の前身で私的な金融機関だそうです。  一七時 地下金庫から出口に出てきました。  一七時二三分 バス出発。海抜六九一㍍、温度二〇度、湿度?  夕日で空の色が赤系が入り混じって美しい。  車内には、鄧さんの息子さんが乗っていますが、鄧さんのご両親が平遥古城に住んでいて、息子さんはたまたま遊びに来ていたので一緒に帰ることになっていたそうです。
画像9 堀田隊員が翻訳機で息子さんと会話を楽しんでいました。息子さんも翻訳機に興味を持たれていました。車内で鄧さんのアルバイトが始まりました。三種類の品物が紹介されました。私は薬用棗「晋美駿棗」と野生草木「黄芪䇮堪比人参」を買いました。
画像10 一九時三五分 昨日のホテル「山西省政協賓館」に到着しました。さっそく夕食です。メニューをご覧ください。九品目中昨日と同じ料理は二つだけ、残りは違っていました。  二一時五分 部屋で形山隊員からいただいた缶ビールで乾杯。  二三時三〇分 シャワーや明日の準備を済ませてベッドに。  今日の歩数は一三,四九七歩でした。

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