はじめに

生きることが死なないという営為にしないためにはどうすればよいか。ヘルマン・ヘッセの小説は少年情景と生死、そして自然に結び付いていて好きだ。車輪の下を読むと皆、「この主人公は僕だ」と思わせてくれるだろう。題意としてここでは今の僕の死生観をまとめるために、ハンスのこれまた誠実な生き様を見受けた社会と、ひとりぼっちに過ぎない私(或いは私たち)について述べる。ハンスが生きたのは自然あふれる、(これまた自分のもつ情景とよく似た地域)から社会生活に潜り出たドイツ社会。彼は周りの期待を一心に背負い、軈て疲弊してしまう。田舎情景と期待の多かった社会は自分、そしてご多分に心を背負わされる現代日本の若き皆さま方もまた共感する。故に、なにかと彼の死についてよく考える。死とは生の一部だ、と村上春樹的な思想を含めて…

自分が中学時代に虐めをうける一方で、中高時代にある一分野については驚異的に期待を背負っていた。自分に未練がある関係で伏せておくが、自分は勉強をすれば認められるの一念で勉強を続けた。だが鬱病とPTSDですべてが崩れた、という経緯がある。そんな経験をした者なんて少なくないように思う。

おお、死んでしまうとは情けない…

生についてまとめてみる。僕はこれまでの数少ない、だがしかし、自分で言うのもおかしな話だがかなり特質な人生の中の人間関係から以下の人間を知っている。あくまでも僕の眼で見える姿で。

  1. 生きているのに死んでいるような状態

  2. 生きることが死なないという営為になっている状態

  3. 生に肉体が同化している状態の人間

  4. 死んだ人(また、幽霊)

  5. 生死観を持つが自身の死を観念として持たない人間

  6. 死生観のない人間

前後しますが4以外を説明する。
3は良好な人間だ。最高ね。
5は死に対しての興味がないと言えばいいだろうか。読者のイメージとしては「サイコパスだ!鷹の爪とにんにくを入れてペペロンチーノにしてしまおう。」とでも思えば良い。
6に関しては幼い人間は皆そうだと思う。ただし、意外と子供は死生観を持ってたり突飛だが頷けるような死の観念を持ってたりするのは、口角の緩い利口な読者なら存じ上げることだろう。
1、鬱のある人間はこうだ。
2については1と似ているが決して混同してはならない。
余談だが1度鬱になった人間は123のポケダンのエンドコンテンツのような長い道のりのこの手順を踏まなければいけないのだ。

まさに、今回の主題である2は生と死の狭間の状態と言ってもいいだろう。ハンスが社会生活から帰ってきてからの状態はこうだった。また、ヨルシカ/思想犯 の歌詞「死にたくないが生きられない」それこそこの状態だ。

自分が3になれるように、また上気のような状態にならないため、1にもどらないように何ができるかを考えたい。

料理して、よく食べる

加糖中毒をやめて、食事に意味を見出す。栄養学を少し学んで、料理に精を上げて生活をする。実家暮らしで母が作ることの多かったのも含めて成果があげられるかつ、生きるもののタスクになることを増やして達成感を得る。

スケジュールを組む

私が致命的にできないこと。変にものに興味を惹かれるせいで難しいがきちんと日々のスケジュールを組みたい。達成のため、あと自律神経のために。

創作、読書、音楽鑑賞等はほどほどに

前まで常時身体壊れるくらい創作をしていた。読書も。たくさんのお話をしたとして「死ねないから生きている」という状態から僕は脱出できなかったし、この手のタスクはあの加速度が247477457473737337373734756789954322227倍ゆっくりなテトリスをやるようなものだ。そんなタスクを限界までやるには心が荒んでしまうことがわかったし、ほどほどのメンタルの時にやれるようにしたい。だいたいupすると終盤あたりのウェルテルになる。

また何か目標等あったら追記する。息ができるように。なにより生きることが死なないという営為にならないように頑張れ。ファイト。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?