「認知症とどう向き合うか」 文学作品から社会の変化を追う

1 85歳以上の4人に1人が発症する「認知症」

認知症は、脳の神経細胞の働きが低下して、社会生活に支障をきたす状態を指し、発生原因によっていくつかに分類されます。よく聞くアルツハイマー病は認知症の中の分類の1つです。

認知症は85歳以上の4人に1人が発症すると言われている一方で、根本的な治療薬はまだありません。

医療の発達により平均寿命が伸びたことで日本人が向き合わなければならなくなった新たな難題と言えます。


本題に入る前に、そもそも認知症に「向き合う」ということはどういうことか自分なりに整理します。私は3つの側面があると思っています。

1つ目は「医学的側面」。
今年になって新薬が承認されたことが話題になったように医学の進歩に期待すべきところは多くあります。
認知症が完全になくなる時代が来るのはかなり先の話になりそうですが、医学的研究はこれからも必要です。

2つ目は「社会的側面」。
認知症との闘いは家族の中だけで完結すべきものではなく、医療、介護、さまざまな制度による社会的支援が必要です。
以前に比べれば福祉制度が充実してきているとはいえ、それで十分だとは言えません。
もちろんそこには財政的な限度、人材的な限度などさまざまな課題がありますが、医学の進歩が必要であるのと同様に、社会保障制度にも常にも検証を加えて進歩させていくことが不可欠です。

3つ目は「精神的側面」。
認知症は誰もが発症しうるものです。自分が発症するかもしれないし家族が発症するかもしれません。すでにこの記事を読んでいる人にもそのような経験をした人がいるかもしれません。
認知症は純粋な身体的な病とは違い、人格的尊厳に関わる面があるため、本人や本人を支える周りの人にとっても精神的にどう向き合うかということ、どう「心の整理をするか」ということが重要になります。

今回の私の記事ではこの3つの側面のうち「精神的側面」について、小説やエッセイ、映画などを通して社会がどう認知症と向き合ってきたのか見ていきます。


2 先駆け的存在としての小説 「恍惚の人」

まず認知症をテーマにした文学作品の先駆けとして欠かせないのが有吉佐和子氏による1972年の小説「恍惚の人」です。

認知症を発症した舅の介護に奮闘する女性の苦悩を描いた作品で、老人介護問題にスポットライトを当てた点で社会を大きく変えたと言われています。

50年前の作品なので社会の仕組みや価値観において現代と違う点はありますが、それでもなお時代を超え問題提起をし続けています。

・「認知症」という言葉はまだ存在しない

この小説を読んでいて気づいた点が「認知症」という言葉が一度も出てこないことです。

代わりに「痴呆」や「人格欠損」といった言葉が使われています。

このことから当時は認知症を医学的な「病気」として捉えるのではなく、もっと単純に老人がボケたというような捉え方をされていたことがわかります。

描き方としても、認知症患者が人間として、人格を持った存在として、描かれているようには見えません。完全にただの厄介者として扱われています。やはり認知症が「病気である」という認識があるかないかは大きな違いであると私は感じています。

つまり、病気であるという認識があれば「病気のせいであって、その人のせいではない、その人も病気と戦っているんだ」と考えることができます。認知症患者と接する上でこの認識の差はかなり大きいと言えます。

認知症患者は我々には理解できない不可解な行動を取りますが、それを「病気のせいである」と思わなければ、その人の人格そのものに矛先が向かうことがあります。

小説の中では認知症患者に対して「家のことをしないから、いつも不平不満ばかり言ってきたからこういうボケ方をするんだ」という趣旨の会話をしているシーンがありますが、その人の人としての生き方、人格そのものに原因を求めてしまっていることがわかります。

「認知症は脳内にアミロイドベータが蓄積することで生じる病気である」という考え方があれば安易にその人の人生そのものを否定する方向には結びつかないのではないかと感じます。

・認知症患者を支える家族の状況

私がこの記事で触れたことはこの小説のメインテーマではなく、むしろ老人介護をめぐる社会のあり方、家族のあり方、といったことの方がこの小説のメインテーマとなっています。

主人公の昭子は認知症発症前は相当舅にいじめられていて、にも関わらず過酷な介護を強いられ、社会としてどうにか助けなければならないと感じさせられます。

本当は社会的側面についても書きたいことはたくさんあるのですが、この記事の主題からずれてしまうので後日別の記事で書いておきます。

3 谷川俊太郎の詩から見える 「考え方の変化」

さて、近年の文学作品を見ると「恍惚の人」の時代と比較して、認知症に対する考え方が大きく変わっていることがわかります。

その変化が最もよくわかるのが谷川俊太郎の2013年出版の詩集「こころ」に収録された「キンセン」という詩です。全文載せておきます。

「キンセン」
谷川俊太郎

「キンセンに触れたのよ」
きおばあちゃんは繰り返す
「キンイセンって何よ?」と私は訊(き)く
おばあちゃんは答えない
じゃなくて答えられない ぼけているから
じゃなくて認知症だから

辞書をひいてみた
金銭じゃなくて琴線だった
心の琴が鳴ったんだ 共鳴したんだ
いつ? どこで? 何が 誰が触れたの?
おばあちゃんは夢見るようにほほえむだけ

ひとりでご飯が食べられなくなっても
ここがどこか分からなくなっても
自分の名前を忘れてしまっても
おばあちゃんの心は健在

私には見えないところで
いろんな人たちに会っている
きれいな風景を見ている
思い出の中の音楽を聴いている


「おばあちゃんは答えない
じゃなくて答えられない ぼけているから
じゃなくて認知症だから」というフレーズだけでも「恍惚の人」との間で大きな変化が見て取れます。

「その人のせいではない」というあたたかさも感じられるこのフレーズからは「認知症が病気である」という認識が人の考え方を大きく変えることが表れています。

もちろん、症状がもっと深刻だったり、そもそも家族としての関係性がよくなかったり、この詩のような綺麗な言葉では片付けられない状況で大変な思いをしている人は現代の世の中にもたくさんいます。これは「恍惚の人」の時代から変わりません。

しかし、「考え方の変化」というものは感じ取ることができます。


4 認知症患者は 「その人の世界」 を生きている

キンセンには「認知症患者はその人の世界を生きている」という考え方が実に優しい言葉で表現されています。

我々とは違う世界、パラレルワールドともいうべきでしょうか、その人の中だけの世界を生きている認知症患者。

だから、我々から見れば不可解なことも、彼らの世界の中では筋が通っている。その人の人格、「こころ」は生きている。ただ我々の知らない世界にいるだけ。

この考え方は他の作品を読んでいても感じることが多くあります。

例えば「東大教授、若年性アルツハイマーになる」というノンフィクション作品の中では認知症の男性が「僕の生きている世界は大変なんだよ」というシーンがあります。

また、最近話題になった「認知症世界の歩き方」という本は認知症患者が生きている世界を認知症患者目線でまるでファンタジー作品のように描いています。
「顔無し族の村」「二次元銀座商店街」といった独特な表現を使って、認知症患者が抱える困難を我々にも共感できるように巧みな比喩を駆使して描いています。
Webページもなかなか面白いので覗いてみてください。


5 認知症に対する考え方は人それぞれ

前節で触れた「東大教授、若年性アルツハイマーになる」は定年間近で若年性アルツハイマーを発症した東大教授とその妻の歩みが、妻の目線で描かれています。

この夫婦が認知症と向き合う上で重要だったのは間違いなくキリスト教の存在でしょう。2人は共にキリスト教の信者で、その価値観を共有していたことが大きな意味を持っていたことが読み取れます。
宗教は日本では敬遠されますが、絶望的な状況で生きる指針を与えてくれるものなのかもしれません。

もう1つ紹介したいのが、「注文をまちがえる料理店」です。

とあるテレビ局のプロジェクトを描いた作品で、認知症患者がウェイターを務める料理店での出来事が記録されています。

「別に間違えたっていいじゃないか」
そのおおらかさが読者に温かい気持ちをくれます。

しかし、その一方で気をつけなければならないのは、「間違えてもいい」と言えるためには、周りがしっかり環境を整えなければならないということです。

プロジェクトリーダーはこの料理店の準備をする際に、料理の味には相当こだわっていたそうです。「注文は違ったけど美味しかったからいいか」とお客さんに思ってもらうためです。

現実問題、食中毒が出たり、採算が取れなくなって大赤字になったり、そういう面の心配も誰かがしなければなりませんし、そこまで認知症患者に任せることはできません。認知症患者が伸び伸び生きるということのためにはハード面でのそれなりの準備が必要であるということも裏のメッセージとして読み取ることができます。

6 先人たちは何を残したのか

認知症は恐ろしい病です。

ドキュメンタリー映画「ボケますからよろしくお願いします」を観た時の衝撃は忘れられません。

とあるテレビ局職員が認知症を発症した自身の母の姿を記録したこの映画。

優しかった母、尊敬していた母が幼児のようにワガママになり、「死にたい」と泣き叫ぶ姿をみると、「認知症に向き合う」などと薄っぺらい言葉を並べただけの記事を書いている自分が恥ずかしくなります。

では、監督の信友直子さんはなんのためにこの映画を作ったのか。壊れていく生々しい母の姿を動画に収め、それを映画の形にするという一見残酷な行為が信友さんにとって何を意味しているのか。

認知症という病の受け止め方に正解はありません。

しかし、人類は認知症に直面し様々なことを悩み考えて、それぞれがそれぞれの答えを模索し、その結果を後世に残してきました。

実際自分が認知症になったり家族が認知症になった時には、本を読んだり映画を見たり、そんな悠長なことは言っていられないのが現実だと思います。

でもふとした瞬間、迷った時、悩んだ時、苦しんだ時にもしかしたら先人たちが残したものが何かを教えてくれるかもしれない。

この記事で紹介した本や映画の作者たちはそんなことを願っていたのだと思います。

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