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【会津若松と私 その1】

〜3人の女性〜

この春から、お城の近くに勤務していて、
毎日、校舎から見ている。
 
その間、数人の同僚からの不思議体験を聞き、
予想はしていたけれど、程なく私の所にも
やってきた。

…と言っても、
私は肉眼で幽霊が見える人ではなく。
それは一種の映像であり、情報の塊のようなものであり、脳裏に焼き付くような現象として、
特に入浴中と入眠間際にやってくる。
だから、幽霊なのか空想なのかも実は怪しい。
 
そんな、怪しさ満載の中で、記録に残そうと思う。
 
 
11月中旬。
その女性がやってきたのは入浴中だった。

白い着物に長い黒髪で、怒りに満ちた形相だった。
まさに、典型的な「お化け」である。
彼女は、武家に生まれたのか、嫁いできたのか、
定かではない。
ただ、武家にいることによって、
愛する家族を失い、
彼女には自刃(じじん)の選択しかなかった。

「なぜ私ばかりが...」

彼女の怒りの底には、大きな悲しみがあり、
「戦(いくさ)」という、彼女の手では
どうすることもできない世の中の動きに
翻弄された人生だったようだ。
その心境を察すれば、ただただ「無念」としか
言いようがない。
 
しかし、無念を抱えて今の世に現れても、
それは満たされることはない。
亡くなった愛する人のそばへ、
あなたも向かってはどうかと話した時、
彼女の形相は怒りから悲しみへ変化し、
美しい女性の姿になった。
 
彼女を光の世界へ送り届けたあと、入浴しながら
「無念」を想った。

会津戦争(戊辰戦争)が起きたのは、約150年前。
当時約1000人の人々が、1ヶ月も籠城したと
聞いたことがある。
負傷した人も亡くなった人も、
看護をする人も食事を作る人も、
生も死も「ごった煮」のような絵図が、
きっとそこにはあったのだろう。
 
多くの人の命が奪われていく「戦」というものは、
前線で戦うのは男性であり、
家や子供を守って待つのが女性だった。
(会津戦争の場合は、戦った女性も多かったらしい)

藩主が伝記になることはあっても、
その周辺のひとりの藩士が語られることも、
その藩士の家族や恋人が語られることも、
記憶や記録として残されることもほぼない。

ただ、そこにあったであろう多くの女性が感じた
悲しみと怒りと「無念」は、想像できる。
容易に想像できる。
そして、会津若松にしみ込んだそれらを、
痛いほど感じた。

 
偶然にもこの11月は、
私にとっても「無念」の月だった。

そこには、「悲しみ」がついて回り、
私はそんなフィルターでお城を眺めた。

 
11月下旬。
入浴中にやってきたのは、
切られた首を持った少女だった。

切られた首は少女の家族なのかもしれなかった。
少女には色がなく、表情は固まっており、
「解離」していた。

ほどなくして、白髪の老婆もやってきた。

3人の女性に共通していた背景は、
土がむきだしの道路と、その両側に並ぶ古い家々。
きっと若松市内も、
かつてはそのような風景だったのだろう。

そして、なぜに150年も経過しているのに、
今になって、私のところにやってくるのか。
 

それはむしろ、
「無念」を抱えた私が引き寄せた現象
なのかもしれない。

いずれにしても、
私は何かを年内に片付けなければいけないと、
誰かに言われていた。

一体誰に言われたのか。
ただ私がそう思い込んだだけなのかもしれない。
 
当初、心当たりのあった「何か」は、
家族内の問題であり、
11月末には「まだ時期ではない」という
結論が出た。

その結論に愕然とした夜、
私は「父の墓前」へと車を走らせた。
満月のきれいな夜だった。

その道中、月明かりの中で一人墓地を歩く自分を
想像しては「非現実的」だと思い、
結局は途中の郡山で引き返した。

それで「何か」は片付いたと思っていたが、
そうではなかった。

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